昨夜は同僚達と日本酒を痛飲・。今週末からは家内の命日のため帰郷・・。これにて休暇は終了・・。
さて、現在、掛け軸は非常に廉価です。今後も投資的な対象としては適しているとは言えません。だからこそ今、日本古来の掛け軸という文化を気軽に楽しめる時期といえます。
掛け軸はまず床の間か、それに準じる飾って楽しめる場が必要です。掛け軸の飾り方として、前に絵を生かす飾りが必要です。陶磁器であったり、活けた花であったりします。
下の写真は5月の連休時に夏用に田舎での床の間に飾った例です。
本日の画家は小田海僊です。知っている人はほとんどいないでしょうが、文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。2年後、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けていますが、このころに著名な画家である富岡鉄斎に絵を教えたと推定されています。
掛け軸を掛ける時は基本的に立った目線にあわせて高さを調整しますが、座ってみるように描かれている作品もあります。本日はそのように描かれた作品です。ちょっとピンボケはご容赦願います。
春江漁楽 小田海僊筆
絹本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2050*横670 画サイズ:縦1220*横520
屏風でも横から観てみるとか、絵の鑑賞の日本の文化がどんどん忘れ去られていきます。美術館で屏風を横から眺めたり、掛け軸を座った目線で観たりすることは不可能です。そういう点でも美術館は美術品鑑賞の最適な場としては疑問があるということに通じます。
賛を楽しんだり、観方を掛け軸を飾った床の間にしてみたり、箱書を調べたり、これからはこんな趣味をもつ人が少なくなることを懸念しています。
また学芸員という人の中には、知識はあっても実際に自分で購入するという行為が伴わないので、全く「勘」が働かない人が多いと聞いています。
賛は「春江漁楽 己亥小春法唐六 如意於花浦□□ 海僊」と記され、1839年(天保10年)54歳頃の作品と推察されます。印章は白文朱方印「王贏之印」、朱文白方印「巨海之印」が押印されています。
網を仕掛けている間のひと時を船の上で、お茶かお酒を飲んで過ごしている情景でしょうか。のんびりとした雰囲気が山水の風景や人の顔にて伝わってくる佳作です。
巻き止めには「海僊春江漁景」とあり、小さな印章が押印されていますが、詳細は不明です。
小田海僊:天明5年(1785年)~文久2年閏8月24日(1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家。 通称良平、名は羸(るい)または瀛(えい)。 字を巨海、号は海僊の他に百谷または百穀。周防国富海(現 山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現 山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競ったが、やがて頼山陽に感化され南画に転向。九州に遊学し、中国元明時代の古書画の模写をするなどして研究を重ねて、独自の画風を確立した。文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。2年後、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている
さて、現在、掛け軸は非常に廉価です。今後も投資的な対象としては適しているとは言えません。だからこそ今、日本古来の掛け軸という文化を気軽に楽しめる時期といえます。
掛け軸はまず床の間か、それに準じる飾って楽しめる場が必要です。掛け軸の飾り方として、前に絵を生かす飾りが必要です。陶磁器であったり、活けた花であったりします。
下の写真は5月の連休時に夏用に田舎での床の間に飾った例です。
本日の画家は小田海僊です。知っている人はほとんどいないでしょうが、文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。2年後、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けていますが、このころに著名な画家である富岡鉄斎に絵を教えたと推定されています。
掛け軸を掛ける時は基本的に立った目線にあわせて高さを調整しますが、座ってみるように描かれている作品もあります。本日はそのように描かれた作品です。ちょっとピンボケはご容赦願います。
春江漁楽 小田海僊筆
絹本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2050*横670 画サイズ:縦1220*横520
屏風でも横から観てみるとか、絵の鑑賞の日本の文化がどんどん忘れ去られていきます。美術館で屏風を横から眺めたり、掛け軸を座った目線で観たりすることは不可能です。そういう点でも美術館は美術品鑑賞の最適な場としては疑問があるということに通じます。
賛を楽しんだり、観方を掛け軸を飾った床の間にしてみたり、箱書を調べたり、これからはこんな趣味をもつ人が少なくなることを懸念しています。
また学芸員という人の中には、知識はあっても実際に自分で購入するという行為が伴わないので、全く「勘」が働かない人が多いと聞いています。
賛は「春江漁楽 己亥小春法唐六 如意於花浦□□ 海僊」と記され、1839年(天保10年)54歳頃の作品と推察されます。印章は白文朱方印「王贏之印」、朱文白方印「巨海之印」が押印されています。
網を仕掛けている間のひと時を船の上で、お茶かお酒を飲んで過ごしている情景でしょうか。のんびりとした雰囲気が山水の風景や人の顔にて伝わってくる佳作です。
巻き止めには「海僊春江漁景」とあり、小さな印章が押印されていますが、詳細は不明です。
小田海僊:天明5年(1785年)~文久2年閏8月24日(1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家。 通称良平、名は羸(るい)または瀛(えい)。 字を巨海、号は海僊の他に百谷または百穀。周防国富海(現 山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現 山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競ったが、やがて頼山陽に感化され南画に転向。九州に遊学し、中国元明時代の古書画の模写をするなどして研究を重ねて、独自の画風を確立した。文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。2年後、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている