本作品は当方にて幾つかの作品を所蔵している平櫛田中の検証の目的もあって入手した作品です。
太子さんについての手記 平櫛田中筆 91歳 昭和37年作
軸先本象牙 共箱・タトウ
表具サイズ:長さ885*幅303 作品サイズ:縦270*横390
箱裏に「昭和壬寅(昭和37年 1962年)一二月 九十一翁中誌之」と記されています。
手記には
「太子さんと良寛さんは新しく完成し
ましたので会場を美しく賑やかにするに□□ました
太子さんの御顔は青邨先生に描いて
貰いました なんと明朗で清新なのでせう
そして英邁の気は眉宇(びう)に漲って居ります
鬚鬢を一本も描かなかった青邨先生に 頭を下げました
壬寅十二月 棹太郎 押印
石膏の着彩は前後二回
法隆寺聖霊殿の御本尊の
顔の毛がきを写したものです
青邨先生の彩色と合 せ見ていただきます」
とあります。
個々で記されている太子さんは聖徳太子像のことでしょうか? また良寛さんは良寛像のことでしょうか?
インターネットで検索した上記の写真や下記の写真の像がこの手記の作品かどうかは確証がありません。
ここで気になるのは「太子さんの御顔は青邨先生に描いて 貰いました・・・・鬚鬢を一本も描かなかった青邨先生に 頭を下げました」という部分です。お願いして描いてなかった鬚鬢を描いて頂いたのか、はたまた自分で鬚鬢を描いたのかもしれません。
手記の印章や箱裏の印章は下記のとおりです。
手記の印章の朱文白方印「平櫛田中」は代表的な印象です。箱裏の朱文白方印「不老?」、白文朱二重方印「棹」は使用例が少ないと思われます。
手記を頂いた方が表具して、平櫛田中から箱書きしてもらったのでしょうか?
どのような経緯からかは解りませんが、箱書きが昭和37年(1962年)となっており、タトウにはその翌年の昭和38年(1963年)にて三越本店にて入手したように推測されます。手記を頂いたのは三越関連の方かもしれません。
この頃の平櫛田中は、昭和37年に文化勲章を受章し、さらに昭和37年「鏡獅子」の想をねり、昭和38、39年の院展に試作を発表しています(完成作は20年後の58年第43回院展に出品)。
印章らの資料と共にいろんなことが解る作品だと思いますが、これも経験ですね。
太子さんについての手記 平櫛田中筆 91歳 昭和37年作
軸先本象牙 共箱・タトウ
表具サイズ:長さ885*幅303 作品サイズ:縦270*横390
箱裏に「昭和壬寅(昭和37年 1962年)一二月 九十一翁中誌之」と記されています。
手記には
「太子さんと良寛さんは新しく完成し
ましたので会場を美しく賑やかにするに□□ました
太子さんの御顔は青邨先生に描いて
貰いました なんと明朗で清新なのでせう
そして英邁の気は眉宇(びう)に漲って居ります
鬚鬢を一本も描かなかった青邨先生に 頭を下げました
壬寅十二月 棹太郎 押印
石膏の着彩は前後二回
法隆寺聖霊殿の御本尊の
顔の毛がきを写したものです
青邨先生の彩色と合 せ見ていただきます」
とあります。
個々で記されている太子さんは聖徳太子像のことでしょうか? また良寛さんは良寛像のことでしょうか?
インターネットで検索した上記の写真や下記の写真の像がこの手記の作品かどうかは確証がありません。
ここで気になるのは「太子さんの御顔は青邨先生に描いて 貰いました・・・・鬚鬢を一本も描かなかった青邨先生に 頭を下げました」という部分です。お願いして描いてなかった鬚鬢を描いて頂いたのか、はたまた自分で鬚鬢を描いたのかもしれません。
手記の印章や箱裏の印章は下記のとおりです。
手記の印章の朱文白方印「平櫛田中」は代表的な印象です。箱裏の朱文白方印「不老?」、白文朱二重方印「棹」は使用例が少ないと思われます。
手記を頂いた方が表具して、平櫛田中から箱書きしてもらったのでしょうか?
どのような経緯からかは解りませんが、箱書きが昭和37年(1962年)となっており、タトウにはその翌年の昭和38年(1963年)にて三越本店にて入手したように推測されます。手記を頂いたのは三越関連の方かもしれません。
この頃の平櫛田中は、昭和37年に文化勲章を受章し、さらに昭和37年「鏡獅子」の想をねり、昭和38、39年の院展に試作を発表しています(完成作は20年後の58年第43回院展に出品)。
印章らの資料と共にいろんなことが解る作品だと思いますが、これも経験ですね。