夕刻に帰宅すると庭から息子の声、どうやら家内と山椒の花を摘んでいるようです。アゲハチョウを引き寄せる山椒の木が2本庭に植えられています。
いつもこの時期は我が家の食卓に・・、山椒の花、上品な香りと辛味を味わえる意外にも高級食材・・。花を摘んでからすぐに食するのが風味を味わうコツらしい。
少しは花を残しておきました。これからはアゲハチョウの季節。幼虫は葉を食べます。
本日の画題は「張果老」・・・、本ブログでは「張果老」を描いた作品を安田靫彦や倉田松濤の作品にて幾つか紹介していますが、本日は本ブログにてお馴染みの郷里の画家である寺崎廣業の作品が描いた作品を紹介します。
張果老図 寺崎廣業筆 明治31年(1898年)頃
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:横530*縦2100 画サイズ:横410*縦1130
まだ未熟な感じのする寺崎廣業の初期の頃の作ですね。
「張果老」についての記述は下記のとおりです。
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張 果(ちょう か、生没年不詳):中国の代表的な仙人である八仙の一人。敬称を込めて、「張果老」と呼ばれる。唐の玄宗時期に宮廷に招かれ、様々な方術を見せた。天宝年間に尸解(死んで肉体から解脱し、仙人になる)したといわれる。正史にも名を連ね、多くの伝承を残している。
恒州の条山にこもり、近隣には数百歳と自称していた。白い驢馬に乗り、一日に数千里を移動した。休むときに驢馬を紙のように折り畳んで箱にしまい、乗る時には水を吹きかけて驢馬に変えたという。 則天武后に招かれて山を降りた時に死に、死体は腐敗してしまった。しかし後日、生き返っているところを発見された。開元22年(734年)、玄宗は通事舎人・裴晤を使わして張果を迎えようとしたが、また死んでしまった。裴晤が死体に向かって玄宗の意を伝えると、死んでいた張果は息を吹き返した。玄宗は改めて中書舎人・徐嶠を送り、張果は朝廷に出仕することになった。
張果は、玄宗に老いていることを問われ、白髪を抜き、歯をたたき割った。すぐに黒髪、白い歯が生えてきたという。また、玄宗が妹の玉真公主を自分に嫁がせようとしているのを予言したこと、酒樽を童子に変えたことなどさまざまな法術を行った。食事は酒と丸薬だけしかとらず、法術について問われると、いつもでたらめな回答をしたと言われる。
師夜光や邢和璞という法術を行うものたちにも、正体を見定めることはできなかった。玄宗は高力士に相談し、本当の仙人か見定めるため、張果に毒酒を飲ませた。張果は「うまい酒ではない」といい、毒で焦げた歯をたたき落とし、膏薬を歯茎に貼って眠った。目を覚ました時には歯は生えそろっていたという。そのため、玄宗は真の仙人と認め、銀青光禄大夫と通玄先生の号を与えた。
玄宗は道士の葉法善に張果の正体を問うた。葉法善は「正体を話すと、言った瞬間に殺されるので、その後で張果に命乞いを行って欲しい。」と約束をとりつけた上で、張果の正体が渾沌が生まれた時に現れた白蝙蝠の精であると話した。言い終わると、葉法善は体中の穴から血を流して死んだ。玄宗は張果に冠を脱ぎ、裸足になって命乞いをした。張果が葉法善の顔に水を吹きかけるとすぐに蘇生したという。
張果は恒州に帰ることを願ったため、詔により許された。天宝元年(742年)、玄宗は再び召し出したが、張果は急死してしまった。葬儀の後、棺桶を開くと死体は消えており、尸解仙になったと噂された。玄宗はこれを機に神仙を信じるようになったと言われる。
著作に、開元22年に献上した『丹砂訣』及び『陰符経太無伝』『陰符経弁命論』『氣訣』『神仙得道霊薬経』『罔象成名図』が伝えられる。 隋唐演義に登場し、八仙の一人として東遊記にも登場している。 また、同時代の道士・羅公遠との術比べでは、及ばなかったという説話も伝わっている
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ともかく常人離れというか、奇人であるようなので、寺崎廣業が描いた本作品のような様相になるのであろう・・・
一見すると寺崎廣業の真作と思われない方もおられるでしょうが、落款や印章から寺崎廣業筆の明治31年(1898年)頃と思われる初期の作品と解ります。
印章は「廣業」の朱文白二重丸印。この印が作品に押印されてのは秀斎時代の明治20年頃から明治30年頃までと思われます。後に使われたのは朱文の単線の同様の印と混同されがちです。
初期の号の「秀斎」から「廣業」の号の移った頃の作でしょうか?
この頃の作品の残存数は少なく当方には下記の2作品を本ブログで紹介しています。
1.勿来の関 寺崎廣業筆 明治17年
(1884年)頃
2.仲麿観月図 寺崎廣業筆 明治32年
(1899年)頃
また二本廣業の落款の「業」の五画目が極端に下がるのは明治30年頃の短期間のみの作品の特徴です。
まだ初期の作で稚拙なところもありますが、この時期の作品は残存数も少なく資料的には貴重な作品となります。