夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

乾山銘雲錦手椿絵鉢 犬山焼 幕末頃

2022-01-08 00:01:00 | 陶磁器
大雪であった帰郷も年始は穏やかでした。リビングでおせちを食べながら、庭の「なんてん」と共に初日の出を見ることができました。これは短い時間ながらとても贅沢な経験であり、吉祥の兆しかもしれません。

*ナンテンは音が「難転」、すなわち「難を転ずる」に通ずることから、縁起の良い木とされています。そのため鬼門または裏鬼門に植えると良いなどという俗信があります。福寿草とセットで、「災い転じて福となす」ともいわれます。東京に自宅は玄関前に福寿草が植えられていますが、このような縁起について知らない方が多いようです。



さて本日の作品の紹介です。有名な尾形乾山の銘「乾山」という銘が記されている作品は数多く出回っていて、その多くが贋作、模造品、もしくはブランド銘ですが、その中でそれらとは一線を画すべき作品群があります。



乾山銘雲錦手椿絵鉢 犬山焼 幕末頃
真葛香山鑑定箱
口径183~185*高台外径74*高さ75~79



犬山焼の乾山:明治時代、幕末頃から犬山焼では乾山写しの雲錦手を作るようになります。果たして尾形乾山に雲錦手があるかどうかは断定できませんが、犬山焼を音読みすると「ケンザン」になるので、これをシャレで「乾山」とかいて「犬山」と読ませたものであろうと推測されています。



決して組織的に乾山の贋作を作ったものではないと作品群とされています。しかし、これを知らない人が、高台内に乾山と書いてあるのを尾形乾山作と勘違いして売買することが生じます。犬山焼で「乾山」と銘のあるのは雲錦手だけなので、雲錦手にて乾山とあったら犬山焼を疑う必要がありますね。

しかも本作品には真葛香山らしき鑑定箱書きまで付いています。



真葛香山については他のブログ記事にもありますが、概略は下記のとおりです。

初代:宮川香山(みやがわ こうざん、男性、天保13年1月6日(1842年2月15日)~大正5年(1916年)5月20日)は、日本の陶芸家。明治時代の日本を代表する陶工。高浮彫、真葛焼(横浜焼)の創始者、帝室技芸員。2代目宮川香山・宮川半之助は養子。海外ではMakuzu Kozanとしても知られている。



2代~4代:初代宮川香山には男子は無く、宮川香山の名は養子の宮川半之助が2代目を継承した。また初代の女婿に宮川恒助があり、初代・2代目とともに真葛窯の運営に当たり、窯の事務などを担当していた。

1941年(昭和16年)に2代目が死去し、2代目の長男宮川葛之輔が3代目を継いだ。3代にわたって高い技量で名声を得たが、3代目は1945年(昭和20年)の横浜大空襲に罹災し窯・家は全焼、3代目と家族・職人計11名が死亡した。

宮川家では3代目の弟宮川智之助が平塚市に疎開しており難を逃れ、戦後智之助が4代目宮川香山を名乗り、窯を起こしたが、作品の復興は成らず、4代目の死をもって真葛焼は廃窯となり、香山の名も絶えた。江戸時代の宮川長造以前に分かれた本家筋の真葛宮川香斎家や初代の弟子筋に当たる窯元などが「香」の字のついた号を名乗り、香山の盛名を伝えている。

この箱書は何代目の箱書きの贋作という見解もあるでしょうが、「犬山焼の乾山銘」としたほうが妥当でしょう。



幕末・明治期の犬山焼

天保13年(1842年)、 犬山城の南東方にある余坂村の犬山城御用瓦師高山市朗兵衛の株を譲り受けた尾関作十郎信業、その瓦窯から出火した火災は折からの南東風にあおられて余坂・魚屋町を焼き尽くして城内に延焼する大火となりました。その責を問われ、一宮の代官所に連衡されたが住民らの嘆願により罪をゆるされ3日ほどで放免となっています。作十郎は火災のことを考慮して丸山へ移し、さらに、加藤清蔵や惣兵衛の犬山焼を援助しましたが、両名の経営が不振となったので、慶応2年(1866年)9月に至って作十郎はこの株を譲り受ける事にしました。



信業は天性怜悧で学問に親しみ 当地方の殖産を考え自ら養蚕すら試しに手がけたといいます。隠居後は関平といい、俳句もたしなみ俳名を閑夫と号した(明治12年八月歿)どうです。



明治元年犬山藩が誕生し 同4年4月には犬山藩物産方でも工業振興のため窯業を始め、加藤善治に窯方を担当させましたが、翌5年の廃藩と共に廃止されます。一方信業のもとでは清蔵・惣兵衛の二人が協力して 明治4年のオーストラリア博覧会に犬山焼を出品しましたが まもなく両名とも高齢のために廃業となります。

*天保2 (1831) 年頃から染付や乾山風 (→尾形乾山 ) の焼物も作られたとされています。



信業はその間次第に犬山焼の生産量を高める一方で明治10年には内国勧業博覧会へ出品し、さらに各府県博覧会・共進会にも積極的に出品し、技術の革新につとめていた 。そうした実績を買われて明治11年には愛知県から「陶器製造資本金」として300円の貸与をうけています。



信業やその子、信美(二代作十郎)は 独立小資本での将来を思案し、また時の群長松山義根の助言をうけ、明治16年11月に至って町内外から出資者を募って犬山焼会社を設立したが、この際にも愛知県は資本金の一部にと480円を貸与して犬山焼の育成を図っています。

ところが明治24年の濃尾大地震による被害は甚大で工場のすべてが大破したため、ついに会社を解散して廃業のやむなきに至ります。二代目作十郎は廃絶を憂い、窯を復興しました。



尾形乾山の銘:野々村仁清が作品に印を入れるのに対して、乾山は例外なく銘を入れます。その書体は鑑定の大きなポイントとなりますが、その書には相当自信があったようで、若い頃から晩年までその書体にあまり変わりはありません。



ただ銘に場合は必ずしも一種ではなく、商標として弟子が書したものもあるようです。野々村仁清と同様に色絵制作の全工程をひとりでこなすことは不可能で必ずある程度分業となっています。なお乾山は二代、三代とあり、その書体の特徴は各々違いがあります。



絵師の伊藤若冲にも工房作品らしき作が数多くあり、印章に若干の違いを付けていますし、近代では浜田庄司の箱書の印章も工房作品とは使いわけています。酒井田柿右衛門もしかりですね。



この書体にはやはり尾形乾山の銘とは違和感があります。



この作品は乾山ではなく、犬山焼の雲錦手の優品と判断しています。決して乾山銘の贋作や模倣作品として粗末に扱ってはいけません。

ちなみに同手の作品が「なんでも鑑定団」に出品されています。

参考作品
雲錦手大皿 古犬山焼
なんでも鑑定団出品作 2012年6月5日放送 評価金額100万



なんでも鑑定団の評:180年くらい前の天保年間に作られた物。扶桑町の隣の犬山市に丸山窯という窯跡があるが、そこで焼かれた物。
裏に「乾山」と書かれているが、これは「犬山」を「けんざん」と音読みして、京都の名工尾形乾山の名を持ってきたもの。その銘の部分に化粧土をかけてある(打掛)のが古いものの証拠。表の絵も雲錦模様と呼ばれる良いもので、灰白色の化粧土を薄くかけて、まるで霞がかかったように見せている。

評価金額は100万円・・・?、一桁高いでしょうが、本作品はこのなんでも鑑定団出品作よりモダンで茶味があり数段出来がよいですね。



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