本ブログもだいたい200名の方々が閲覧されており、固定化されてきたようです。200名というとだいたい16万件のブログが毎日書かれており、その内の5000番目らしいです。
政治は最近、まっとうな道を歩み始めたようです。じっくり見ていようではありませんか。
白洲正子は「政治を論じて、日本を心配してくれとは誰も頼んでいない。自分の仕事をちゃんとおやりなさい。」と言ったとか言わないとか・・、ゴセツごもっと。
さて現在、各種資料を見直し中・・、骨董を始めた頃には「狩野」と名があれば掛け軸の価値があると思い込んだり、「藤原」と聞けば備前焼の人間国宝の作品かと色めきたったりして、俗人の欲に染まっていました。今も大しては変わりませんが、それなりに高い授業料を支払って観る眼は出来てきたようです。
それでもまだダメですね、・・と反省しきりです。田舎者ゆえにまだ世間知らずな面があります。ただ、ビジネスにしていませんので、わりと許容できる幅はひろいですが、もっと厳しく作品を観ないといけないと思います。
さて、本日は人気のない画家の優れた作品を掘り出そうとしたものです。
春木南溟は「波濤飛鶴図 春木南溟筆」に続く第二作目です。
型にはまった感はあるもののしっかりとした筆法で描かれており、侮れない画家の一人でしょう。
青緑山水図 春木南溟筆
絹本着色軸装軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1835*横530 画サイズ:縦1095*横370
箱書には「春木南溟筆淡青緑山水画」とありまた「設色山水」ともあります。春木南溟は谷文晁とともに「天下の二老」と称された春木南湖の子であり、父の画風を受け継ぎ、山水、人物、花鳥と得意とした。その画は山内容堂や松平確堂らにも愛され、特に山内容堂は橋場の別邸と隣に家を建て、南溟を住まわさせていたという。
参考資料 思文閣発刊「和の美」第425号 作品NO11「林和靖愛梅図」「陶淵明帰去来図」
このような山水画は基本的に座敷の床の間に飾られて、座敷に座して見上げるようにして鑑賞することを前提に描かれています。それゆえに岩はせり出すように描かれていることが多いです。
隠棲生活は文人の理想とされ、画題の好適として林和靖、陶淵明の両者が選ばれることが多い。
谷文晁の青緑山水画と同じように、春木南溟は細部にいたるまで繊細かつ精密に描かれることが多いようです。
春木南溟(はるき-なんめい): 1795-1878江戸後期-明治時代の画家。寛政7年生まれ。春木南湖の子。父の画法をついで山水・花鳥画を得意とした。明治10年第1回内国勧業博覧会に「日光霧降滝図」を出品。明治11年12月12日死去。84歳。江戸出身。名は秀煕,竜。字(あざな)は敬一,子緝。通称は卯之助。別号に耕雲漁者。
左は本作品の落款と印章で右は思文閣発刊の作品の印章と落款です。
このような南画も良さを見直されることなく、ぞんざいに扱われ、日本の文化から消えようとしています。床の間もなく飾ることもままならない作品は良いものは美術館に収まり、その他はやがてカビが生えて消え去っていく運命です。
よく美術館に寄付する御仁がいますが、理由は維持管理、相続税が大変なことによります。
美術館に収納された作品も滅多に観ることもなく、観ることができてもまったく鑑賞方法が違うガラス越しのもので、動物園の檻の中の動物と同じです。
私は決して美術館などに寄付などは絶対にしません。そうするくらいなら焼き捨てます。
ま~、美術館で引き取るほどの立派な作品などは一つもありませんが・・
政治は最近、まっとうな道を歩み始めたようです。じっくり見ていようではありませんか。
白洲正子は「政治を論じて、日本を心配してくれとは誰も頼んでいない。自分の仕事をちゃんとおやりなさい。」と言ったとか言わないとか・・、ゴセツごもっと。
さて現在、各種資料を見直し中・・、骨董を始めた頃には「狩野」と名があれば掛け軸の価値があると思い込んだり、「藤原」と聞けば備前焼の人間国宝の作品かと色めきたったりして、俗人の欲に染まっていました。今も大しては変わりませんが、それなりに高い授業料を支払って観る眼は出来てきたようです。
それでもまだダメですね、・・と反省しきりです。田舎者ゆえにまだ世間知らずな面があります。ただ、ビジネスにしていませんので、わりと許容できる幅はひろいですが、もっと厳しく作品を観ないといけないと思います。
さて、本日は人気のない画家の優れた作品を掘り出そうとしたものです。
春木南溟は「波濤飛鶴図 春木南溟筆」に続く第二作目です。
型にはまった感はあるもののしっかりとした筆法で描かれており、侮れない画家の一人でしょう。
青緑山水図 春木南溟筆
絹本着色軸装軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1835*横530 画サイズ:縦1095*横370
箱書には「春木南溟筆淡青緑山水画」とありまた「設色山水」ともあります。春木南溟は谷文晁とともに「天下の二老」と称された春木南湖の子であり、父の画風を受け継ぎ、山水、人物、花鳥と得意とした。その画は山内容堂や松平確堂らにも愛され、特に山内容堂は橋場の別邸と隣に家を建て、南溟を住まわさせていたという。
参考資料 思文閣発刊「和の美」第425号 作品NO11「林和靖愛梅図」「陶淵明帰去来図」
このような山水画は基本的に座敷の床の間に飾られて、座敷に座して見上げるようにして鑑賞することを前提に描かれています。それゆえに岩はせり出すように描かれていることが多いです。
隠棲生活は文人の理想とされ、画題の好適として林和靖、陶淵明の両者が選ばれることが多い。
谷文晁の青緑山水画と同じように、春木南溟は細部にいたるまで繊細かつ精密に描かれることが多いようです。
春木南溟(はるき-なんめい): 1795-1878江戸後期-明治時代の画家。寛政7年生まれ。春木南湖の子。父の画法をついで山水・花鳥画を得意とした。明治10年第1回内国勧業博覧会に「日光霧降滝図」を出品。明治11年12月12日死去。84歳。江戸出身。名は秀煕,竜。字(あざな)は敬一,子緝。通称は卯之助。別号に耕雲漁者。
左は本作品の落款と印章で右は思文閣発刊の作品の印章と落款です。
このような南画も良さを見直されることなく、ぞんざいに扱われ、日本の文化から消えようとしています。床の間もなく飾ることもままならない作品は良いものは美術館に収まり、その他はやがてカビが生えて消え去っていく運命です。
よく美術館に寄付する御仁がいますが、理由は維持管理、相続税が大変なことによります。
美術館に収納された作品も滅多に観ることもなく、観ることができてもまったく鑑賞方法が違うガラス越しのもので、動物園の檻の中の動物と同じです。
私は決して美術館などに寄付などは絶対にしません。そうするくらいなら焼き捨てます。
ま~、美術館で引き取るほどの立派な作品などは一つもありませんが・・