夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

虎之図 伝片山楊谷筆

2025-01-06 00:01:00 | 掛け軸
因幡派の祖とも称される片山楊谷の作品はにおいては、特にその虎の絵は、虎の毛を細い線で丹念に表し、「楊谷の毛描き」と呼ばれています。
 


江戸期における虎を描いた画家で著名なのは、円山応挙や岸駒といった画家ですが、多くの画家が描いています。ただ実物を見て描いた画家は皆無だったので、どちらかというと写実性の乏しい作品ですね。近代になって大橋翠石に代表されるような画家が現れて、本格的に写実性の高い作品を生み出すようになります。

本日はいままで幾つかの片山楊谷の作品を紹介していますが、虎を描いた作品の紹介です。


虎之図 伝片山楊谷筆
絹本水墨着色軸装 軸先樹脂 誂箱
全体サイズ:縦1940*横478 画サイズ:縦1145*横342

 

片山楊谷は長崎の人で、画風は費漢源に近く、その弟子に画法を学んだと推測されています。しかし徐々に、沈南蘋や他の長崎派の画風も摂取していったことが画風に現れています。



1795年(寛政7年)湯治のため藩の許しを得て京都に行き、画名を得たとされますが、その際に円山応挙に弟子入りを請うと、応挙はその画才を見て驚嘆し、弟子ではなく友人として迎えたという逸話があります。



また長崎特有の異国情緒漂う画風に、奇抜は構図、鮮烈な色彩を用いて特異な作品を多く残していますが、その風貌は、体つきは小さかったが、鳶のように角ばったいかり肩をしていて、鋭い眼光を放ち、へりくだることのない厳しい気性にあふれていたと伝わります。さらに常に紫の糸で頭髪を束ね、大道を堂々と闊歩し、人々の注目を浴びていたと伝わっており、大酒飲みの逸話も残遺っています。そのことが祟ってかどうかは不明ですが、享和元年、但馬の湯村温泉において42歳の若さで死去しています。



本作品はそれほど書き込みの多い作品ではありませんが、楊谷の特徴が備わってる作品と言えるのでしょう。



なお片山楊谷は1792年(寛政4年)鳥取藩士で茶道役の片山家に夫婦とも養子となり、翌年家督を継ぎ、亡くなるまで9年間務めていますが、この時期以降の作には 落款にはこれまで記していた「瓊浦」という号をを用いていません。以降の多くは「稲葉」を記しているか、「楊谷」のみとなります。

この作品の印章は朱文白方印については未確認ですのが、後学となります。

 

虎を描いた片山楊谷の作品では下記の作品が著名です。

「花王獣王図」
鳥取県立博物館蔵 



下記の作品はなんでも鑑定団に出品され、片山楊谷の名を世に知らしめた作品です。

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なんでも鑑定団出品作 2010年9月28日放送





評:1200万円
楊谷の中でもこれほどの力作・大作はなかなかない。細かく、しかし非常に力強い毛描き。肩の筋肉まで感じられる。楊谷が長崎を出て間もない頃、20代前半頃の作と思われる。江戸中期に全国に影響を与えた長崎派は因幡画壇でも花開いたが、これまで注目されていなかった。こういう作品が発見されることで注目を集めるようになるかもしれない。

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活躍期間が少なく、作品数も少ないことから贋作は少ないとされているようですが、それでも贋作はあるようですので、本作品は「伝」とさせていただきます。


















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