夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

気になる作品 平田玉蘊燭坐図 柴田義董筆 頼山陽賛?

2020-12-14 00:01:00 | 掛け軸
この作品は賛を理解せずして、また頼山陽と平田玉蘊の関連を知らずしては価値の解らない作品でしょう。悲恋の作品・・・。

平田玉蘊燭坐図 柴田義董筆 頼山陽賛?
絹本着色軸装 軸先蒔絵 杉細工箱入
全体サイズ:縦1155*横333  画サイズ:縦375*横148

 

まずは賛の解読ですね。



漢詩は七言律詩で
「獨倚銀屏釵影横 酒醒燈冷此時情 柔腸九曲向誰語 付與隣樓絃索聲」(美人燭坐図 頼山陽)となり、
意味は「独り銀屏に倚って釵の影横たわり 酒醒め灯冷ややかなりこの時の情 柔腸九曲誰に向かって語らん 付与す隣樓絃索の聲」ですが、
解りやすく言うと「一人で銀屏風にもたれてかんざしの影が畳に延びる、お酒の酔いが醒めて灯りも冷ややかに感じられるこの時の心情 やわき腸の曲折するような苦しみを誰に語ったらよいのでしょう、隣の楼からは弦楽器の音が聞こえています」です。
*漢詩の区分でいうと「香匳體」に属するらしいです。

**香匳體(こうれんたい):香匳とは香を入れる箱、女性の化粧道具を入れる箱の意で、「香匳體」とは晩唐の韓・が編集した「香匳集」から始まる詩の一体で、「婦人艶情 媚態 閨怨を歌った作品」を指して云うとのこと。



ちなみに台湾の某レストランの「柔腸寸断」という料理は、シェフが失恋したときに考案した料理で、切り刻まれて油で揚げられたような心情をあらわして名づけた名前と言われています。

 

賛は「珊洋題」とあり、「山陽」をもじっているのかな? 印章、賛の遊印から頼山陽を意図していると断定されます。



元の有名な漢詩は
「美人燭坐図 頼山陽 
獨倚銀屏釵影横 酒醒燈冷此時情(独り銀屏に倚って釵の影横たわり 酒醒め灯冷ややかなりこの時の情)
芳心一點向誰語 付與隣樓絃索聲(芳心(他人を敬ってその親切な心をいう語)一点誰に向かって語らん 付与す隣樓絃索」)です。

なお義董の師である松村呉春と頼山陽は親交があったと思われます。



頼山陽や本作品を描いた柴田義董については記述するまでもないでしょう。

 

平田玉蘊についてはあらめて下記のとおりです。

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平田玉蘊:江戸後期に活躍した四条派の女流画家。尾道市の豪商「福岡屋」(木綿問屋)の娘として生まれた。父・新太郎(画号:五峰)の画の師とされる福原五岳をはじめ、田能村竹田や菅茶山ら多くの文化人と親交があり、中でも頼山陽との悲恋は有名である。代表作の一つ、襖絵「美人船遊図」(福善寺)をテーマにした記念碑が2005年完成。玉蘊が眠る平田家菩提寺の持光寺にあるそれは、世界でも珍しい陶板絵で作られている。父五峯が亡くなったとき、玉蘊は20歳だった。10代後半の作品には「豊女」とサインされていた。そこからすると10代後半からすでに画家としてデビューしていたのではないか。美少年だった父五峯と相当の美貌の持ち主だった母峯との間に生まれた、画家姉妹もまた美しさと才能で評判になり、当時の学者・文化人などから賞賛されていた。
   
玉蘊女史を訪い書贈     張梅花
玉蘊賢媛名久聞        玉蘊賢媛(ぎょくうんけんえん) 名久しく聞ゆ
豈憶遥来此問文        あに憶わんや遥かに来たり此に文を問うを
無声詩至有声詩         無声の詩 有声の詩に至る
閑雅風姿誰若君         閑雅風姿 誰か君にしかん
                       (『閨秀画家玉蘊女史の研究』下の五)

【玉蘊の美しい人だという名声は久しく聞いておりました。はるばるここに来て、あなたと話し合うなんて思いをしませんでした。無声の詩といわれる絵でしかあなたを知りませんでしたが、いま目の前に有声の詩としてあなたがいます。その閑雅な姿は誰と比べようがありましょうか。あなたに及ぶ人はいますまい】

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平田玉蘊と頼山陽の悲恋の物語はここでは詳しくは述べませんが、興味深い物語があります。この作品は間違いなく柴田義董の作ですが、柴田義董は1780年生まれで、1819年に40歳で亡くなっています。頼山陽も1780年に生まれ、1832年に50歳で亡くなっています。これから少なくても本作品は1819年までに描かれた作品と推定されるでしょう。



平田玉蘊と頼山陽が出会ったのは1807年です。すぐに恋に落ち、1811年には上洛して頼山陽と会っています。事情があって二人は京都では結ばれず、その後に平田玉蘊は他の男の人と一子をもうけましたが夭逝しています。平田玉蘊は画家として自立していきますが、平田玉蘊と頼山陽は互いにその後も思いを寄せていたのではかと思われます。なお1824年に描かれた作品が最後の平田玉蘊と頼山陽の共同作品となっています。

二人がどういう状況の時に描いた作品なのか、本作品はなんとも気になる作品ですね。



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