夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

蔓豆図 渡辺省亭筆 その1

2012-11-22 05:30:07 | 掛け軸
昨日は午後から学術財団の論文発表会。構造から文化史まで幅広い噺を聞いてきました。


夜になって妻が実家より4日ぶりに帰宅・・、実家の両親が旅行のため実家で犬と留守番。

人間一人になると倍以上にすることが増えます。一人暮らしになると朝、起きると朝ごはん、洗濯物が溜まると洗濯にクリーニング。日曜になると掃除に部屋の片付け・・。

二人でいることのありがたみを忘れないようにしなくてはなりません。ところが最近は結婚しない人が増えているらしい。これは実に非効率的なことのような気がする。ともに職業に就いているにしても、互いに助け合うことで人生が倍に楽しめることを知らないらしい。

本日の画家は一匹狼・・・。少ない友人の一人は平福穂庵というから面白い。

蔓豆図 渡辺省亭筆
絹本水墨淡彩 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1910*横300 画サイズ:縦200*横167




蔓豆とはマメ科の蔓性の一年草で、原野に生え、茎は他に絡みつき、全体に細毛が密生。葉は長楕円形の3枚の小葉からなる複葉。夏から秋、紅紫色の蝶形花(ちょうけいか)を開く。種子はダイズに似て、ダイズの原種といわれる。


渡辺 省亭(わたなべ せいてい):嘉永4年12月27日(1851年1月18日) - 大正7年(1918年)4月2日):明治時代から大正時代にかけての日本画家。洋風表現を取り入れた花鳥画を得意とした。

菊池容斎の門人。本姓は吉川、名は義復(よしまた)、通称は良助。省亭は号。一昔前は専門家でも「しょうてい」と読んでおり、当ページの英語・仏語版でもそちらに従っている。しかし、省亭の末裔にあたる人々は「せいてい」と読んでおり、渡欧中の省亭に触れたフランスの文献でも「Sei-Tei」と紹介されていることから、「せいてい」が正しい。なお息子に俳人の渡辺水巴がいる。省亭の作品は当時の来日外国人好まれ、多くが海外へ流出した。メトロポリタン美術館、ボストン美術館、大英博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館、ライデン国立民族学博物館、ベルリン東洋美術館、ウィーン工芸美術館など、多くの国外美術館・博物館に省亭の作品が所蔵されている。








補足説明
容斎の教育:江戸神田佐久間町に生まれる。16歳で容斎に弟子入りする。同門に松本楓湖や梶田半古、鈴木華邨、三島蕉窓らがいる。

容斎の指導は一風変わっており、極めて厳しかった。入門してから3年間は絵筆を握らせてもらえず、「書画一同也」という容斎の主義で、容斎直筆の手本でひたすら習字をさせられた。楷書は王羲之、かなは藤原俊成を元にしたものであったという。のちの省亭作品に見られる切れ味の良い筆捌は、この修練によって培われたと言える。

ところが3年経つと、今度は反対に放任主義を取った。容斎は粉本は自由に使わせながらも、それを元にした作品制作や師風の墨守を厳しく戒め、弟子たちに自己の画風の探求と確立を求めた。弟子時代の逸話として、容斎は随行した省亭に、町で見かけた人物の着物や柄、ひだの様子がどうだったか後で諮問し、淀みなく答えないと大目玉食らわしたという。

こうした厳しい指導の中で、省亭は容斎が得意とした歴史人物画ではなく、柴田是真に私淑し、花鳥画に新機軸を開いていく。明治5年(1872年)21歳のときに、父の歌友であった渡辺光枝の養嗣子となり、吉川家を離れ渡辺姓を継いでいる。

図案家として:明治8年(1875年)美術工芸品輸出業者の松尾儀助に才能を見出され、輸出用陶器などを扱っていた日本最初の貿易会社である起立工商会社に就職。濤川惣助が手掛ける七宝工芸図案を描き、この仕事を通じて西洋人受けする洒脱なセンスが磨かれていく。

明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会で、起立工商会社のために製作した金髹図案で花紋賞牌(三等賞)を受賞。更に翌年のパリ万国博覧会で、同社から出品した工芸図案が銅牌を獲得。これを機に、起立工商会社の嘱託社員としてパリに派遣された。これは日本画家としては初めての洋行留学である。

印象派との交流:パリ滞在期間は2年強から3年間と正確には不明だが、この時期省亭は印象派周辺のサークルに参加している。エドモン・ド・ゴンクールの『日記』によると、1878年10月末から11月末頃に、省亭がエドガー・ドガに鳥の絵をあげたと逸話が見える。また、同じくゴンクールの「ある芸術家の家」では、省亭がこの時の万博に出品した絵を、エドゥアール・マネの弟子のイタリア人画家が描法の研究のため購入したと伝えている。他にも印象派のパトロンで出版業者だったシャルパンティエが、1879年4月に創刊した『ラ・ヴィ・モデルヌ』という挿絵入り美術雑誌には、美術協力者の中に山本芳翠と共に省亭も記載されている。省亭は彼らとの交流の中で、特にブラックモン風の写実表現を取り込み、和洋を合わせた色彩が豊かで、新鮮、洒脱な作風を切り開いたと見られる。





帰国後の活躍:明治14年(1881年)第二回勧業博覧会では「過雨秋叢図」で妙技三等賞を受賞。明治17年(1885年)からはフェノロサらが主催した鑑画会に参加、明治19年(1887年)の第二回鑑画会大会に出品した「月夜の杉」で二等褒状。これらの作品は所在不明で、図様すら分からない。しかし、明治26年(1893年)のシカゴ万博博覧会に出品した代表作「雪中群鶏図」を最後に、殆どの展覧会へ出品しなくなる。その理由として、博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもったためと説明される。ただし、明治37年のセントルイス万国博覧会には出品し、金牌を受賞した。

他方、木版画、口絵挿絵にもその才能を示している。明治22年(1889年)刊行の山田美妙の小説『胡蝶』において裸婦を描いて評判となるが、後のいわゆる裸体画論争と端緒となった。翌年に『省亭花鳥画譜』全3巻を刊行、鷺草、桜草、夾竹桃、芍薬、薊などを華麗に描いている。

自娯の晩年:師・容斎とは対照的に弟子を取らず(水野年方が1,2年入門しただけという)、親友と呼べる画家は平福穂庵(平福百穂の父)と菅原白龍くらいで、一匹狼の立場を貫いた。これは容斎が、他人の悪口ばかり言いあう画家と交際するよりも一芸に秀でた者と交われ、との教えを守ったためとする説もあるが、単に省亭の性向によるものにも見える。省亭は悠々自適な作画制作を楽しんだ後、浅草三筋町の画堂で68歳で亡くなった。墓所は台東区の潮江院。法名は法華院省亭良性修良居士。


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