![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/5b/13732c718f11a965ea06c15266749002.jpg)
昨日は汐留の高層ビルの中の飲食店で会食。何気なく飾ってあるガラス工芸が岩田久利の作のものでした。以前投稿しました岩田藤七のご子息の作品でした。思わず嬉しくなり、店内を鑑賞して回りました。
さて、共箱(描いた画家が箱に題名と落款・印章を記したもの)が付いていない作品はなかなか評価がつかずに売れないようです。というかそのこと自体を重んじてしまうので、偽の共箱が生まれます。
また、鑑定書があると高く売れるのでまたまた偽の鑑定書が生まれます。そして法外に高い鑑定料金が生じることになるのです。
買う側にそれなりの見る目があれば、贋作は生まれないというのが私の持論です。そんなに面倒な贋作は作る手間を考えるとそうそうは作れないのです。
ところが、明らかな贋作が横行しているから困るのです。テレビの「なんでも鑑定団」紹介されているような程度の低い贋作をまずなくすことです。製作者、販売者の卑しい志の作品は排除しましょう・・贋作ばかり集めて販売している専門家もいますので排除しましょう。
不思議なことに贋作ばかり集まる? 集めている収集家がほぼ90%?なのです・・。私もそうではないかと思うことがたびたびあります。それは知識のない領域に触手を伸ばしたときに陥ります。
田家秋色 竹内栖鳳筆
絹本着色緞子表装軸装 軸先本象牙 合箱
全体サイズ:縦1820*横483 画サイズ:縦990*横345
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/08/a83399ba60ac210bbb2d968dfff3fe0d.jpg)
題は仮題とし、他に所蔵している小野竹喬の作品の題に倣いました。以前投稿しました竹内栖鳳の「鶏之図」と同時期の作品と考えられます。
下左が本作品の落款と印章で、右が文献から同時代と思われるの落款と印章です。
ある程度の落款と印章は資料として所持している必要があります。真贋の判定の判断において最終的には落款と印章が決め手になるからです。
竹内栖鳳(元治元年:1864―昭和17年:1942):日本画家。京都に生まれる。
土田英林(えいりん)に学び、1881年(明治14)から四条派の幸野楳嶺(こうのばいれい)に師事して棲鳳(せいほう)と号する。翌年、第1回内国絵画共進会に『雁(がん)に双鶴(そうかく)』『瀑布(ばくふ)』が入選。84年には第2回内国絵画共進会に『山水』『花鳥』を出品して褒状を受け、以後、四条派の手法に古画風を交えた作品によって多くの共進会や内外の博覧会での受賞を重ねた。この間、83年から京都府画学校出仕、95年には京都市美術工芸学校教諭となる。
1900年(明治33)から翌年にかけて渡欧。帰国後は号を栖鳳と改め、ターナーやコローの手法を摂取消化して清新な画風を開いた。07年に第1回文展の審査員となり、以後18年(大正7)まで歴任して、『アレ夕立に』『絵になる最初(はじめ)』などの代表作を出品している。13年に帝室技芸員、19年に帝国美術院会員となり、また09年から24年まで京都市立絵画専門学校教授を務めた。37年(昭和12)に第1回文化勲章を受ける。
そのほかの代表作に『雨霽(うせい)』『斑猫(はんびよう)』などがあり、門下からは上村松園(うえむらしょうえん)、西村五雲、西山翠嶂(すいしょう)、土田麦僊(ばくせん)、小野竹喬(ちくきょう)、徳岡神泉(しんせん)らが輩出している。
さて、共箱(描いた画家が箱に題名と落款・印章を記したもの)が付いていない作品はなかなか評価がつかずに売れないようです。というかそのこと自体を重んじてしまうので、偽の共箱が生まれます。
また、鑑定書があると高く売れるのでまたまた偽の鑑定書が生まれます。そして法外に高い鑑定料金が生じることになるのです。
買う側にそれなりの見る目があれば、贋作は生まれないというのが私の持論です。そんなに面倒な贋作は作る手間を考えるとそうそうは作れないのです。
ところが、明らかな贋作が横行しているから困るのです。テレビの「なんでも鑑定団」紹介されているような程度の低い贋作をまずなくすことです。製作者、販売者の卑しい志の作品は排除しましょう・・贋作ばかり集めて販売している専門家もいますので排除しましょう。
不思議なことに贋作ばかり集まる? 集めている収集家がほぼ90%?なのです・・。私もそうではないかと思うことがたびたびあります。それは知識のない領域に触手を伸ばしたときに陥ります。
田家秋色 竹内栖鳳筆
絹本着色緞子表装軸装 軸先本象牙 合箱
全体サイズ:縦1820*横483 画サイズ:縦990*横345
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題は仮題とし、他に所蔵している小野竹喬の作品の題に倣いました。以前投稿しました竹内栖鳳の「鶏之図」と同時期の作品と考えられます。
下左が本作品の落款と印章で、右が文献から同時代と思われるの落款と印章です。
ある程度の落款と印章は資料として所持している必要があります。真贋の判定の判断において最終的には落款と印章が決め手になるからです。
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竹内栖鳳(元治元年:1864―昭和17年:1942):日本画家。京都に生まれる。
土田英林(えいりん)に学び、1881年(明治14)から四条派の幸野楳嶺(こうのばいれい)に師事して棲鳳(せいほう)と号する。翌年、第1回内国絵画共進会に『雁(がん)に双鶴(そうかく)』『瀑布(ばくふ)』が入選。84年には第2回内国絵画共進会に『山水』『花鳥』を出品して褒状を受け、以後、四条派の手法に古画風を交えた作品によって多くの共進会や内外の博覧会での受賞を重ねた。この間、83年から京都府画学校出仕、95年には京都市美術工芸学校教諭となる。
1900年(明治33)から翌年にかけて渡欧。帰国後は号を栖鳳と改め、ターナーやコローの手法を摂取消化して清新な画風を開いた。07年に第1回文展の審査員となり、以後18年(大正7)まで歴任して、『アレ夕立に』『絵になる最初(はじめ)』などの代表作を出品している。13年に帝室技芸員、19年に帝国美術院会員となり、また09年から24年まで京都市立絵画専門学校教授を務めた。37年(昭和12)に第1回文化勲章を受ける。
そのほかの代表作に『雨霽(うせい)』『斑猫(はんびよう)』などがあり、門下からは上村松園(うえむらしょうえん)、西村五雲、西山翠嶂(すいしょう)、土田麦僊(ばくせん)、小野竹喬(ちくきょう)、徳岡神泉(しんせん)らが輩出している。
しばらく、仕事が忙しくて、投稿できませんでした。
竹内栖鳳らしさが随所に出ている大変良い作品ですね。
栖鳳は売買されているのは小品が多く、これだけの大作はあこがれの的です。
また、小野竹喬の作品は、カラリスト後の名品ですね。驚きました。
私は、娘が大学1年で、東京で一人暮らしているため、しばらく、骨董資金が枯渇しており、濱田庄司、朝鮮唐津は購入できないので、自分で作ってみました。(失笑)
古伊万里は、4つが藍柿、5つ目はそれより前の藍九谷です。
https://box.yahoo.co.jp/user/viewer#du%3D563173d1-2c3f-45a3-9cdd-3283b1dc5f21%26ds%3Dbox-l-eyw7whaehm3qd3er5fsbsqwa3u-1001%26vt%3DmyStorage%26lf%3Dslideshow%26ls%3D1%26lm%3D20
今後とも、作品紹介を楽しみにしています。
陶磁器は自分で作るほうが楽しくていいですね。小生も資金がない頃、体力はあったので仕事の休日には茶碗や皿の製作にのめりこみました。なかなかいい作品を作るのは難しいですが、今でもお薄や食器に使っています。
古伊万里はどの作品を対象にしているかは解りませんが、難しい分野になりつつあるようです。
あまりいい作品を紹介できていませんが、このようなエールのコメントをいただくと励みになります。今後ともよろしくお願いいたします。