最近は掛け軸の扱い方を知らない御仁が多いので、基本的なことを本作品を投稿するにあたり、記述しておきます。
掛け軸は照明の暗いところで鑑賞するものです。昭和期以前の照明が暗い頃の作品はそうして観るのが自然です。照明を明るくして鑑賞したのでは作品の良さがわかりません。
本作品も家内が夕方観ると立体に見えて、素晴らしくよく見える作品ですと驚いていました。
掛け軸に風鎮なるものを付けるのは写真を撮るときとか、風があるときだけです。基本的には掛け軸が痛みますので、付けておかない方がいいのです。やたらと立派なものを付けるのは田舎者のすることです。
ついでながら、掛け軸は長時間かけておくのはよくありません。長くても一年に一ヶ月程度と心得ておいたほうがいいです。それゆえに少なくても季節ごとの掛け軸が必要ですし、飽きが来ますのでその倍は必要です。床の間は額装でも作品によってはかまいませんので、極力長い時間、掛け軸をかけっぱなしするのは避けましょう。
掛け軸の取り外しは下から軸を胸の高さまで巻き上げてから、掛け金から掛け軸を棒で支えながら外します。巻き上げないでサーカスのようにいっぺんに外される方が意外と多いのは驚きです。その際に畳の蔕をまたがないとかという基本的な常識を知らないと大恥をかきますよ。
水墨山水図 田近竹邨筆 紙本水墨 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦*横538 画サイズ:縦1368*横334
印章は「竹邨居士」の朱方印と「心逸」の白方印が押印されています。箱書は大正9年と著されており、賛には「庚申春」と書かれていることから描かれたのも大正9年と推察されます。
賛:「人□山□□ □□雲田□ □前□□□ □□・・ 庚申(大正9年)春□□題 竹邨書」
箱表書:「竹邨□□□□函峡□□図」
箱裏書:「大正9年 □□庚申秋日 自題鑑」
まだまだ解読中です。どなたか読める方がおられると助かりますが・・。
田近竹邨:元治元年(1864)~大正11年(1922)元治元年。豊後国(大分県)竹田生まれ。国学者田近陽一郎の次男。本名は岩彦。字は無逸、士静。竹邨は号、べつに一楽荘、白砂園、碧玲瓏居とも。
初め郷土の画家淵野桂僊(藤野桂僊)に南画を学ぶ。上京し京都画学校において田能村直入に師事する。竹邨は、同じ豊後出身の田能村竹田を尊敬していた。竹田にはじまる豊後南宋画の流れは、明治に入り京都において、帆足杏雨・田能村直入・田近竹邨と続いた。
竹邨の描画における柔らかい線は、大正描きと称されている。竹邨は、念願であった竹田の『亦復一楽帖』を入手して、京都東山において53幅の名作を描いた。この作品は「一楽荘描」と呼ばれている。文展に5回連続入選し、池田桂仙・山田介堂とともに京都南画壇の三元老と称された。
大正10年(1921年)には池田桂仙・山田介堂・小室翠雲・河野秋邨らと日本南画院の創立に中心的な役割を果した。一門に、河野秋邨、後藤秋涯、濱晶雲、平野古桑、横山春溪、衛藤晴郎、井上石邨などがいる。著書に、『一楽荘眉賞(いちらくそう・びしょう)』、『一楽荘佳作(第一集)』(大正11年、淡如会)などがある。子息は、拓本で著名な田近憲三氏である。大正11年4月11日死去。
印名は「逸」 「田逸」 「田逸之印」 「田近逸印」 「竹田邨民」(「竹田村人」)「田逸知印」 「無逸」(「无逸」) 「書竹生涯」 「竹邨」 「竹丈」 「竹史」 「水竹邨舎珍賞」「心逸」 「成友此君」 「鳳来」 「世美人」 「白沙」 「一樂荘」(「一楽荘」) 「人生一樂」「冗字因縁」 「陽春百雪」 「青士」 「詩酒陶情」 「淡白生涯」 「臣逸」 「管領風煙」「大時青林翠竹」 「青垣洋書房」 「有林之居」 「有心大平」 「古士愚心」 「天心」 「田舎主人」「竹田邨民」 「古之人古之人」 「煙雨楼」 「山中人」 「沙明竹翠」 「沙明竹翠邨舎主人」「詩癖茶顚」(「詩癖茶顛」) などかなりの種類があります。
掛け軸は照明の暗いところで鑑賞するものです。昭和期以前の照明が暗い頃の作品はそうして観るのが自然です。照明を明るくして鑑賞したのでは作品の良さがわかりません。
本作品も家内が夕方観ると立体に見えて、素晴らしくよく見える作品ですと驚いていました。
掛け軸に風鎮なるものを付けるのは写真を撮るときとか、風があるときだけです。基本的には掛け軸が痛みますので、付けておかない方がいいのです。やたらと立派なものを付けるのは田舎者のすることです。
ついでながら、掛け軸は長時間かけておくのはよくありません。長くても一年に一ヶ月程度と心得ておいたほうがいいです。それゆえに少なくても季節ごとの掛け軸が必要ですし、飽きが来ますのでその倍は必要です。床の間は額装でも作品によってはかまいませんので、極力長い時間、掛け軸をかけっぱなしするのは避けましょう。
掛け軸の取り外しは下から軸を胸の高さまで巻き上げてから、掛け金から掛け軸を棒で支えながら外します。巻き上げないでサーカスのようにいっぺんに外される方が意外と多いのは驚きです。その際に畳の蔕をまたがないとかという基本的な常識を知らないと大恥をかきますよ。
水墨山水図 田近竹邨筆 紙本水墨 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦*横538 画サイズ:縦1368*横334
印章は「竹邨居士」の朱方印と「心逸」の白方印が押印されています。箱書は大正9年と著されており、賛には「庚申春」と書かれていることから描かれたのも大正9年と推察されます。
賛:「人□山□□ □□雲田□ □前□□□ □□・・ 庚申(大正9年)春□□題 竹邨書」
箱表書:「竹邨□□□□函峡□□図」
箱裏書:「大正9年 □□庚申秋日 自題鑑」
まだまだ解読中です。どなたか読める方がおられると助かりますが・・。
田近竹邨:元治元年(1864)~大正11年(1922)元治元年。豊後国(大分県)竹田生まれ。国学者田近陽一郎の次男。本名は岩彦。字は無逸、士静。竹邨は号、べつに一楽荘、白砂園、碧玲瓏居とも。
初め郷土の画家淵野桂僊(藤野桂僊)に南画を学ぶ。上京し京都画学校において田能村直入に師事する。竹邨は、同じ豊後出身の田能村竹田を尊敬していた。竹田にはじまる豊後南宋画の流れは、明治に入り京都において、帆足杏雨・田能村直入・田近竹邨と続いた。
竹邨の描画における柔らかい線は、大正描きと称されている。竹邨は、念願であった竹田の『亦復一楽帖』を入手して、京都東山において53幅の名作を描いた。この作品は「一楽荘描」と呼ばれている。文展に5回連続入選し、池田桂仙・山田介堂とともに京都南画壇の三元老と称された。
大正10年(1921年)には池田桂仙・山田介堂・小室翠雲・河野秋邨らと日本南画院の創立に中心的な役割を果した。一門に、河野秋邨、後藤秋涯、濱晶雲、平野古桑、横山春溪、衛藤晴郎、井上石邨などがいる。著書に、『一楽荘眉賞(いちらくそう・びしょう)』、『一楽荘佳作(第一集)』(大正11年、淡如会)などがある。子息は、拓本で著名な田近憲三氏である。大正11年4月11日死去。
印名は「逸」 「田逸」 「田逸之印」 「田近逸印」 「竹田邨民」(「竹田村人」)「田逸知印」 「無逸」(「无逸」) 「書竹生涯」 「竹邨」 「竹丈」 「竹史」 「水竹邨舎珍賞」「心逸」 「成友此君」 「鳳来」 「世美人」 「白沙」 「一樂荘」(「一楽荘」) 「人生一樂」「冗字因縁」 「陽春百雪」 「青士」 「詩酒陶情」 「淡白生涯」 「臣逸」 「管領風煙」「大時青林翠竹」 「青垣洋書房」 「有林之居」 「有心大平」 「古士愚心」 「天心」 「田舎主人」「竹田邨民」 「古之人古之人」 「煙雨楼」 「山中人」 「沙明竹翠」 「沙明竹翠邨舎主人」「詩癖茶顚」(「詩癖茶顛」) などかなりの種類があります。
早速資料に付け加えさせて頂きます。
大正九年 歳次庚申秋日 自題簽