Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

誘う夏の夜の音楽

2021-05-30 | 
朝一番で出かけるとポストにCDが突っ込まれていた。新聞配達が改めて嵌め込んでくれていたのだろう。プラスティックケースでないことは知っており、雨も降っていなかったので心配要らずで銀行からパン屋へと回った。

晴天で気持ちよく、摂氏一ケタ台の空気と陽射しが嬉しい。走り出しながら聴く予定のマーラーの交響曲七番を頭に描くが、途中で三番と混同してしまう。思ったより複雑な構成になっていることが分かった。

今年始めて、バルコンに机を出して朝食とした。日本の販宣ヴィデオで見ていたように異常に分厚くはなくて、普通の厚さだった。色合いも春というよりも夏である。

一先ずざっと流してみた。なによりも気が付いたのは、管弦楽団の特に弦の座付楽団らしい付け方がとてもよく、想定していなかったのは木管が頑張っていて、フルートからオーボエ、コールアングレ、クラリネット、バスクラリネットへとその吹いている顔が浮かぶほどだ。それ程にしっかりと表情が付いている。

副主題の思い浮かばなかったテーマや音程跳躍のフレージングがこれまた座付の巧さでとぎれとぎれに音楽的に発声されて四分の四拍子の中でも切られているのが、聴いたことが無いような息絶え絶えの今にも過呼吸で発作が起きるような効果は、今迄はチャイコフスキーの五番のフィナーレでしか聴いたことが無い音楽表現である。ここだけでも、彼のクレムペラー指揮の超低速の演奏実践と比較可能だ。そのクレムペラーこそがアルバン・ベルクとマーラーの助手として初演への楽譜の最後の仕上げをしたと書いてある。

この交響曲の特殊性は、そうしたそれまでの交響曲からして突飛推しも無い跳躍以上に、その音色旋律的な扱い方の画期性にあると思うが、今回の生録音の最大の利点はそこにある。

それも音色を追求したというよりも二楽章の最初の「夜の音楽」におけるトリオのユダヤ音楽的な色合いとかが、ベルリオーズの「野の風景」と比され軍楽マーチに続く主部以上に明快に示されていて、主部へ戻る下りはあまりにも素晴らしい。ここがまさしくピエール・ブレーズやアバド指揮とは到底比較できないところで、漸くバーンスタインのルネッサンスを抜け出せた証左と言ってしまってもいいかも知れない。

いつものようにホルンも素晴らしいのだが、心配のトラムペットも修正も効いているのか吹かすようなことも無く、まだトロムボーンも健闘している。幾つか不鮮明な印象を覚えたところのある金管楽器に関しても弦楽のその奏法からすればバランスが取れているのだろう。

ベルリナーフィルハーモニカーが、ブクレットの中に写真のあるバービカンホールでの実演を聴いて「私達も早くあのように演奏できるようにようになりたい」と語っていたが、その阿吽の呼吸と共に座付的な柔軟さ若しくは一鎖に感興を乗せる合奏法は中々修得は難しい。

四楽章の二つ目の「夜の音楽」の問題となるマンドリンの響きもギターとのアクセントの明晰さでまさしく音色旋律を示していて、作曲家の狙いは明らかとなる。

その他音高を使ったダイナミックスの付きかたなど、この演奏にして初めてその楽譜の真意が知れる。なにも印刷間違いとか和音の付け方だけに楽譜の読みの極意があるのではないいい例である。

終楽章のその速さには呆れるが、どれほど飛ばしても他の指揮者よりも恐らくクレムペラー指揮よりもその内容は明らかで、明暗の対照だけでなくて、考えられる限りの繊細な感受性が、全てのスケールの音色的な表現の中で為し得る演奏は他に類を見ない。

昨年の「千人の交響曲」も今年の第九交響曲演奏会もコロナで吹っ飛んで仕舞ったことに再び胸が痛む。やはり「トリスタン」での最後の指揮はどうしても聴いておきたいという気持ちにさせる記録的な録音である。なぜカルロス・クライバーがヴィーナーフィルハーモニカーでなくてこの座付楽団を最も愛していたかのその歴史的な意味もここに聴き分けることが可能だろう。



参照:
必要な基本戦略微修正 2021-05-28 | 生活
初夏に向かって考慮 2021-04-15 | 暦
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする