Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

最も注目される指揮者

2021-05-08 | 
ルートヴィヒスブルク音楽祭の初日演奏会が中継された。バーデンバーデンの延期プログラムが無ければ出かけるつもりでいた演奏会だった。結局延期復活祭は流れ、これも無観客演奏会となった。プログラムも大編成の「大地の歌」の三管を二管編成にしたグレン・コルテッセの編曲が演奏された。そこにアメリカのベルリン在住の環境活動家で写真家のヘンリーフェアーの映像が付けられた。その演奏形式は既にヴァイマールなどでも行われているので、特別な試みでは無かったようだ。

しかし、そのヴィデオを含めて、休憩後の直前にケージ作曲4分33秒が演奏されて、前半にはベートーヴェンの田園交響曲が演奏された。自然と人の営みの間にまさに音が生じようとした瞬間でのケージの演奏は半年前に話題となったベルリンでのペトレンコ指揮とは打って変わって、本来ケージの考えていた禅的で耳を澄まさせる若しくは大地の響きへと研ぎ澄まされるような演奏で、その通り全体のプロジェクトにぴったりと嵌り意味合いを明白にしていた。

こうしたマルティメディアルな表現は昨年ミュンヘンで指揮者アクサーナ・リニヴが指揮をした新制作「ユーディト」に繋がるもので、その大成功振りがここで今度はコンサートとして繰り返された趣がある。奈落の下で演奏して、ヴィデオも流されたバルトークの「青髭公」舞台前の「管弦楽のための協奏曲」と今回は舞台の上で中編成で演奏された「大地の歌」の相違はある。

前半の田園がその意味からしてもとてもコンセプト化された演奏だと思った。演奏解釈と全体の効果という両面があるのだが、指揮自体は大きなフレージングと動機の流れを重視していて、部分的には細かな表情までは付け切れていなかった。勿論初めての寄せ集めの楽団との限られた練習時間はあっただろうから、重点をどこに置くかの判断でもあったとは思う。リニヴの指揮自体が、そもそもアシスタントをしていたペトレンコのような細部への拘りは無いようだが、それでも太筆で一気に下ろすような風情があって、華奢な女性が全身を投げ出すような豪快さがある。一方では〆るところがハッキリしていて、とても大きな音楽的な効果を生んでいる。

二楽章の小川のせせらぎもとてもしなやかで、こうした音楽は棒を置いて両手で指揮するのだが、こうした柔軟性が今迄の男性指揮者には求められなかったものではないかと思う。その反面、アゴーギクも思い切って活かして来るのだが、12拍子などの振りも見事で、無為自然にその小川の流れの如く上から下へとたおやかに流れるのであって、淀むことがない。この指揮者の最大の美点はと問われればこれを挙げたい。

そのような流れが計算されていて、ここぞという音楽の表情にハッとさせられることが多い。終楽章のコーダの感謝の響きのようなところにおいても、フルトヴェングラー指揮などで有名ではあるのだが、これはという表情と響きを出して来る。そのようなところは、昨秋フランクフルト公演での歌声を時限一杯に使い切った響きとして表出させたものでも、魅了させられるこの指揮者の音楽である。勿論歌手や演奏家などにはその瞬間を身体で忘れない鳥肌ものであるかもしれない。

後半の「大地の歌」はもう一度画面も見ながらもう一度しっかり聴いてみたいが、ペトレンコ流のセマンティックで分析的なマーラー解釈とは異なって、思い切った演奏でも、ただ単にこの指揮者が嘗てのバーンスタイン指揮に学んでいるとだけは言えない、新しさがあった。それはなにか?(続く)

兎に角、色々とオクサーナ・リニヴの演奏実践を目の辺りにすると様々な発見もあって面白い。やはり男女の差異がそこにあるのも事実で、彼女自身が言う様に優秀な女性指揮者は昔からいたが、このように注目されて、場が与えられているということが大きい。当然市場としても求められていて、尚且つ音楽芸術的な可能性を見せてくれている。この何十年か女流作曲家がそれなりに新しい境地を拓いて来たことにも相当するだろうか。今最もドイツで注目される指揮者の一人である。



参照:
女声につける女性指揮者 2020-09-11 | 女
プレコロナへの幻想 2021-05-04 | マスメディア批評
新音楽を浪漫する 2021-03-30 | 音

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