ベルリンのストラヴィンスキーシリーズ第三回、音楽監督ユロウスキーのお話しが相変わらず面白い。先ずは年上のリヒャルト・シュトラウスとの比較をしてみる。その存在を20世紀のネオクラシズムの先例とする。主に作品「エーデルマン」で知られ、「ナクソスのアリアドネ」で成功に導かれたものであるが、先にミュンヘンで「ばらの騎士」が公演されそこで出てくるイタリア人歌手はそのものバロックのそれであった。
保守的な装いをしながらも20世紀の作曲家であったとして、その一方そのバロックモドキはブラームスからのそれであったり間違った装飾であったりする。その様をクープランの曲を土台とした作品から、シュトラウスのそれをところどころ修正しながら演奏した。とても面白い企画である。
二曲目には「ブルレスケ」を持ってきて、先ずはそこでピアノを弾いたブッフビンダーが80回も弾ているとある。またストラヴィンスキーはサヴァリッシュ指揮で演奏した様だが、まさしくヴェテランピアニストである。「ティムパニーが最初から目立って、ピアノはその間に弾くだけだよ」と、特別な指使いのエヴェレスト登山のような沢山の音符を弾く。
Im Gespräch mit Rudolf Buchbinder
また、秋からのバイエルン州の音楽監督就任について抱負が語られた。既に二回のクローケによる管弦楽縮小版による「ヴォツェック」と「ばらの騎士」の成果がとても大きな期待に繋がっているようで、更に「ヴァルキューレ」も間隔を空けずにペトレンコ指揮で演奏されて、「リア王」も奈落での練習が始まっているとして、秋からは代行案を考えずに上演されるだろうことを喜んでいる ― なぜここでペトレンコ指揮と間違ったのかに注目!。
ストラヴィンスキーは「プルチネッラ」の全曲が演奏された。普通は組曲しか演奏されないので、それなりの意味はあった。ユロウスキーは、一般的にはこの曲はネオクラシズムの先端と捉えられているが、そうではなくてポストモダーンの先駆けとしている。同様の見解は「ばらの騎士」新制作時にも語られたが、まさしくポストモダーンとカテゴリーして歴史化するところで、我々の時代がそこから漸く次の世界へと動いていることを実感させる。
Einführung von Vladimir Jurowski zum Konzert Strawinsky x 6: III „Pulcinella“ am 20. Mai 2021
具体的にはコムポニストというのは文字通り組み合わせる仕事であるが作曲家は発見者としていたこと、そして全く異なったニュアンスを与えた作曲とバロック素材を使った創作だとしている。
Probe zum Strawinsky-Festival - „Pulcinella“ mit Vladimir Jurowski
さてこの無観客演奏会、コンセプトもしっかりしていてその放送のお話しも取り分け素晴らしいのだが、演奏自体ももう一つ練れていない。ベルリンでのこの手の仕事はまだ暫く続けるのだろう。但し、バイエルンでの音楽監督の仕事はそうした音楽学的な興味をくすぐるだけでは成立しない。ミュンヘンの皆が期待しているのはそこであって、音楽的に充実した成果を上げて貰いたい。
さて我々の当面の関心は、ミュンヘンの新シーズンに何が準備されているか?どうも「ばらの騎士」は6月には間に合いそうには無いが、これがどこで本格的になされるのか?新制作「サロメ」も九回しか演奏されないので、劇場としての十八番として再演が待たれる。
前者は、マルリス・ペーターセンのマルシャリンは欠かせないので、大編成公演が可能となった時に直ぐに日程を入れられるかどうか?「サロメ」は一番考えられるのだが、ここにアスミク・グリゴーリアンを入れる可能性は無くはない。問題は再演では大物歌手のデビュー公演としては物足りない。
また以前にユロウスキーは、最初は期待されるようなロシアものなどは持ってこないとしていたので、比較的珍しい作品を持って来るのではなかろうか。ルイジ・ノーノの新制作などが期待されるが、さてどうなるか?
少し体調が悪い。胸の重みだけでなくて、視神経にも来ている典型的なコロナ症状である。血圧も上がっている感じがしてよくない。ここ暫くなぜか体重が増加していておかしいと思っている。運動量も足りないのは分かるのだが、それほど元気ではない。週末に完全復調を期待したい。
参照:
見事な手綱の捌き方 2021-03-23 | マスメディア批評
夢のような倒錯した舞台 2021-03-22 | 音
保守的な装いをしながらも20世紀の作曲家であったとして、その一方そのバロックモドキはブラームスからのそれであったり間違った装飾であったりする。その様をクープランの曲を土台とした作品から、シュトラウスのそれをところどころ修正しながら演奏した。とても面白い企画である。
二曲目には「ブルレスケ」を持ってきて、先ずはそこでピアノを弾いたブッフビンダーが80回も弾ているとある。またストラヴィンスキーはサヴァリッシュ指揮で演奏した様だが、まさしくヴェテランピアニストである。「ティムパニーが最初から目立って、ピアノはその間に弾くだけだよ」と、特別な指使いのエヴェレスト登山のような沢山の音符を弾く。
Im Gespräch mit Rudolf Buchbinder
また、秋からのバイエルン州の音楽監督就任について抱負が語られた。既に二回のクローケによる管弦楽縮小版による「ヴォツェック」と「ばらの騎士」の成果がとても大きな期待に繋がっているようで、更に「ヴァルキューレ」も間隔を空けずにペトレンコ指揮で演奏されて、「リア王」も奈落での練習が始まっているとして、秋からは代行案を考えずに上演されるだろうことを喜んでいる ― なぜここでペトレンコ指揮と間違ったのかに注目!。
ストラヴィンスキーは「プルチネッラ」の全曲が演奏された。普通は組曲しか演奏されないので、それなりの意味はあった。ユロウスキーは、一般的にはこの曲はネオクラシズムの先端と捉えられているが、そうではなくてポストモダーンの先駆けとしている。同様の見解は「ばらの騎士」新制作時にも語られたが、まさしくポストモダーンとカテゴリーして歴史化するところで、我々の時代がそこから漸く次の世界へと動いていることを実感させる。
Einführung von Vladimir Jurowski zum Konzert Strawinsky x 6: III „Pulcinella“ am 20. Mai 2021
具体的にはコムポニストというのは文字通り組み合わせる仕事であるが作曲家は発見者としていたこと、そして全く異なったニュアンスを与えた作曲とバロック素材を使った創作だとしている。
Probe zum Strawinsky-Festival - „Pulcinella“ mit Vladimir Jurowski
さてこの無観客演奏会、コンセプトもしっかりしていてその放送のお話しも取り分け素晴らしいのだが、演奏自体ももう一つ練れていない。ベルリンでのこの手の仕事はまだ暫く続けるのだろう。但し、バイエルンでの音楽監督の仕事はそうした音楽学的な興味をくすぐるだけでは成立しない。ミュンヘンの皆が期待しているのはそこであって、音楽的に充実した成果を上げて貰いたい。
さて我々の当面の関心は、ミュンヘンの新シーズンに何が準備されているか?どうも「ばらの騎士」は6月には間に合いそうには無いが、これがどこで本格的になされるのか?新制作「サロメ」も九回しか演奏されないので、劇場としての十八番として再演が待たれる。
前者は、マルリス・ペーターセンのマルシャリンは欠かせないので、大編成公演が可能となった時に直ぐに日程を入れられるかどうか?「サロメ」は一番考えられるのだが、ここにアスミク・グリゴーリアンを入れる可能性は無くはない。問題は再演では大物歌手のデビュー公演としては物足りない。
また以前にユロウスキーは、最初は期待されるようなロシアものなどは持ってこないとしていたので、比較的珍しい作品を持って来るのではなかろうか。ルイジ・ノーノの新制作などが期待されるが、さてどうなるか?
少し体調が悪い。胸の重みだけでなくて、視神経にも来ている典型的なコロナ症状である。血圧も上がっている感じがしてよくない。ここ暫くなぜか体重が増加していておかしいと思っている。運動量も足りないのは分かるのだが、それほど元気ではない。週末に完全復調を期待したい。
参照:
見事な手綱の捌き方 2021-03-23 | マスメディア批評
夢のような倒錯した舞台 2021-03-22 | 音