グレン・グールドのピアノによる「フーガの技法」を聴いた。先日のオルガンによるLPに続いてだ。コントラプンクト2番、4番に15番となっていて、実は三つの主題のフーガへと繋いで、そこからBACHとかを弾いている。
Glenn Gould, 1981. J.S.Bach L'Art de la Fugue : Contrepoints 2, 4, et 15.
このインタヴューのドキュメンタリーは最初に観た時から面白くないと思っていたのだが、やはり演奏に注目してみても全く良くなかった。晩年のデジタルで録音したゴールトベルク変奏曲などもお誕生日プレゼントで貰ったので所持している。その後にもハイドンのソナタ集を安売りで購入した。しかし、やはり今回のヴィデオで駄目だと思った。こうしたレクチャー風でいい加減にしか演奏しておらず、実際にそういう弾き方しか出来なかったのだろう。
フーガを思いっきりデフォルメするのは良いとしても、その音楽的なセンスが全然よくない。自らは鼻歌で悦に浸っているのかもしれないが、全く客観性が無い。コンサートで揉まれていないとああいう風になってしまうのだろう。
Glenn Gould, L' Art de la Fugue, Jean-Sébastien Bach, Documentaire
その演奏を聴いているぐらいならば、ソコロフの演奏に切り替えようと思ったが、最後までその楽曲の組み合わせなども確認しておきたかった。そして改めてトリフォノフリサイタルの隔し録音を聴くと、三声の反行のコントラプンクトが挟まれて考えるだけで本当に興奮させてくれる。そして三つの主題に続いて最後の未完成カノンへと進む。
こうなるとソコロフがどこまで弾きこなしているかが気になって来る。金曜日に時間があれば少し聴けたらと思うが、毎度のことながら楽曲についてお勉強が足りないと思うばかりである。それにしてもトリフォノフの声部の扱い方や楽譜の読みは中々立派だと思った。
燃料は安く入れた。とは言っても20リットルも必要ない。しかし郵便局で現金は下ろせなかった。理由は現金引き出し機が営業時間にしか使えないことになった。お話しにならない。幸い財布にはまだ20ユーロ残っているので、リサイタルの晩の駐車料とプログラムとコーヒーぐらいは問題なく買える。
パン屋が無くなったので大きめの現金がいるのは床屋か旅行の予備ぐらいになったが、その時は50か100ユーロを下ろさなければいけない。年に何回か下ろせば足りるだろうか。愈々ドイツもキャッシュレス社会に大きく近づいて来たということだ。
6月の速度違反罰金反論を書いた。大きな点は、写真を写された赤警告フラッシュも定かでなかったが、推測されるところの状況では時速100キロ制限を認知できなかったこと。つまり長い坂を上って頂点を過ぎて下りていく時に追い越し車線からトラックのコンヴォイが通る次の二列目に入ったので、コンヴォイの影に標識が隠れていたのだろうか?すると車線変更の時に中央分離に立てられている標識が死角に入っていたかもしれないことを主張として、左右対の一つの標識では見逃してしまう可能性が多いことを述べた。要するに足りないところでネズミ取りをしただろうという疑いを示した。
この反論が通るかどうかは分からないが、少なくとも先方に弱みがあれば放免となる可能性がある。もし峠の前後から10キロ制限がついていたとしたら完全に負けだ。トンネル前がその時は80キロ制限になっていたことは知っている。
前回は近所で同じような事があって放免となったが、今回は根拠は車線変更ということで更に強い。しかし前回のように41キロ超過の免停危険とは異なって21キロ超過なのでその差し迫った反論にはなっていない。但し腑に落ちないことには違わない。ネズミ取りを不明快な峠を越えた工事現場前の下り直後でやるなと言いたい。四車線でも混んでいたら大きく車線変更などの走り方はしない。それがあっちへこっちへと動くフーガの元来の意味なのである。
参照:
秋のマーラー九番演奏会 2021-08-18 | 音
ミサ典礼文の表情 2021-08-16 | 音
Glenn Gould, 1981. J.S.Bach L'Art de la Fugue : Contrepoints 2, 4, et 15.
このインタヴューのドキュメンタリーは最初に観た時から面白くないと思っていたのだが、やはり演奏に注目してみても全く良くなかった。晩年のデジタルで録音したゴールトベルク変奏曲などもお誕生日プレゼントで貰ったので所持している。その後にもハイドンのソナタ集を安売りで購入した。しかし、やはり今回のヴィデオで駄目だと思った。こうしたレクチャー風でいい加減にしか演奏しておらず、実際にそういう弾き方しか出来なかったのだろう。
フーガを思いっきりデフォルメするのは良いとしても、その音楽的なセンスが全然よくない。自らは鼻歌で悦に浸っているのかもしれないが、全く客観性が無い。コンサートで揉まれていないとああいう風になってしまうのだろう。
Glenn Gould, L' Art de la Fugue, Jean-Sébastien Bach, Documentaire
その演奏を聴いているぐらいならば、ソコロフの演奏に切り替えようと思ったが、最後までその楽曲の組み合わせなども確認しておきたかった。そして改めてトリフォノフリサイタルの隔し録音を聴くと、三声の反行のコントラプンクトが挟まれて考えるだけで本当に興奮させてくれる。そして三つの主題に続いて最後の未完成カノンへと進む。
こうなるとソコロフがどこまで弾きこなしているかが気になって来る。金曜日に時間があれば少し聴けたらと思うが、毎度のことながら楽曲についてお勉強が足りないと思うばかりである。それにしてもトリフォノフの声部の扱い方や楽譜の読みは中々立派だと思った。
燃料は安く入れた。とは言っても20リットルも必要ない。しかし郵便局で現金は下ろせなかった。理由は現金引き出し機が営業時間にしか使えないことになった。お話しにならない。幸い財布にはまだ20ユーロ残っているので、リサイタルの晩の駐車料とプログラムとコーヒーぐらいは問題なく買える。
パン屋が無くなったので大きめの現金がいるのは床屋か旅行の予備ぐらいになったが、その時は50か100ユーロを下ろさなければいけない。年に何回か下ろせば足りるだろうか。愈々ドイツもキャッシュレス社会に大きく近づいて来たということだ。
6月の速度違反罰金反論を書いた。大きな点は、写真を写された赤警告フラッシュも定かでなかったが、推測されるところの状況では時速100キロ制限を認知できなかったこと。つまり長い坂を上って頂点を過ぎて下りていく時に追い越し車線からトラックのコンヴォイが通る次の二列目に入ったので、コンヴォイの影に標識が隠れていたのだろうか?すると車線変更の時に中央分離に立てられている標識が死角に入っていたかもしれないことを主張として、左右対の一つの標識では見逃してしまう可能性が多いことを述べた。要するに足りないところでネズミ取りをしただろうという疑いを示した。
この反論が通るかどうかは分からないが、少なくとも先方に弱みがあれば放免となる可能性がある。もし峠の前後から10キロ制限がついていたとしたら完全に負けだ。トンネル前がその時は80キロ制限になっていたことは知っている。
前回は近所で同じような事があって放免となったが、今回は根拠は車線変更ということで更に強い。しかし前回のように41キロ超過の免停危険とは異なって21キロ超過なのでその差し迫った反論にはなっていない。但し腑に落ちないことには違わない。ネズミ取りを不明快な峠を越えた工事現場前の下り直後でやるなと言いたい。四車線でも混んでいたら大きく車線変更などの走り方はしない。それがあっちへこっちへと動くフーガの元来の意味なのである。
参照:
秋のマーラー九番演奏会 2021-08-18 | 音
ミサ典礼文の表情 2021-08-16 | 音