Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ミサ典礼文の表情

2021-08-16 | 
金曜日のトリフォノフピアノリサイタルのお勉強を始めた。メインに「フーガの技法」を持って来るという真っ向勝負のプログラムである。ザルツブルク音楽祭と同じである。バーデンバーデン祝祭劇場が短期間に決めたものとしてはホームランではなかろうか。

調べるとザルツブルクの前に入れ込んでいる。演奏者にとってはいい練習になる。直後にコペンハーゲン、10月にベルリン。

先ずこの作品には疎遠だった。理由は楽器指定が無い総譜で書かれている為に、そのアプローチの方法が不明だった。手元には室内四重奏団による演奏のもらい物のCDがあるが、殆どまともに聴いていない。子供の頃に放送で流れる時にその解説などを聴いた記憶がある。その主題にはなじみ深い。

こうした作品の場合はどうしてもグレングールドがどうしているか、確かオルガンを弾いていた筈とLPを探すとあった。調べてみると、ヴィデオに残っているのがピアノ演奏でのそれだったが何曲弾いているのかよく分からない。先ずこの二種類を聴いてしまわないとお話しにならないかもしれない。

しかし何と今年の春にバルセロナでトリフォノフが同プログラムを弾いている客席での違法録音があった。流石に音は遠いのだがとても面白い。想定していたよりも興奮させるぐらいなプログラムだ。恐らく生で聴くとその対位法における音のぶつかり方に工夫があると想像する。

バッハが最後に暗い闘病の部屋で創作していた曲。今迄思っていたよりも遥かに重要な曲だと今頃になって漸く分かった。如何に詰まらない編曲や演奏が多いことか。

日曜の朝に生中継されたザルツブルク祝祭大劇場からの「ミサソレムニス」を聴いた。お目当てはソプラノを受け持つローザ・フェオーラの歌だったが、ムーティ指揮の演奏は想定以上に良かった。なによりもミサ典礼文のその表情とか表現が入り細に音楽化されていて、拘りを聴かせた。

クレドにおける「私たちの為に十字架に掛けられて」を受けて「死に埋葬される」となるところの情感などが自然に溢れていて見事だった ― 作曲の粋と思わせないところがまたマエストロ。サンクテュスのホザンナ、こういう聴かせ所はカラヤンの得意としたものなのだが、ムーティの歌ほどの自然さは無かった。

その反面キリエにおいても、そのベートーヴェン的なアーティキュレーションが効かずに些かホゲホゲ気味の印象があり、同じことがアニュスデイでの軍楽が入るところからフィナーレでも感じられた。独墺音楽の特徴的なアウフタクトからのアゴーギク表現の欠如でもあろう。

それでも二重フーガになっても歌のラインをふっくらとふくらまし、その歌が有機的に響く様に、やはり中欧においても文句無しの説得感があるのはそういう所である。こういうところは域外の音楽家には敵わないところだ。

既に上で暗示したように最後に生で聴いたキリル・ペトレンコ指揮の様な音楽構造やその創作意思に迫るような説得力はなくても、少なくともミサ典礼を軸にして作曲された楽曲を振るということでは決して無駄なものではなかった。

その歌のラインにも関係するのだがフェオーラをはじめソリスツも立派な歌を歌っていて、合唱が上の特徴を漏れなく体現していた。やはりムーティ指揮は歌物も素晴らしい。ホーネックのソロヴァイオリンも悪くはなかった。



参照:
利いているか男の勘 2020-12-25 | マスメディア批評
秋の公演の先行予約を出す 2021-07-08 | 文化一般


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