Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

首でも指揮の「トリスタン」

2021-08-03 | 
承前)初日でも三幕のあり方が問われた。そこでこちらもフルトヴェングラー指揮の名録音に戻り、その内容を吟味していた。そして二幕のハイライトに対してこの三幕はやはり音楽芸術的にも良く書けていると思った。しかし上の録音は素晴らしい盛り上げ方をする割には最終場面へとカタルシスへと運ばれるだけで、録音芸術乍ら全く描き足りないとも思った。

なによりもダイナミックスをしっかりと付けていない。思い当たるのは、ヴァルター・レッグがディレクターなのかもしれないので、明らかに昔の録音技術のSN比の小ささからppはpへと格上げされていて、その振幅が録音上でも聴き取り易い範囲に抑えられている。今日からすると笑い話のような録音現場の話しなのだが、少なくともアナログ時代に録音現場で活躍した人は皆身に付いている現場の技術のイロハなのだ。フルトヴェングラーも疑い無しにそれに従っている。要するに重要な音楽が実践されていない。

その点でも、キリル・ペトレンコ指揮の拘りの指揮と要求は正しくそういう所にも活きていて、鈍な指揮者なら到底できないような電光石火のパンチをダイナミックスを音楽に加えることが出来る天才の指揮である。23日のコンサートで足首に手が届くところで見ていてその筋肉の動きが分かったから、それが身に詰まされた。

更に「マイスタージンガー」の映像化が十二分におこなわれなかったことから、どうしても残る成果を引き出そうとしたのか、コッホなどに対しては両手を使って指揮をして、その合間にヴィオラに首で指揮をしていた。そうして歌手に特別に指示を与える時にもその音形の特別な山なりやアクセントに注意を与えたり活を入れる訳であるが、それは全く前記のダイナミックスの丁寧な付け方と同じく先ずは楽譜の指示をアゴーギクなどを含めて忠実にこなして行くことにその指揮の真髄がある。それは名指揮者なら皆同じで故ブーレーズでもなんら変わらなかった。只超一流の指揮者だけがその飽くなき実践へと近づけるだけの違いである。

それでもこの三幕のトリスタンの歌唱は、前日にガラコンサートでも指揮された今晩からオンデマンドで無料で何日か提供される「マイスタージンガー」のトネリコの独唱よりもまた複雑な構造を持っていて、今回の演出によってその多層性が音楽的にも明らかにされたところではないだろうか。その可成り音楽的に丁寧に付けられた演出のお蔭で音楽的に整理されて響いたということでもある。

更に付け加えておかなければいけないのは徹底した非パトス化であり、その為に通常期待されるようなイゾルテの愛の死では終わらない。舞台では無くプロジェクターに映されるベットに離れて横たわるトリスタンとイゾルテへと眼が行くように配慮されている。要するに開かれた形で終わっている。これも今回のバッハラー・ペトレンコ体制の終了ということではそれに寄り添う終止形の演出となっていた。

初日公演では音楽の邪魔をしない演出とかの捨てセリフも批評で聞かれたがメディア化されるとそれとは正反対に音楽的に多くの示唆を受けていたことが知られることになるであろう。

また生中継は現場にいたので観れていないのだが、オンデマンドでは短くギリギリに切り取られて編集されたオンデマンド映像をまだ通しては観ていないのだが、少しだけ障りの音などを流してみた。通常は土曜日に生音を聴いて、そして月曜日に中継の音を聴いても失望しかない。しかし今回はオンデマンドと言いながらそのAACフォーマットの音声も違和感が少ない。結構なスピードが出ているようで、同時にラディオ放送されていたバイエルン放送協会のオンデマンドのMP3とは桁違いの音質である。こちらも他の放送局での再放送を強く希望したい。(続く



参照:
緑の原をミストリウムへ 2018-06-29 | 音
大反響のトリスタン21 2021-07-18 | マスメディア批評
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