(承前)今晩から「トリスタン」最終公演のデマンドが24時間流れる。期間を短く制限していることから、7月13日の収録のメディア化が濃厚だが、これもまだまだ出し惜しみしているようだ。バイエルン放送協会ではラディオ生中継されたようだが、これが他局で再放送されるのかどうか。
カメラは六台ほど入っていた。パブリックヴューイング為にだけの設定では無くて、メディア制作と全く同等のマイクロフォン等の設定だったと思われる。どのような音が録れているかも楽しみである。
初日の演奏との比較をメモしておこう。総じて、初日には管弦楽団が我武者羅に棒について行った様が無くなって、余裕と共にメリハリを付けて攻めるようになっていた。それは指揮の練られ方でもあるのだろう、些か各システムごとの出入りが激しかったのが綺麗に整理されていた。あれ程準備期間があっても、初日にはマイクが入って無かった故に思い切った出し入れがなされていたとも言える。丁度2013年のペトレンコ指揮「指輪」上演を彷彿させる。序でに言及すれば、それでも蓋の無い奈落での舞台とのバランスという意味では最初から悪くはなかった。問題は音楽的な整理であった。13日の四回目公演でものにしていたとも考えられるが、少なくとも楽団は一部づつローテーションになっていたということなので、誰が入っても纏まりが崩れないようになっていたとも思われる。
それは初日と13日との新聞評の差異にも若干感じられたのでその傾向が進んだのだと思われて、それは何時もの如く一般的に一幕の起承転結の起の纏まり方としても明らかだ。これは技術的な面だけでなくて、恐らく演奏者全員が公演ごとのドママテュルギ―感を身体で覚えて来るのだろうと思われる。それは、音楽的に特定の音程関係や跳躍などの動機の細分が他の楽劇のお決まりライトモティーフの様に単純化され難いからこそ、余計に身体で覚える感覚が強いのではなかろうか。それが今度はシステムごとの絡みとしてバランス感覚ともなるので凸凹が無くなって明晰になるのだ。それ故に初日は謂わば情報過多の様になっていて当惑するぐらいであったのだが、今回はそのアンサムブルの微妙さとしての又は音色の純度として聴感として得られた。
一幕では、初日にはイゾルテのハルテロスも飛ばし過ぎ感があってあまりにも歌を披露していたのだが、楽日には演出の内容や言葉の意味としての歌声としての表現力が上がっていた。また短いながらもトリスタンのフィナーレでの歌声もカウフマンの聴かせる上の声域での美声もあって、これだけで金が取れると思った。しかし、なんといっても28日のヨハナーンから絶好調に近いコッホの歌うクルヴェナールはペトレンコが特別に指揮する程に極限までを攻めていて、これもとても聴き甲斐があって、なるほど若いフィッシャーディースカウがこの役で注目された意味も理解した。またブランゲーネのフォンデアダメロウの歌も初日の評価とは異なりもう一つ満足できなかったのだが、今回は声質にも配慮があって役回りとして進化していたと思われる。
二幕のソーシャルディスタンシングにおけるトリスタンとイゾルテが今回の演出のクライマックスであったことは間違いなく、プラトニックな関係というよりもより万有引力的な関係がその演出で示されていて、それが音楽的なアイデアを裏付けている。それだけで無しに今回は遠くから判別不可だった注射の毒がまさしくワクチン接種を揶揄していた。まさしく今回のオペルンフェストシュピーレを取り巻く状況をこの舞台に集約させていた。そして音楽的な頂点を形作る。
いづれにしてもこの「トリスタン」には創作年の前後する「マイスタージンガー」や「ジークフリート」までのアイデアが詰まっていたのも間違いが無い。
そこまで気が付くと、ネットにても多くの呟きがあった三幕における不可解なアンドロイドの意味合いやその動きが、トリスタンの幼少期のトラウマと対応したりまたフロイトの寝椅子にいるトリスタンの影武者になったり入れ替わったりするのが、今回は指揮と歌手しか見ていなかったので殆ど舞台を見ていなかったのにも拘わらず、その音楽的なアイデアからとても良く理解出来た。
要するに音楽の表現が明確になることで演出の意味が理解されるようになり、それが今度は音楽的な創作への理解を深めるという結果になる。今回の演出が初日の評価に関わらず演奏、演出とも「トリスタン」の代表的な制作になるのは間違いなさそうだ。(続く)
Jonas Kaufmann: Wohin nun Tristan scheidet (Wagner)
参照:
夏至の頭に響いた音楽 2021-06-22 | 暦
ペアー席が無くなって 2021-06-03 | 文化一般
カメラは六台ほど入っていた。パブリックヴューイング為にだけの設定では無くて、メディア制作と全く同等のマイクロフォン等の設定だったと思われる。どのような音が録れているかも楽しみである。
初日の演奏との比較をメモしておこう。総じて、初日には管弦楽団が我武者羅に棒について行った様が無くなって、余裕と共にメリハリを付けて攻めるようになっていた。それは指揮の練られ方でもあるのだろう、些か各システムごとの出入りが激しかったのが綺麗に整理されていた。あれ程準備期間があっても、初日にはマイクが入って無かった故に思い切った出し入れがなされていたとも言える。丁度2013年のペトレンコ指揮「指輪」上演を彷彿させる。序でに言及すれば、それでも蓋の無い奈落での舞台とのバランスという意味では最初から悪くはなかった。問題は音楽的な整理であった。13日の四回目公演でものにしていたとも考えられるが、少なくとも楽団は一部づつローテーションになっていたということなので、誰が入っても纏まりが崩れないようになっていたとも思われる。
それは初日と13日との新聞評の差異にも若干感じられたのでその傾向が進んだのだと思われて、それは何時もの如く一般的に一幕の起承転結の起の纏まり方としても明らかだ。これは技術的な面だけでなくて、恐らく演奏者全員が公演ごとのドママテュルギ―感を身体で覚えて来るのだろうと思われる。それは、音楽的に特定の音程関係や跳躍などの動機の細分が他の楽劇のお決まりライトモティーフの様に単純化され難いからこそ、余計に身体で覚える感覚が強いのではなかろうか。それが今度はシステムごとの絡みとしてバランス感覚ともなるので凸凹が無くなって明晰になるのだ。それ故に初日は謂わば情報過多の様になっていて当惑するぐらいであったのだが、今回はそのアンサムブルの微妙さとしての又は音色の純度として聴感として得られた。
一幕では、初日にはイゾルテのハルテロスも飛ばし過ぎ感があってあまりにも歌を披露していたのだが、楽日には演出の内容や言葉の意味としての歌声としての表現力が上がっていた。また短いながらもトリスタンのフィナーレでの歌声もカウフマンの聴かせる上の声域での美声もあって、これだけで金が取れると思った。しかし、なんといっても28日のヨハナーンから絶好調に近いコッホの歌うクルヴェナールはペトレンコが特別に指揮する程に極限までを攻めていて、これもとても聴き甲斐があって、なるほど若いフィッシャーディースカウがこの役で注目された意味も理解した。またブランゲーネのフォンデアダメロウの歌も初日の評価とは異なりもう一つ満足できなかったのだが、今回は声質にも配慮があって役回りとして進化していたと思われる。
二幕のソーシャルディスタンシングにおけるトリスタンとイゾルテが今回の演出のクライマックスであったことは間違いなく、プラトニックな関係というよりもより万有引力的な関係がその演出で示されていて、それが音楽的なアイデアを裏付けている。それだけで無しに今回は遠くから判別不可だった注射の毒がまさしくワクチン接種を揶揄していた。まさしく今回のオペルンフェストシュピーレを取り巻く状況をこの舞台に集約させていた。そして音楽的な頂点を形作る。
いづれにしてもこの「トリスタン」には創作年の前後する「マイスタージンガー」や「ジークフリート」までのアイデアが詰まっていたのも間違いが無い。
そこまで気が付くと、ネットにても多くの呟きがあった三幕における不可解なアンドロイドの意味合いやその動きが、トリスタンの幼少期のトラウマと対応したりまたフロイトの寝椅子にいるトリスタンの影武者になったり入れ替わったりするのが、今回は指揮と歌手しか見ていなかったので殆ど舞台を見ていなかったのにも拘わらず、その音楽的なアイデアからとても良く理解出来た。
要するに音楽の表現が明確になることで演出の意味が理解されるようになり、それが今度は音楽的な創作への理解を深めるという結果になる。今回の演出が初日の評価に関わらず演奏、演出とも「トリスタン」の代表的な制作になるのは間違いなさそうだ。(続く)
Jonas Kaufmann: Wohin nun Tristan scheidet (Wagner)
参照:
夏至の頭に響いた音楽 2021-06-22 | 暦
ペアー席が無くなって 2021-06-03 | 文化一般