フランクフルトのバッハ会員である。しかしこの十年間かでこれほどのバッハ解釈は経験した事がなかった。トリフォノフの「フーガの技法」がフランクフルトでは無くバーデンバーデンで演奏されたことが悔しい。バルセロナの隔し録音との様子とは異なって、休憩を挿んで第一部と二部に別けて演奏された。そして「フーガの技法」の後で立ち上がって拍手を受けた。
Daniil Trifonov - Bach Chaconne Left Hand - Die Kunst der Fuge - Jesus bleibet meine Freude - LIVE
前半の山は休憩前のコントラプンクトVIIがフランス舞曲に続いて演奏されたが、その主題と対主題における上声に浮かぶ全音が小節を亘って大きく歌う。こういう表現は聴いた覚えが無い。ロシアの音楽家らしくそのリズム取の巧さは分かるのだがこの場合は拡張されたリズムである。そこだけでももうこの人が何が出来て出来ないとか考えないでいい表現力だと感じた。こういう人が登竜門とはいえコンクールを受けていたのが不思議にさえ思える。
そこからの三声、十二度、十度、四声での反行が組み合わされ、最初の四曲の主題による変奏とは音楽的な意味が変わって来る。多くの聴者にとっては急に複雑になって集中力と理解の限界と感じ始めるところでもある。同時にこの楽器が指定されていない楽曲を演奏する者にとっては腕の見せ所で、バッハのそれまでの創作の多義性に立脚するところともなり、第一部を終える。
そもそもここでのコントラプンクト自体がバロックにおける技法の踏襲であって、その文献の原典にはオルガンにあった。そこがフランドル学派におけるルネッサンスの多声音楽における創作そのもののとは大きく異なるところである。勿論ロココを越えてベートーヴェン以降になればただの音楽ジャンルにしかならない。
この最晩年の未完で筆をおいた創作が、息子のカールフィリップエマニュエルが恰好を整えて銅板に総譜の形で売ろうとしたのにも拘らず買い手がつかず再び溶かされてしまったという逸話の通り、その時点において既に時代遅れの創作であったのだ。
しかし矢張りここでも感じるのはその楽曲解釈とその実践が中々伴わないということでしかないだろう。今回の場合は既に前半においても宇宙的な広がりを聴かせていたのであるが、後半のXII、XIIIとフィナーレに掛けて更なる重要な音楽的な素材を提出してくる。
そして圧巻なのはXVの四声にプレリュードの様に主題からそして拍手後演奏の「イエス、我が喜びであり賜う」がそこに先行してという構成である ― CD情報からするとトリフォノフ自身の編曲。それだけで感興は一気に高まるのだが、反行のフーガが挟まれ、バッハの三つの主題の絶筆へと繋がれる。大バッハが最後に行きついた世界は、アルファからオメガへの示唆を通して、愈々三位一体へと意識は進んでいく。するとそれがコントラプンクトというある意味非常に客観視を要される音楽技巧における視座へと導かれているのが分かるのである。
この曲とやはり同様にフリードリッヒ大王の旋律を編んだ「音楽の捧げもの」そして20世紀になってヴェーベルンが編曲をしてという大きな枠組みへと導かれるのだが、自らの使ったBACHの音名をもそこに別の視座が用意されることになる。ある意味とてもプロテスタンティズムに富んだテスタメントとしても良いものかもしれない。このリサイタル後、カトリック圏のザルツブルク、そしてプロテスタント圏のコペンハーゲンでも演奏される。もう一度アルテオパーでも演奏するように画策できないものか。
そしてこのリサイタルは、ヴァイオリンの為の二短調パルティータのシャコンヌに続けて始まった。それもブラームスによる左手の為の編曲だった。勿論そこでブラームスの眼を通したバッハ像が描かれているのだが、まさしくそれは同時に20世紀の眼を通したものであり、1991年生まれのトリフォノフにとっては正しく歴史的な視座であるに違いない。
このピアニストにとってもその技巧は、創作者のその内声であり思考である理念を如何に音化する為に存在しているのかというのが明らかなリサイタルであり、こうした充実はブレンデルのリサイタル以来初めてのことだった。会場も400人程度の割には十分に湧いた。恐らくまた来てくれるだろう。リサイタルで、または復活祭に。
CDが特別先行発売されていたら買ってしまう所だった。財布の中身を気にしていたのはそのような気もしたからであった。
参照:
もしもピアノが弾けたなら 2021-04-11 | 音
ミサ典礼文の表情 2021-08-16 | 音
Daniil Trifonov - Bach Chaconne Left Hand - Die Kunst der Fuge - Jesus bleibet meine Freude - LIVE
前半の山は休憩前のコントラプンクトVIIがフランス舞曲に続いて演奏されたが、その主題と対主題における上声に浮かぶ全音が小節を亘って大きく歌う。こういう表現は聴いた覚えが無い。ロシアの音楽家らしくそのリズム取の巧さは分かるのだがこの場合は拡張されたリズムである。そこだけでももうこの人が何が出来て出来ないとか考えないでいい表現力だと感じた。こういう人が登竜門とはいえコンクールを受けていたのが不思議にさえ思える。
そこからの三声、十二度、十度、四声での反行が組み合わされ、最初の四曲の主題による変奏とは音楽的な意味が変わって来る。多くの聴者にとっては急に複雑になって集中力と理解の限界と感じ始めるところでもある。同時にこの楽器が指定されていない楽曲を演奏する者にとっては腕の見せ所で、バッハのそれまでの創作の多義性に立脚するところともなり、第一部を終える。
そもそもここでのコントラプンクト自体がバロックにおける技法の踏襲であって、その文献の原典にはオルガンにあった。そこがフランドル学派におけるルネッサンスの多声音楽における創作そのもののとは大きく異なるところである。勿論ロココを越えてベートーヴェン以降になればただの音楽ジャンルにしかならない。
この最晩年の未完で筆をおいた創作が、息子のカールフィリップエマニュエルが恰好を整えて銅板に総譜の形で売ろうとしたのにも拘らず買い手がつかず再び溶かされてしまったという逸話の通り、その時点において既に時代遅れの創作であったのだ。
しかし矢張りここでも感じるのはその楽曲解釈とその実践が中々伴わないということでしかないだろう。今回の場合は既に前半においても宇宙的な広がりを聴かせていたのであるが、後半のXII、XIIIとフィナーレに掛けて更なる重要な音楽的な素材を提出してくる。
そして圧巻なのはXVの四声にプレリュードの様に主題からそして拍手後演奏の「イエス、我が喜びであり賜う」がそこに先行してという構成である ― CD情報からするとトリフォノフ自身の編曲。それだけで感興は一気に高まるのだが、反行のフーガが挟まれ、バッハの三つの主題の絶筆へと繋がれる。大バッハが最後に行きついた世界は、アルファからオメガへの示唆を通して、愈々三位一体へと意識は進んでいく。するとそれがコントラプンクトというある意味非常に客観視を要される音楽技巧における視座へと導かれているのが分かるのである。
この曲とやはり同様にフリードリッヒ大王の旋律を編んだ「音楽の捧げもの」そして20世紀になってヴェーベルンが編曲をしてという大きな枠組みへと導かれるのだが、自らの使ったBACHの音名をもそこに別の視座が用意されることになる。ある意味とてもプロテスタンティズムに富んだテスタメントとしても良いものかもしれない。このリサイタル後、カトリック圏のザルツブルク、そしてプロテスタント圏のコペンハーゲンでも演奏される。もう一度アルテオパーでも演奏するように画策できないものか。
そしてこのリサイタルは、ヴァイオリンの為の二短調パルティータのシャコンヌに続けて始まった。それもブラームスによる左手の為の編曲だった。勿論そこでブラームスの眼を通したバッハ像が描かれているのだが、まさしくそれは同時に20世紀の眼を通したものであり、1991年生まれのトリフォノフにとっては正しく歴史的な視座であるに違いない。
このピアニストにとってもその技巧は、創作者のその内声であり思考である理念を如何に音化する為に存在しているのかというのが明らかなリサイタルであり、こうした充実はブレンデルのリサイタル以来初めてのことだった。会場も400人程度の割には十分に湧いた。恐らくまた来てくれるだろう。リサイタルで、または復活祭に。
CDが特別先行発売されていたら買ってしまう所だった。財布の中身を気にしていたのはそのような気もしたからであった。
参照:
もしもピアノが弾けたなら 2021-04-11 | 音
ミサ典礼文の表情 2021-08-16 | 音