Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

南極探検での蓄音機

2022-02-14 | 文化一般
先日演出家のハンス・ノイエンフェルツが亡くなった。この演出家が最も有名になったのはベルリンでの「イドメネオ」演出でモハメードの切り取られた首を舞台に出すことから公演を中止にされたことであった。演出自体が政治性を帯びていたとも言える。しかし個人的にはスルンカ作曲「サウスポール」での手堅い仕事ぶりだった。演出家も短い期間パリでマックス・エルンストの助手をしていたことからその美術的なセンスも語られる。

南極のアムンセンとスコットの極点一番乗りの物語においてもテントの内側の骨の形を利用した舞台作りなどにも、その舞台上での人の配置にも手堅さを見せていた。音楽監督キリル・ペトレンコ指揮の唯一の世界初演だったことでも明記されよう。作品も題材的にも作曲技法上もまだまだ再演されると思われるので、録画等もいづれ発売されるであろう。

舞台上での音楽もオクサーナ・リニヴが振っていて、アシスタントはデンマークの歌劇場の監督になったマリー・ジャコー が務めていた。

同じころ亡くなった作曲家のジョージ・クラムも若干新しい素材を使っていたかもしれないがネオロマンティシズムとして保守的な作曲家であったともいえるだろう。だから売れやすいのだが、創作として残っていくかどうかは疑わしい。そこが演出家などの再現芸術家と創作家との大きな相違である。

足の痛風紛いの状態は相変わらずだが、内履きを夏のサンダル型に変えて歩きやすくなった。最初は腫れていなかったのだが、二度目の走りのあと12時間ぐらいで腫れてきた。二晩目は寝室のヒーターを活かしたまま掛け布団を薄くしたので足に負担がかからなかったのでまずまずの睡眠となった。腫れは可也進んで痒くなってきた。痛風は風が吹いても痛いというイメージで可也敏感なものかと思っていたが、なにも足を痛めた時と状況は変わらない。更に親指だけでなくて人差し指も少し違和感が出てきた。痛みのピークアウトはしたようで、写真を撮ってどのようになっていくか観察したい。

確かに痛風は栄養だけでなくて、激しい運動の尿酸によっても生じるというから明らかにそれだとと思う。気を付けて水分も取っていたのだがビールと同じぐらいの量だったかもしれない。先ずは普通に歩行が出来るようになるのはどれ程かかるのか、また運動を再開出来そうなのかが目星になる。最初に走った水曜日のあとから違和感があって金曜日に走ったのがいけなかった。膝の関節なども疲れていた。

土曜日のベルリンからの生中継は、やはりスーク作品が面白かった。この二種類のプログラムは其の儘ヴィーンで来週演奏されるが、最初の「フォトプトーシス」と「円熟」の間に三曲が挟まれる形で、一晩目と二晩目がブラームスでブリッジを架けている ― 実は勘違いしていて、ヴィーンでは初日火曜日がシフの登場で、ブラームスがブリッジになっていない。そうなるとこの二日間の繋がりがまた異なる。ブラームスの二番でフィナーレとなり、それも注目される。最初の曲に比較しても最後の曲は中々鷲掴みにするのは難しい。更に管弦楽がとても密で、昨夏に「夏のメルェン」を生で聴いて、これは中々音だけ聴いていてもついていけないと思った。ペトレンコが夏のツアーにシュミットの交響曲四番も持って出たが、それなどはスカスカに見えるほどの管弦楽である。聴こうとすると睡魔に襲われるのはそういう理由である。既に三曲の録音が出来たことで、年内に室内楽なども込みでCD化されて発売されそうである。ハイレゾのダウンロードが出来るなら欲しい。



参照:
人生における省察の日 2021-09-09 | 音
引用とかモンタージュとか 2022-02-02 | マスメディア批評
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計五泊をブッキング

2022-02-13 | 生活
新たに二泊をブッキングした。ルツェルン音楽祭用の宿泊である。昨年の味を占めて国境沿いのこちら側の昨年の宿の同じ町の違う部落に見つけた。昨年のところも110ユーロ程で何とかなりそうだったが、お得な面と悪い面の両方を知っているので、更に良さそうなところを探した。少なくとも点数はワンポイント上だ。しかし料金は二日で40ユーロ高価になる。大きな違いは60平米以上あって、寝室とリヴィングが別れていて、いざとなれば最初の追加料金で三人まで増強可能。二人は全く問題がない。

目を引いたのは大きな庭と大借景である。少なくとも天気さえよければ朝食、昼食とゆったりと出来る筈だ。テラスではないので限られることは限られる、しかし前回の地下の部屋よりは気持ちがよいであろう。前回感動したパン屋は街の反対側になるので支店かどこかに行かなければいけないかもしれないが、それはまた考えればよい。

これで、入場券を獲得していない計五泊を確保した。あと間に幾つか挟むかもしれないが、滞在型という事では臨機応変にやればよい。

3月19日でドイツ連邦共和国の現行のコロナ規制の殆んどが期限となる。そこでショルツ首相は、20日以降に必要なものがあれば新たに法制化するとある。これで来週水曜日の緩和策はその時まで有効となる。個人的にはテストの免除がどうなるか。それによって、3月20日以降の規制廃止の礎になると思う。

金曜日にお勤めを果たすべく、短く走ってきた。前回水曜日から親指の付け根に違和感があって歩き難かったので、ショック療法で治そうとしたら、就寝前に悪くなってきた。親指の付け根なので痛風が疑われるところで気持ち悪かったが、以前にも同じような痛みは経験していて腫れていなかったので大丈夫かと思っていた。一晩中痛みで眼が覚めた。布団にも触れなければ痛くはないのだが、生憎寒くてどうしても重量がかかる。腫れも目立つようになってきた。但しネットに書いてあるような熱感はない。寧ろ鈍痛で、付き指などに近い。週明けまでに普通に歩けるようになるのか?折角金曜日に終えて、来週からは再び余裕があると思ったが厳しい。

今夜はベルリンからの中継がある。ヴィーンとクロアチアに持って行くプログラムの二つ目で、ブラームスのピアノ協奏曲をアンドラーシュシフが弾くものだ。そのトレイラーを見て、ピアノは駄目だと確信した。そしてそのピアノに合わせても大した演奏にはならないことも分かった。ピアニストの話しぶりも爺さんで、少し出てくる音もお得意の整ったタッチとはなっていない。2019年にバルトークの協奏曲をキャンセルした時にももう弾けないのだなと思っていた。既に二十年ほど前からそのピアニズムでは決してよくはならないことが分かっていたので、二度と聴いていなかった。

案の定新聞評には薄目を開けてタッチを確かめながら弾くピアニストに合わせるために、ペトレンコはベルリナーフィルハーモニカーの弦を流したり苦慮していたとあった。ペトレンコは復活祭においても貶していたランランと一回きりの伴奏の晩を持つなどしていたが、今回は短いツアーにも出る。二曲目のメインのスークの曲もさっさとやっている感じだとあってあまり評判がよくない。しかしこちらはその真価を放送で聴いてみないと何ともいえない。アーカイヴ化されてハイレゾになってから聴くのも楽しみである。



参照:
職業倫理の音楽性 2022-02-12 | マスメディア批評
パン屋への道のり 2021-09-10 | 生活
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職業倫理の音楽性

2022-02-12 | マスメディア批評
2月11日は指揮者キリル・ペトレンコ生誕五十周年で、記念番組なども組まれている。それに関する記事をバイエルン放送協会のノイホフ氏が書いている。読んで感動したのは、先日来日本のネットでも話題になっているブラームスの交響曲のミュンヘンでの四番の演奏について、昨年の指揮としては最高級の上演だった「トリスタン」と並べて書いている部分である。

ベルリンで始めて批判的な評が出た先々週の交響曲二番の問題は二年前のソーシャルディスタンシング配置での演奏の時に既に出ていたと考えているが、その私見を後押しするだけの感想が書かれている。私も聴いたそのミュンヘンでの交響曲四番の解釈についてである。

ノイホーフ氏にとっては知り尽くしている愛好曲であったらしいのだが、ペトレンコ指揮の細部にもわたっての新たな啓示は、構造的であると同時にそのトリックについても露わにして、その演奏実践はあまりにも常軌を逸したエクスタシーの響きとなり、数日間寝ても覚めてもそれに捉われてしまったと述懐する。私の感想もそのあまりにもの斬新さは到底ヴィーナーフィルハーモニカーの定期公演では実現不可能なものであったことを理解して、ベルリンでのそれを待ち望んでいたのだった。

しかし結果はペトレンコ本人がインタヴューで語っていたように、自らが音楽監督をしていたマイリンゲンでのブラームス自らの指揮の初演からの総譜の書き込みの復活を求めたが、ベルリンのフィルハーモニカーでのブラームス演奏の伝統との折衷としての演奏実践となった。それはそれで決して間違っていない判断だったのだが、それを少なくとも四曲終えるまでは継続することも肝に銘じている筈である。

そのことを踏まえてノイホーフ氏は敢えて、ミュンヘンでの素晴らしい演奏会の記憶としていて、今後は放送を通じてしか体験出来ない喪失感もミュンヘンの聴衆と共に分かち合っている。

ノイホーフ氏はもしかすると私が昨晩見つけて引用した前述シュタインバッハの総譜や書き込みに関するティテュス・エンゲルのコメントを読んでいたのかもしれない。なぜその実践がベルリンでは容易ではなかったかは、まさしく7月にティロルの音楽祭でエンゲルが小規模簿の楽団を振って、それもベルリンでのマイニンゲンの監督であったビュロー指揮の写真を参考に、その通り立奏で演奏する予定であることを鑑みれば、ペトレンコの妥協が納得されることになる。要するにエンゲル指揮ではもっと遥かに容易にマイニンゲンでの初演からの総譜の書き込みを具体化することが可能となる。それだからこそ余計にペトレンコ指揮の演奏実践をどうしても改めて評価しておきたいという気持ちが働く。

ノイホーフ氏の南アフリカ出身歌手ゴルダ・シュルツとの対談番組においてもとても優しい人間性を示していたのだが、ここでもとても親切な気持ちが読み取れた。しばしば甘い批評をするのではあるが、こうした気持ちは大切である。

前回紹介した指揮者スレキーテよりも少し先輩の同郷のティーラが至らないのはその音楽性だけでなくまさしくその行動の無責任さやそこに表れる人間性である。若いペトレンコがヴィーンのフォルクスオパーの支配人だったバッハラーの気持ちを打ったのはその真摯な態度にあった。こうした特別に専門的な社会でも最終的には職業人としてのその倫理が問われるという事である。エンゲルに関しては勿論個人的に知己があるのでそれは当然分かっているが、最近もやはり間違いないと思う事もあった。



参照:
ACH, DIESE LÜCKE, DIESE ENTSETZLICHE LÜCKE, Bernhard Neuhoff, BR-Klassik vom 9.2.2022
いざシュトッツガルトへ 2022-02-11 | 文化一般
LANケーブルで中継 2022-01-29 | マスメディア批評
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いざシュトッツガルトへ

2022-02-11 | 文化一般
シュトットガルトの劇場から配券があった。3月始めの「ボリス」再演である。その時までにテスト条項が外れるかどうかは分からないが、準備だけは考えておかないといけない。ブースター免除を受けるも一つの選択である。但し安めの席を希望していたので、いざとなれば60ユーロで捨てられる。どうせ4月にはブースターを打っていないとという状況もある得る。270日で接種が無効になるので最長6月中旬までである。もうしばらく状況を見る。

久しぶりの劇場でそれだけでも嬉しい。その上階の最前列も座った覚えがなくて、音響を吟味できるのがいい。小さな劇場なのでそれ程場所によっての差はない。精々奈落を覗き込めて、座付き楽団の腕を拝見するぐらいだ。楽団はフランクフルトよりはうえで、ハムブルクか若しくはベルリンとの比較になるだろうか。丁度その中間のようなシックな印象はある。

そこの現在の音楽監督コロネリウス・マイスターはもう一つキャリアを上げそうな塩梅でベルリンでバレンボイムの後任になるのかまたはチューリッヒなどに行くのかは分からない。前アシスタントのクックアイスはフランクフルトに就任する。興味のありどころはその後任である。よく分からない。

一つは、ドレスデンのゼムパーオパーの後任候補筆頭のオクサーナ・リニヴが未だそこでデビューしていないようで、前任者がブロックしているのかもしれない。評価が定まらないと発表にならない。リニヴが入ってもおかしくないのはベルリンもである。

ミュンヘンのフィルハーモニーにデビューした劇場のアシスタントをしていて評判の良いギードレ・スレキーテ指揮の中継録音が流された。残念ながら新しいホールのイザールザールはカメラ機材が整っていないようで映像はないが、音は聴いた。やはり評判通り際のがあって、兎に角細やかな神経が通っている。今迄の女流とはまた異なる良さがある。新聞評にもあったようにその反面若干線の細さは感じるのだが、プログラミングを含めて結構音楽通向きの指揮者ではないかと思う。既に日本でもデビューしたようだが、玄人筋の評価はどうだったのだろうか。技術的には可也上の人ではないだろうか。

コダーイの舞曲も丁寧過ぎるぐらいで、新曲初演の前を配慮していたのだろうか。音響の作り方も上手いと思うが、なにか指揮を振っている感じが見えるような音楽作りでもある。結構神経質そうなのが、後半の未完成交響曲でも感じられて、最後に上手にラヴァルスを持ってきていた。音楽会の流れや雰囲気をドラマテュルギー的に拵える才能はとてもいい。総じて、北欧からの指揮者の中では最もいいと思った。フランクフルトで逸したオペラ指揮も一度聴いてみたいと思うが近いうちにチャンスがあるかどうか。

シュットガルトへのデビューは済ましていないようだが、来シーズンぐらいはありそうな気がする。どちらかというとフランクフルトよりもシュットガルトの方が力を出せる指揮者だと思う。そこまでやれるだけの経験をミュンヘンで身につけていると可也早く出世してしまう人だろう。



参照:
賢い女狐はどうなるのか 2022-01-30 | 女
初買の気持ちは如何に 2022-01-03 | 生活
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バイエルン州の緩和開始

2022-02-10 | 文化一般
先日発注した手袋が届いた。早速タグを其の儘に手を入れてみる。ばっちり今迄と同じだった。最初は狭く感じたのも当然だろう。重要なのは指の股がしっかり嵌まるかどうか。これも今までと同じく一指し指と中指の間だけが少し浮く。Mサイズで取り分け指が長くはないのだがそうなるのがいつもだ。それでも指揮者のペトレンコよりは長いのは間違いない。しかし他はしっかり収まっていて気持ちがよい。

前の手袋はツアースキーにも使い、ランニングにも使い、夏の山にも使いそして日頃の冬のランニングや外出にも使った。万能手袋である。新製品も同じようにある一定期間使えることを願っている。防寒能力は十段階で三だが、三千メートルの冬山でも太陽が出て風が弱かったら問題ない。心強い手袋である。

バイエルン州の緩和策が発表された。それによって、三月末までは定員75%でミュンヘンの劇場などが上演される。四月から定員一杯入場になる可能性も高い。同時にバイロイト音楽祭も夏の計画がたてられて、来週あたりに正式なプログラムが発表されるだろう。収容人数は夏には満員入れられるかどうかは未定であるが、少なくとも舞台などは通常に戻る筈だ。

こちらも計画の為にプログラム等を予想してみる。決まっているのは24日の初日に新制作「指輪」から「ラインの黄金」で開催して、五日間を掛けて最初のクールが終わる。その間に「オランダ人」、その他には何が入るのか。

既に最終公演が終わった2016年新制作「パルジファル」以外である。2012年「オランダ人」、2013年「指輪」、2014年「タンホイザー」、2015年「トリスタン」その後の新制作は2017年「マイスタージンガー」、2018年「ローエングリン」、2019年「タンホイザー」だった。2020年に予定された「指輪」が中止になり2022年に回され、2021年に「オランダ人」となった。

2022年は本来は何が来る予定だったのだろうか。「指輪」の指揮インキネンは2020年から2022年ぐらいの予定になっていて、来年からコルネリウス・マイスターが代わるのだろう。2023年から「トリスタン」や「パルジファル」が出てくるのだろう。その次に「マイスタージンガー」そして「ローエングリン」、「タンホイザー」。

オクサーナ・リニヴとアスミク・グリゴーリアンの「オランダ人」は今年初めて合唱を伴った本格的な上演となるので出かけたいと思う。しかしそれほど遠くないうちのティテュス・エンゲルも初日を振りそうなのでそちらも考えておかないといけない。しかしエンゲルはまだ「ローエグリン」しか振っておらず、現在の執行部体制ではそれ程立派な音楽劇場の演出もなさそうである。流石に今の馬鹿げた演出は頼まれても振らないだろう。

古い手袋で走った。これで一度洗濯をして様子を見てみよう。破れるか、更に使えそうか。使えそうならば無理に新しいものを下す必要がないが、アウトドーア製品で不完全なものは怪我か事故の原因になるだけで適時の判断が必要になる。



参照:
ヴィヴァーチェに至る時 2022-02-06 | 生活
トレールラン靴下しアタック 2022-01-04 | アウトドーア・環境
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地盤沈下の音楽の都

2022-02-09 | 生活
ヴィーンからの中継を観た。結論からするとフランクフルト公演の方が遥かに上だった。その要因は奈落が下手の一言に尽きる。若手の指揮者はミュンヘンも出るのでまともだと思っていたが、これがとんでもない能無しだった。プッチーニで今時あれだけ吠える管弦楽は珍しい。往々にしてありがちなのだが同時に絞る能力もない。更に舞台との切っ掛けも待っていて掴んでいるようで、録音のディレーが生じているのかと思ったぐらいだ。名門の座付き楽団は一呼吸おいて音が出るとされるが、そこで一呼吸遅れるのだろうか。

そんな指揮だから鳴る管弦楽も最低だった。これがあのヴィーナーフィルハーモニカーのホームでのお勤めかと思うと呆れるしかない。今からでは三十年前に何を考えていたかの記憶はないが、ザルツブルクでオペラを聴いてやろうと思った理由はそこにあったのは覚えている。要するにアンサムブルが整っていなくても質の高い上演を求めた。

今回改めてこうした日々の営みをストリーミングとして受けると、当時よりも状況が悪くなっているのではないかと思った。こういう書き方をすれば旅行者やそういう聴衆のナイトライフとしてはそれで十分だという声もあるだろうと思う。しかし、芸術は質が悪ければその発する影響も弱まり、観光資源のただの一つでしかなくなっていくのではなかろうか。嘗ての遺産で食っていくにも限界がある。他所のことに提言をしても始まらない。

こちらの興味はオーストリアのTVニュースでも取り上げられていた主役のアスミク・グリゴーリアンの歌にあるのだが、またもやデビューの「蝶々さん」に続いて本格的な歌唱とはなっていなかった。理由は奈落の責任であるのは書いたとおりだが、この劇場の公演では適当に流すことにしてしまったいるかと思うと情けないお話しだ。確かに上の様な被せてくる管弦楽に大声を張り上げるような藤四郎ではないのでタクティクスとしては当然だともいえる。よって、期待したような熱唱ともならずに、ヴィーンが更に地盤低下となる。そもそも聴衆を舐めたヴィーンの興行方針がその原因となっている。自業自得である。

さて今年のアスミク・グリゴーリアンの世界的な大活躍を予想して制作してあったドキュメンタリー映画がコロナ禍で四月に遅らされてロードショーとなるらしい。放送でも流されるだろうからそれを待っていればよいと思うが、中々の歌手の人選である。先ずはエルモネーラ・ヤホ、バーバラ・ハニンガムそしてアスミク・グリゴーリアンの三人のトップ歌手が描かれている。

最初のはミュンヘンでもペトレンコ指揮「三部作」の修道女アンジェリカで聴いてから、翌年の再演でのフェストシュピーレまでに出かける切っ掛けになった歌手である。二人目はやはりミュンヘンでのアロイス・ツィムマーマンの「ディゾルターテン」では彼女がいなければ再演とならない唯一無二の存在だった。そして最後のは今年ザルツブルクで「三部作」を歌い、その前には復活祭の「スペードの女王」で大きな脚光を浴びることになっている。
FUOCO SACRO: Suche nach dem Heiligen Feuer des Gesangs Trailer German Deutsch UT (2022)


だから、ヤホの練習をつけるペトレンコが少なくともワンカットは登場しているようで、ここだけで我々からすると見逃せないところだ。その実、彼女の歌とペトレンコの指揮という事ではそれなりの合意がなければ出来なかった表現がなされていて、その一端でも知りたいと思うからである。



参照:
『スペードの女王』へと 2022-02-08 | 文化一般
素人の出る幕ではない 2018-05-12 | 文化一般
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『スペードの女王』へと

2022-02-08 | 文化一般
バーデンバーデン祝祭劇場のサイトに新たな復活祭ページが加わった。主な内容は昨年11月に流されたペトレンコの楽曲に関するインタヴューヴィデオの切りとりの販促である。文章としては、「(復活祭で祝祭劇場の奈落デビューをする)ペトレンコは、四回の(スぺ―ドの女王)上演で最大級の期待に応えることになると思う」としている。

その切り取られたヴィデオでは、「『スペードの女王』は最初から最後まで力の入った筆で書かれていて、作品として全てが結果を得た圧倒的な勝利で、描かれるヘルマンこそが其の儘アウトサイダーである作曲家チャイコフスキー自身になっている。愛情から破壊へと至るリサとの関係は作曲家のそれに似ていて管弦楽は至芸の作品で、恐らく19世紀のロシアのオペラとしての最高峰にある。それどころか後期ロマン派の一里塚となっている作品。唯一無二。チャイコフスキーの愛の危機に相応。」と語っている。

それを受けてかマルテ・クラスティングは、「バーデンバーデンの祝祭劇場で初めて舞台を振る上演になるが何か一言」と尋ねる。

「(演出に)とてもオーソドックスなのだがとても興味深い視座が開く、それは同時にとても合理的であると個人的には確信してます。そしてとても楽しみにしていて待ち遠しい。その前に純音楽的に『マゼッパ』をお試しでやる訳ですが、そこに奈落と舞台のブリッジを掛けるというなるべくしてなる繋がりとなります。コロナで一回飛んでしまった分余計にその思いが…」

多くの寄付をした人などがこのペトレンコの思いを聞いてどのように感じるかは分からない。しかしどちらにしても大きな感慨を持つのではなかろうか。少なくともこのページが上げられたのは1月25日であり、劇場の覚悟もそこに見て取れるだろうか。

日曜日の早朝にタイマー録音していたボストンからの中継が良かった。生中継枠なので休憩時間にはセレナードの編曲版が流れていたが、たっぷりと楽しめるプログラムになっていた。最初にヤナ―チェックの序曲を持ってきて、ソリストとのラフマニノフ、そして最後にドヴォルジャークの六番交響曲。とても味わい深い演奏だった。やはりボストンのシックなアンサムブルにはこういう指揮と演奏が似合う。会場の受けもよかったようなので、アンサムブルさえいいものを保持できれば現監督のネルソンズよりも文化的に高度である。客演筆頭指揮者になるのは間違いないような成功だったろう。

「スペードの女王」のリサでバーデンバーデンデビューを果たすアスミク・グリゴーリアンが二度目のヴィーンでの舞台に出ている。前回は新制作「蝶々さん」だったが、音楽監督自らの指揮でとんでもなく歌を殺すような指揮に合わすことになっていた。しかし今回はミュンヘンにも出ている若い指揮者で自由に主役で歌わせてもらっている感じがする。週末のオーストリアのニュース番組に新制作でなくてもその様子が取り上げられているぐらいに大スター扱いとなっている。月曜日の公演が生中継されるようで、劇場のサイトで無料で観れそうなので、こちらも今度こそはという気持ちになる。ベルリンでは急遽デビューを果たし、来るバーデンバーデンでも世界的な脚光を浴びる中でヴィーンでは大成功していないとなれば何事かとなるからだ。要するに歌手にとってではなくて劇場にとって大成功して貰わなければならないという状況になっている。



参照:
Ein „Juwel“ zur Premiere, Festspielhaus Baden-Baden vom 25.1.2022
復活祭に向けての準備 2022-01-12 | 文化一般
指揮者の職人的技量 2022-02-05 | 文化一般
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慢性的なコロナ病弊

2022-02-07 | 生活
週明けから解放への議論が進む。一週間内外のピークアウトがコッホ研究所で予想されて、心配性の保健相も今まで上手く乗り越えたと語っている。振り戻りを恐れる慎重論もあるのだが、憲法違反状態は出来る限り早く解除されるのが望ましい。

バイエルン知事は、飲酒証明書の無い買い物に並べて文化、スポーツなどの分野での緩和を主張した。既に会場の五割の入場が認められている劇場などで次のステップは完全検査廃止と入場制限の撤退との均衡を取ることであろう。

決定を待っているバイロイト音楽祭などは半分はどうしても発券したいに違いない。残り半分も状況によれば捌けるだろう。欧州でデジタル化された接種証明も少なくともオミクロンには無意味だとはっきりした。接種していても感染拡大とは無関係だからである。今年の秋に向けてどうするかだけの判断が必要となる。

個人的には三月始めの公演の配券を待つと同時に検査が無くなることを期待している。抗原検査でも体調が悪い時の検査は不安になる。計画が立たなくなる。更に五月以降の発券もそれで確定する。復活祭も定員でやれるのかどうかが大きい。

金曜日に生中継も用意されていたライプチッヒのゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会が直前のPCR陽性検査で中止になった。指揮者のアンドリス・ネルソンズも陽性という事で予定されていたルガーノからミラノへのツアーも中止になった。しかしその後の再検査で偽陰性だと分かったのは土曜日で時既に遅しだったようだ。こういうことがある。

集団免疫確立が想定されれば、検査も減員もあまり必要が無くなる。マスクで必要な人だけが防御すればいいだろう。まあ、マスクは気休めにしかならないが、接種して予防する方法がある。

九月の宿は未だ取っていないのだが、七月は取った。五月の宿も予約した。いつもの定宿で二泊。配券がなされていないものであるが、宿は無料でキャンセルが効くので、日程を空けておく方が重要である。昨年の様に一月以上それに時間を空けておくような余裕もないので、出来るだけ日程を定めておく。配券されなかった場合はそれでまた考えればいいと思っている。

週間の天気予報などを見るとあまり変わりなく推移する。また冷えるときもあるだろうが謝肉祭を抜けてバラの月曜日となるともう本格的な寒の戻りはない。陽射しも強くなるので、風邪ひき症状なども飛んでいく。暖かくなりそうなところで散髪である。

土曜日は再び青椒肉絲を十分食せた。一月以上ぐずぐずしていた胃腸であるが、一寸づつ改善してきたと思う。様々な原因はあるのだが、広義には運動不足と座業が大きな要因だろう。寒い季節はどうしても運動量が落ちる。更にコロナ禍でとなれば仕方がなかったのかもしれない。慢性的な病弊もコロナ後には大きな社会問題になるのだろうか。



参照:
ヴィヴァーチェに至る時 2022-02-06 | 生活
キャリアを目指す指揮 2022-02-01 | マスメディア批評
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ヴィヴァーチェに至る時

2022-02-06 | 生活
お勤めを果たした。週始めには難しいかと思っていたが、10㎞と高度差500Mは片付けた。十分だ。最高速もそこそこ出た。しかし走りをピッチ走法に切り替えてみた。切っ掛けは指揮の練習としてメトロノーム60で歩くというのを読んだからだ。もしこれで自分の身体にテムポが身につけられれれば役に立つと思った。

一般にジョギングは180が出れば早いとされる。下りはそれで走れるのを知っている。山道では190には届かない。上りは80ぐらいをイメージした。直ぐに心臓に来た。ピッチに拘ると坂がきつくなると急に苦しくなった。久しぶりこの感じを思い浮かべられただけでも良かった。

実際には140ぐらいで、即ちヴィヴァーチェとなる。それを出来るだけ維持して下ろうと思ったが、自然に早くなってプレスト領域となった。要するに音楽の記号その意味する通りで正しい。勿論普通に歩けばアンダンテになる。この間のアレグロが意外に難しいとされる所以で、やはりスキップとか早い踊りを考えるべきなのだろう。

逆に通常の踊りでは絶対ヴィヴァーチェには至らない、なるとすれば特殊なダンスだと思う。さて何か音楽的なテムポ感は掴めただろうか。しかし早いテムポでの変拍子なんてどうやって出来るのか見当もつかない。180にもなると石に足をひかっけないでも、縺れたらと思う領域に近づいて来る。二拍子系でもこれである。

働けど働けどではないが手を見ると手袋の先が破れかかっているのに気が付いた。既に山用に五年以上使っていると思うが、普段も使うようになってからも大分経つ。ここまで使えただけで再購入に疑問の余地はない。スイスのマムート社の中華製だが、ネットで探してみるとアストラという名称でウインドーストッパーのがあったので、先ずそれで問題ないと思った。若干デザインは改良されているが、基本は変わっていないようだ。

靴でも同じだが、一度サイズの合ったものを使うと同じものならばネットでも心配なく安く買えるという傾向がある。他の製品に替えるだけの理由がなければ、後継製品を選択することになる。

手袋はスキー用などは分厚くて保温性もよく傷み難いようになっているので大変高価である。通常100ユーロ以下ではない。発注したものはそこ迄ではないが高山でもオヴァ―グローヴ無しに使える一方夏山でも嵌めていれるだけの通気性、そして防風性が強いので高価だが、100ユーロ以下で購入可能となっている。探すと90ユーロ以下で50ユーロぐらいまでが多かったが、特定サイズでは36ユーロを見つけた。現在使用中のが8なので安い7にもしたくなかった。しかし43ユーロに送料でサイズ8を見つけたので早速発注した。東ドイツから無事届くのかどうかは分からないが、アマゾン経由なので心配は要らない。

コッホ研究所の試算では来週あたりにピークがやって来て減少に向かい収束する。既に今週から緩和を求めた自由党とその他の連立政党が揉めている。はっきりしているのは、来週あたりから工程表を出していく必要があって、それで三月以降の計画が定まってくる。医療崩壊も起らない状況で入店制限とかその他の日常生活上の制限をするのは最早憲法違反となる。これだけは間違いない。

暮れに購入したバスタオルの封を開けた。売れないヴィオレットで急いで下す必要はなかったのだが、一度洗濯してみないと白以外は知らないので色落ちなどの品質が分からないと考えた。



参照:
指揮科教授のバイロイト 2019-08-19 | 音
ブラインド聞き比べ 2018-04-12 | マスメディア批評
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指揮者の職人的技量

2022-02-05 | 文化一般
ヴィーンの国立音大で教鞭をとっていた湯浅氏が先月18日に上げた文章が紹介された。昨年の三月頃から暖めていた指揮、音楽界への提言である。日本語で書かれていて、日本のそれに広く向けた提言が先ずは本義である。我々のような耳知識人にとっては、こうした高度に技術化された職人技の専門家からの視座がなによりも興味深い。少なくともこちらが文章から理解するものと今迄の認識には矛盾がないか、もしくは新たな見識が得られるのかが最大の関心事となる。

ざっと目を走らせてみて、それ程の認識の差異は無かったのだが、やはりそこは全く違う視点からのそれを想起させる一節がある。

「演奏する相手側が優れた音楽家であり、いろいろな事ができるという前提のもと大体の事を伝えると言うヨーロッパ型の指揮法の教本ではありません。弾けない人達もいて、その人達もなんとか合奏に合わせて弾けるようにさせようとする発想です。これは世界のオーケストラの指揮法とはある意味で違った方向ですけれども、 …」

これは斎藤メソッドについて触れた一節からの引用であるが、聴衆が客席で指揮者の背後から感じていること、舞台の上の奏者が向かい合って感じていること、そして指揮者が演奏家に向かって感じていることの視座の差異として読むと面白い。

因みにこの様な技術のことを独逸の一般紙などでは指揮者の職人的技量と呼ぶ。それがどこから一般的な評価となるかは、音楽ジャーナリストが楽員などから取材したり、こうした同業者の声を集めたり、または自らの経験でそれを評価してみたりの総合的な判断となっている。そして湯浅氏こそがそこでは誰も異論のなかったキリル・ペトレンコにそのメソッドで手ほどきした人物である。

聴衆が最終的に関心があるのは、当該文章でも音楽家の最終的な目標とされる音楽芸術的な表現と共有が為されるかどうかである。そしてその為の方策への提言がなされているのである。これは聴衆側からすれば、態々出向いてそれだけの支払った価値のある芸術体験が出来るかどうかという事である。

一例としてペトレンコがミュンヘンで為したことがその立場から語られている。最初の二年半で全てを掌握したとある。2016年春からならば新制作「マイスタージンガー」の頃からとなる。確かに2015年暮れの「神々の黄昏」再演では批判されていた蓋の無い奈落での演奏をものにしていた。

しかし、演出家や舞台監督の人事で思うようにいかなかったと書いてある。勿論何らかの愚痴がペトレンコ本人の口から出ていたからだろう。確かに今年の復活祭において、その演出についても既に言及していて、演出側からも十分に時間を掛けての協調作業が求められていることでもペトレンコの演出への拘りがよくわかる。

実際にインタヴューで、演出に合わせて音楽を作るという発言もあり、先日モルティエ―劇場に関して言及したそれ以上の拘りという事にもなる。勿論それだけにあのカラヤンが復活祭を始めて為しえなかった芸術的な価値を確立できるかどうか。そこにより関心が集まる。(続く)


写真;ラインの乙女の中村



参照:
指揮者としての条件 - 2, オペラについて、湯浅勇治(Wiener コアラの会)
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
「マイスタージンガー」の稽古 2016-05-17 | 音
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卒無く間隙無しに

2022-02-04 | 料理
演出家マルターラーに関する記述をチェックする。故モルティエ博士の遺稿集にあった記載である。どうも多くは2001年並びに2006年の其々ザルツブルクとパリでの「フィガロの結婚」演出の事の様だ。詳しくはそのプロダクションを調べてみなければ分からない。
Danke. Murx den europaer!


独仏文化放送局での「ジュディッタ」TV放映が月末なのでそれまでオンデマンド期間が延ばされることになった。内容からしてその制作の価値からしても出来るだけ多くの人の目に触れるのがよいが、説明が難しく、独逸語の字幕ではその範囲が限られる。

当該書籍「情熱のドラマテュルギ-」には、これらの芝居出身の演出家が多いとある。マルタ―ラーの場合も同じ芝居の役者だけではなく舞台装置をも音楽劇場に転用しているぐらいだから、その傾向の強い演出家で、そもそもモルティエが呼んできたようだ。余談ながら同じベルリンの芝居の世界からフランク・カストロフも並列して記記されている。そのカストルフはペトレンコ指揮のバイロイト祝祭劇場での記念年の「指輪」演出で大変な話題になった。

もう一つ目についた情報は、現在ミュンヘンの音楽監督をしているユロウスキーがプロコフィエフの「戦争と平和」2006年パリ指揮だから、父親でなく本人で間違いないだろう。クレンツィスも出ていて、当然のことながらパリのヨルダンもある。しかし本文で扱われている名前索引がある指揮者は極限られる。結局ドルニーが今後ミュンヘンに呼びそうな面子はここからが多いのだろう。音楽監督が何をアドヴァイスするかだけであろうか。

木曜日は先日初日を迎えた「利口な女狐」の二日目公演の生中継がある。結局ストリーミングは無いようなのだが、よく分からない。放送を聴いて、あるなら観てみたい。もし映像がないとすれば七月が予定通り重要になる。フランクフルターアルゲマイネ新聞によるとどちらかというと「そつなく音楽をつけていた」という事で否定的ではなかったが、デビュー指揮者としては成功ではない。

新たな映像によると演出の舞台が手が込んでいて、こんな面倒そうなことはミュンヘンだから必要な人材もいてできると思った。バーデンバーデンなどでは苦しい。そういう意味からもオペラティックな舞台とは異なり音楽劇場が必ずしも贅沢なものが要求されないとすれば、やはりその方向に投資した方が芸術的価値のある舞台となる可能性が高まる。
OBSERVATIONS: DAS SCHLAUE FÜCHSLEIN - Behind the scenes


月曜日、火曜日と天候が安定せずに冷えたので頂上アタックは不可能だった。意気消沈した。また習慣の中で行けるかどうかも不安になる。しかし水曜日は陽射しがあって、動機づけが出来た。今迄で最も悪い時間帯で往復した。それでもいい運動にはなった。事後計測70.6㎏も悪くはない。今週はノルマを果たすのが難しいかと思ったのだが、これで金曜日ぐらいに時間が空けば短く走れる。30分ワークアウトと一時間では運動量だけでなく、必要な動機づけも大分違う。やはり早く終わるのはやり易い。それでも以前のように週三回は結構厳しい時もあった。

やはり汗を流した後のヴァイツェンビアーも食事もうまい。レヴァー団子があったので、ジャガイモサラダを付け合わせに、プフェルツァーピッツァとした。時々作るのだが、上手くとじる卵が焼くのが難しいのだが、今回は上手くいった。



参照:
ジュディッタ公演内容詳細 2022-01-28 | 音
伝播する分からぬ流行り 2021-12-24 | 文化一般
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歴史的な思い出話し

2022-02-03 | マスメディア批評
ノイエズルヒャ―新聞にウラディミール・ユロウスキーのインタヴューが載っている。ティテュス・エンゲルに続く記事である。書いているのはペトレンコの日本デビューに同行したマルコ・フライである。

ミュンヘンの新音楽監督としての仕事ぶりについて、興味深い話しが書かれている。一つは契約時に最初の一年は様子見として、二年目からは本格的にという事で保留となり、最終的には合意したと語る。ある意味最初のシーズンへの言い訳にもなっている。具体的な「鼻」から「ルドンの悪魔」への渡しには触れてはいないのだが、管弦楽団がどのようなスタイルでも適合することが求められているとしている。

そしてあくまでも指揮者としては、父親と並んで重要な先生であったロジェストヴィンスキーの言葉を挙げて、モットーとして繰り返す。つまり、「楽譜に書いてあることに関しては全て君たちの責任で、楽譜間に書いてあることが私の仕事」を例に挙げて、管弦楽団の自由とそして締めることのバランスが最重要であると発言している。

その具体例としてクラウディオ・アバドで、もう一人はハイティンクとしている。そしてあくまでも準備では遊びのスペースを置いておいて、その場での創造とかインスプレーションとかの意を述べている。成程アバドに関してはそれはよく分かる話だと思うが、恐らくユロウスキ-ならばハイティンクの隅まで追い込めない所に共通点を感じる。

そういうことを自覚しているからこその最初の言い訳であったとも思うのだが、確かに2028年まで契約を延長したベルリンの放送交響楽団との演奏にはそうした趣があって、そのような雰囲気をミュンヘンの劇場で醸し出せるかどうか。やはりこの話からすれば劇場でも上手くいくときはアバドのようにとなるのだが、それだけ準備も整っていなければ駄目だろう。アバドにおける当時スカラ座でアシスタントだったシャイーの立場に女流のシュレキーテがあると思うのだが、「鼻」においてはそこ迄の成果は確認できなかった。

兎に角毎度のことながら話しが上手過ぎる。昔話が歴史的な意味を持つのは名門の特権かもしれないが、本当に話しているようなことが出来ているのかどうかがこちらは気になるのである。その為の猶予期間と理解している。

なにか指揮者ばかりのことを扱っているが本当は何もそんなものを専門にはしたくはない。しかし放送番組などを紹介していると、これまた昨年日本デビューしたフランスの指揮者が呟きをリツイートして呉れた。ここでも扱ったザルツブルク音楽祭のイザベル・ユペールの出るジャンヌダルクでSWR放饗を指揮するマクシム・パスカルである。金曜日に放送があるのでその紹介である。昨年のザルツブルクでの録音なので今年の販宣に重要な情報だった。勿論そのお手並み拝聴での関心だ。YouTubeなどを聴くと一寸危うい感じもしている。そもそもSWRの地元でしっかり活動していないのが怪しい。怪しい奴らばかりである。
Grisey : Les Chants de l'amour • Le Balcon


バーデンヴュルテムベルク州知事クレッチマンが、コロナ禍解放なんて復活祭過ぎで、四月中旬からと気炎を上げた。確かカトリックの人で余計に教会歴に拘る。こちらは二月中には目星をつけて、少なくとも四月からは通常通りでなければバーデンバーデンの復活祭が影響を受ける。先ず定員が半分になれば早めに再配券しなければいけなくなるのである。



参照:
So führt man, ohne zu herrschen, Marco Frei, München/Madrid, NZZ vom 1.2.2022
引用とかモンタージュとか 2022-02-02 | マスメディア批評
キャリアを目指す指揮 2022-02-01 | マスメディア批評
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引用とかモンタージュとか

2022-02-02 | マスメディア批評
承前)金曜日のベルリンからの中継を流した。前半一曲目のベルントアロイス・ツィムマーマンの「フォトプトーシス」が大変評判だった。キリル・ペトレンコはミュンヘンでの任期においても早めの2014年に「ディゾルダーテン」で大成功したように、好きな作曲家の一人に違いない。その時に学んだものが大きかったとは予てから語っているが、今回のインタヴューはまだ観ていない。

それでも2018年に出版された作曲家の娘さんが纏めたcon tutta forzaに多くの証言などが挙げられていて、ペトレンコの名前も演奏歴としてまた索引として載っているようにこの書籍を献呈されている筈だ。詳しくは改めて紹介したいが、先ず興味を持つのは、そこで引用されている楽曲で、第九、パルジファル、法悦の詩、(ピーターグライムス)などはペトレンコの既に披露したレパートリーでもある。それではなぜここでこれらの曲を引用しているのか。

ツィムマーマンの楽曲のモンタージュ手法の意味合いを考える前に、ノイエズルヒャー新聞のティーテュス・エンゲルへの紹介記事に戻る。それは音楽劇場の表現の可能性としての複雑さは、従来の「ボリスゴドノフ」などの楽曲上演での問題点を他の楽曲によって補ったりの結果として生じている。新聞が書くように昨年の「ジュディッタ」の指揮に飛び入りできるのはエンゲル以外になかったのは明白で、一体最初予定されていた指揮者の病状はと今では余計に気になる所でもある。

しかしそうした複雑性によって示されたのは必ずしも演出家の意図だけではなくて、レハールの楽曲もしくは音楽やその創作者像などが浮き彫りにしたという事であり、その通り同時代の作曲家との共通点と差異を明確にしていたと書かれる。勿論それだけに終わらず、演出のコンセプトからその一夜の劇場空間で表現されたことは、楽曲を取り巻く世界までを垣間見せてくれたことで、そこに音楽劇場の意味がある。

リヨンにおいては、観逃したのだが、バルトークの「青髭公」を二種類の演出によって一夜に上演するという方法で、最初に性的にそして心理的な劇としたとある。それを振り分けたのがエンゲルの腕であり、指揮者と演出家の協調作業という事になる。

その為には、演出家と指揮者の信頼関係に基づいた協調作業こそがというのはまさしくモルティエ―博士の遺稿集「情熱のドラマテュルギー」にある通りだ。そこには残念ながらエンゲルの名前は登場しないが ― 弟子のドルニーも載っていない反面、マルターラーについては沢山の記述がある ―、上演作品録として2011年のマドリッドのレアル劇場でのユラドの新曲にエンゲルが大劇場デビューしたものが記載されている。道理で時期が時期なので私は全く気が付かなかった。

そしてエンゲルは、自分自身は演出に同一化出来る人だと語っていて興味深い。これはペトレンコがなぜモルティエ―とはあまりしっくりこないようにしか見えないのと対照的だ。それどころか、エンゲル自身が初演魔のような現代音楽分野での限定的な活動にならないように、様々な分野でクロスオーヴァーな活動をしているというのも、若干フランスのフランソワサヴィエー・ロートとも古楽分野の活動でもよく似ている。(続く)



参照:
«Ich bin jemand, der sich gern mit einer Inszenierung identifiziert», Michael Stallknecht, NZZ vom 28.12.2021
ブラジル遠征旅行の土産話し 2020-02-16 | 文化一般
「南極」、非日常のその知覚 2016-02-03 | 音
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キャリアを目指す指揮

2022-02-01 | マスメディア批評
ミュンヘンの夏のオペルンフェストシュピーレのティケットを予約した。配券されるかどうかは分からないが、現時点では可能性があると思っている。先ずは、ペンデルツキはそんなに人気がない。そして、音楽監督ユロウスキーへの評価もまだ定まらない。私自身も必ずしも名演が繰り広げられるとは期待していない。最初のショスタコーヴィッチ「鼻」の初日を体感した。しかしだからといって今回が重要だとは思わない。逆にまずまずの出来になるとは思っている。更に演出家も「死の街」で成功していたサイモン・ストーンなのでそれなりの話題性と期待もある。そこでこれにそんなに投資する人も少ないと思っている。お試し程度に出かける常連さんが殆どだと思うからだ。という事で、配券されなくても入券のチャンスは十分にあると思う。

日曜日のヤナーチェック「利口な女狐」初日の評が出てきた。先ずは、木曜日に急遽中継することになったバイエルン放送局、南ドイツ新聞などが、演出のその見栄えに反して冷たいと共通の見解をしていて、さらに音楽的には良かったとある。他の音楽業界雑誌も似通った評をしていて、更に放送の背景や稽古風景の音を聴く限り、公演前から想定していたような塩梅になっている。決して他の二回に比較して音楽的にも失敗はしていないのだが、それは歌手のお陰とされていて、指揮の成果よりも物足りなさの方に比重が移っている。
Trailer: DAS SCHLAUE FÜCHSLEIN


指揮者のティーラの音楽は知らないものの成果を出すのは難しいと予測していた。その杓子定規で「鋭角的で大雑把」なものではヤナーチェックのセンシティーヴな音楽は振れないと思っていたが、案の定そのように指摘されていて、暖かい音色で補っても弦に負担をかけたなど、いいたいことが音化出来ていなかったのは明らかだ。それでもメディア関連である放送局は初日の緊張から解かれればよくなるだろうとしている。しかし、指揮のそれはそうしたものではないだろう。

他の見知らぬ人の呟きも皆共通している感じがあって、キャリアを目指す指揮者としては万事休すだと思われる。ハイデルベルクの劇場でアシスタントをしてとバーミンガムの前任者のネルソンズにも似た経歴を歩んできたが、到底それに比較されるようなポストに就くのは不可能である。木曜日の音が流されても我々はもう聴こうと思わない、分かっているからである。またストリーミングで映像が流れれば、夏の予定はキャンセルとなるのだろう。ハイデルベルクの劇場で楽師さんと知り合ったというから、ドイツでポストが欲しいのだろうが、精々ラインとかそのレヴェルの所しかない。バーミンガムから都落ちである。

二つ目の新制作「ジュディッタ」を振ったエンゲルのインタビューがノイエズルヒャー新聞に載っている。エンゲルは故モルティエ―博士から最も学んだといい、音楽劇場の制作には準備期間前から指揮者と演出家がよく打ち合わせていなければならないと話す。記憶は薄れているが、彼と話していた当時は既に私はモルティエ―支援をしていたので、その後にベルリンに博士を呼んでワークショップを催していた様だった。(続く



参照:
レハールの曲は詰まらない? 2021-12-21 | マスメディア批評
赤い風船が飛んでいく高み 2021-10-29 | 文化一般
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