
■ 鹿野山の里見氏の山城が在った ■
房総の自転車のヒルクライムのメッカ鹿野山に何と里見氏の山城跡があるという情報をゲット。何でも、十年程前に発掘調査されて一般公開されたという、言わば忘れられていた古城。里見八犬伝ファンの私としては、滝田城に続き是非見ておかなければなりません。
■ 里見氏家臣、秋元義正が1508年に築城した山城 ■
秋元城は鹿野山の劇坂ルートの起点秋元郵便局のすぐ近くにあります。秋元小学校の前を北進して200m位先に標識があるので車でも見落とす事は有りません。(私は自転車ですが)
秋元城は1508年に里見義豊の命で家臣である秋元義正が築城した山城です。西側は鹿野山の稜線に連なり、東側を小糸川の深い谷に守られた天然の要害です。



http://www.asahi-net.or.jp/~JU8T-HNM/Shiro/Kantou/Chiba/Akimoto/index.htm より拝借しました。
里見氏は新田家の分家として鎌倉幕府に仕えますが、戦国時代に八犬伝で有名な里見義重が安房(房総南部)に入りそこで勢力を拡大します。1533年には本家の里見義豊を叔父の息子である里見義堯が倒して(天文の内訌)里見氏の実権を握ります。その後、里見氏は房総半島をほぼ手中に収め、関東管領の北条氏に対抗する勢力にまで拡大します。
天文7年(1538年)の第一次国府台合戦大敗した里見氏は安房に逃れますが、その後上杉謙信と結び再び勢力を拡大します。しかし、永禄6年(1563年)および永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で北条氏に破れた里見氏は再び安房に敗走します。
敗走する里見軍を追う北条軍は10月には里見氏の本拠地久留里城を落し、秋元城の当主・義久は負傷し、城下で自刃したといわれています。
北条氏は城代として斎藤正房を置きましたが、、北条氏が豊臣秀吉と戦った天正十八(1590)年の小田原の役で、浅野長政率いる房総別働隊の襲来に合い逃亡します。この頃の里見氏は豊臣秀吉と接近して房総に再び勢力を拡大していました。
本来ならば豊富側に付いた里見氏が秋元城を治めるはずすが、小田原の役への遅参と関東惣無事令違反(秀吉が大名間の私闘を禁じた法令)を咎められ上総を秀吉に没収されたため、浅野長政が接収し廃城となっりました。
この一件を徳川家康がとりなし、里見氏は安房一国を治める事となると同時に、徳川家康おの結びつきを深めます。関ヶ原の合戦にも参戦した里見氏は館山藩12万2000石の大名となりますが、その後は徳川に冷遇され、最後は跡継ぎも居ない事から改易されます。館山藩は小藩と他藩の領地に細分され、戦国を駆け抜けた里見氏が歴史の舞台に立つ事は二度とありませんでした。
房総半島では南部を里見氏、北部を千葉氏が勢力を二分していましたが、両氏ともに江戸初期に権力を失い、その後、房総を代表する大名は生まれていません。(佐倉藩11万石江戸幕府の要職を多く排出した堀田氏の領地でしたが・・・)それゆえに、南房総地域では今尚、里見氏の人気は高く、「里見氏を大河ドラマに!」などという昇りが館山の駅前に立てられたりしています。
滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』は全くのフィクションではありますが、江戸時代のベストセラー小説なので、里見氏は全国区の知名度を持つメジャー大名だと私は信じています。
■ 見学者を拒絶する「史跡」?! ■
前置きが長くなりましたが、秋元城にいざ向かわん。


史跡の立札の横の地図によれば、この立札の脇の小道を登れば、秋元城に辿り付けるはず。途中、道が途切れて描かれている事が気になりはしますが、いざ、古城へGO!!

ところが、10mも進まない内に道は笹薮に覆われます。ナタでも無い限り、ここを抜ける事は不可能です。

道の横の笹薮の方が茂り方が少ないので、ここを強引に藪コキで抜けます。・・・どう考えても「史跡」として変です。誰も訪れないから道が藪に覆われてしまったのでしょうか・・。10m程で笹薮を抜けると、そこは小さな台地になっています。上の写真は台地から笹薮を振り返った所。

と、そこにコンクリート舗装の道路を発見!!どうやらこちらが現在のルートとなっている様です。

ルートの入り口にはきちんと立札が立っています。先程の小道の入り口から50m程先に有りました。良く見ると立て看板の地図にもこの道が入り口と書いてありました。
では先程の小道は何かと後から調べてみたら、実は当時の城への大手は小道が使われていたそです。小道の先の台地は、実は城主の館跡と考えられていますが、後世に農地として開墾され、先ほどのコンクリートの農道が城への小道を一部壊して作られていたのでした。


農地の脇を通って城にアクセスする様ですが、細い道のすぐ横には動物除けの電気柵が。「さわるな危険」って....道幅が狭いから触りたくなくても触れてしまいそうです。さすがは強固な守りを誇る秋元城・・・。
■ おいおい、これって本格登山だよ・・・ ■


農地の先には小さな広場が二つ程有りますが、はたしてこれが城の遺構なのか、農地なのかは不明。その先からは勾配のキツイ道が始まります。地下水が滲み出していて、スニーカーでは水が浸入しそうです。
私はと言うと・・・自転車のビンディングシューズ。金具が滑りますし、靴底に穴が開いているので水が浸入して来ます。ただ、MTB用のシューズなのが救い。どうにかこうにスリップさえ気を付ければ登って行けそうです。

道の片側には所々、房総特有の柔らかい泥岩を削り取って垂直懸崖が作られています。湿度も高いのでコモチシダやホラシノブが繁茂しています。
■ 自然の地形を生かした築城 ■
山城は自然地形を生かして構築されます。秋元城も例外では無く、天然の小さな谷や尾根を巧みに利用しています。そして房総特有の掘削し易い柔らかい泥岩を利用して垂直懸崖が所々に作られています。

「虎口(こぐち)」は城への出入り口ですが、狭くなっているので防衛線にもなります。

滑り易い急坂が続きますが、道にそってロープが張られており、それを頼りに登ります。
■ 意外に広い曲輪 ■


坂を登りきると山の上とは思えない広い主曲輪(千畳)に出ます。木が伐採されているので、広さと形がはっきりと分かります。下草も丁寧に刈られていますが、スニーカーだと茎の切株を踏み抜きそうで不安です。登山靴やトレッキングシューズで歩く方が安全でしょう。

「千畳」の土塁を登ると「西向三段」に出ます。
■ 鹿野山の尾根筋に向け、デンジャラスだが面白い遺構が次々登場 ■
秋元城の醍醐味は、メインの曲輪の奥にあります。鹿野山の細い稜線に道が伸びて行きますが、垂直に近い崖や掘りが作られ、大手側よりも搦め手側の守りが堅牢に思える築城がされています。

「千畳」からさらに奥に進む道があります。

深く掘られた掘りに渡る土橋です。泥岩を削り取って作られています。渡るのには少し勇気が要ります。


掘のさらに横は垂直に削り取られた5m程の崖になっています。岩をくり抜いて作られた四角い窪みは掘りの一種にも思えますが、鹿野山の稜線を伝って敵の侵入を想定し難いので、貯水槽の可能性を指摘する人も居ます。ロープ一本渡された先は崖になっています。落ち葉で滑り易いので、木の幹につかまって慎重に覗き込みます。・・・これ、山に慣れた人で無いとここまで来られません・・・。

稜線を分断する大きな堀の垂直な崖の上、一際高い場所にある曲輪には八幡様が祀られています。ここはかつて物見だったのでしょう。
鹿野山の稜線に向けてまだまだ色々ありそうですが、本日はここで引き換えします。自転車のビンディングシューズでは危険を伴います・・・。
■ 古城ファンにお勧めですが、登山の服装で ■
多くの山城が調査の後管理されずに藪に覆われています。一方では、あまりに整備され過ぎて、山城の荒々しい姿を失った史跡も多く存在します。
そんな中で秋元城は武者達の息遣いが聞こえて来る様な、当時の雰囲気を良く残した山城です。古城ファン必見のスポットでしょう。
ただ、結構急な滑り易い山道を登るので、トレッキングの靴を履いた方が安全かも知れません。特に「千畳」の裏側は自然林に近いので、足腰に自信の無い方は深入りは危険かも知れません。慎重に探索される事をお勧めします。
■ 観光しながらも、しっかり181Kmを走る ■
本日の走行距離は181km。
8時に家を出て、18時に浦安に戻って来ました。
途中、サイクルコンピューターのバッテリーが寒さでダウんして平均時速は分かりませんでしした。
8時間で160Km走ればセンチュリーライドですが、8時間経過時点で135Kmを走りました。鹿野山と房総スカイラインの登りにプラスして、秋元城見学も入っているので、センチュリーライドの達成は到底無理…。
江戸川放水路を越えてからはアラレが降る寒さの中のサイクリングですが、靴に細工をしたら結構凌げました。これは、又後日。