■ 今、絶対に見るべき映画 ■
新宿武蔵野館で上映中の『あの日の声を探して』はチェチェン紛争を舞台にしたフランス映画です。
両親をロシア兵に殺され、赤ん坊の弟を抱えて村から逃げた9歳の少年ハジ。EUの人権委員会の職員としてチェチェンの惨状を世界に伝えようとするフランス人女性キャロル。街角で大麻を吸っている所を逮捕され軍に強制入隊させられた19歳のロシア青年。この3人」の体験を通して、チェチェンで起きている「テロとの戦争」を克明に描き出しています。
ストーリーや内容はあえて書きません。
「今、絶対に見るべき映画である」事だと確信しています。
■ チェチェン紛争とは何か ■
チェチェンは旧ソビエト連邦の一員でしたが、イスラム教徒が多くロシア人とは歴史的に対立してきました。ソビエト崩壊後の1991年、チェチェンは一方的に独立を宣言しますが、エリツィン大統領はこれを認めず1994年12月に軍を派遣します。これに対してチェチェンに集結したアルカイーダを始めとするイスラム兵士らは果敢に抵抗し、ロシア軍は撤退を余技無くされます。これが第一次チェチェン紛争。
1999年にモスクワでアパートが爆破され百数十名が死亡します。この犯人はチェチェンの独立派とされ、プーツィン首相は9月にロシア軍のチェチェン投入を決定します。これが第二次チェチェン紛争、この映画の舞台です。
チェチェンの村々に侵攻したロシア兵はテロリストの尋問と称してチェチェン人の暴力を振るい、時に虐殺します。チェチェンの村々の男性の多くが銃を手にしてロシア軍を攻撃して来るので、ロシア軍にとってはチェチェンの男達は全員テロリストに見えるのです。そしてそれを庇う女子供もテロリストの協力者にしか見えません。
第一次チェチェン戦争当時、ソビエト連邦の崩壊によってロシア軍は人員が不足していました。チェチェンに投入されたのは軍隊経験も無い多くの若者でした。短い訓練の後、銃弾が飛び交う戦場にいきなり突っ込まれた彼らにとっては、銃を撃って抵抗して来るチェチェン人は恐怖の対象だったのです。
こうして多くの村で多くのチェチェン人達が殺され、多くの難民が村を後にします。
■ アメリカの「テロとの戦い」と同質のチェチェン紛争 ■
チェチェンの惨状に世界が黙っていた訳では有りません。しかしプーチンはチェチェン紛争は「テロとの戦い」だと主張します。
チェチェン独立派は、ロシア国内で度々テロ事件をぽ越していました。そして当時、アメリカはアフガンやイラクで「テロとの戦い」を遂行中だたたので、911に端を発するアメリカの「テロとの戦い」と何が違うのだと開き直ったのです。
これは独立運動を「テロとの戦い」にすり替える詭弁以外の何物でも有りませんが、一応ロシア連邦を正式には離脱出来ないチェチェンはロシアの国内問題だと主張する事も可能です。
一方、アメリカは「テロ」を口実にアフガニスタンやイラクなど全くの他国を攻撃しているので、プーチンに言わせれば、「アメリカの戦争が許されるのならば、ロシアの戦争が許されない訳が無いと」となるのでしょう。確かにその通りではあるのですが・・・。
結局、イラク、アフガニスタンで起きている事と、チェチェンやグルジア、そしてウクライナで起きている事は全く同質の事なのです。
ロシアの場合は・・・
1)ロシアの安全保障や資源獲得に不可欠な地域の独立を認めない
2)独立運動を「テロ」と称して軍事的に制圧する
3)テロリストは自国の自由を勝ち取ろうとする人々
4)テロと戦うのは貧しいロシアの若者達
ウクライナ紛争は構図が逆になります。ウクライナのロシア系住民がウクライナ人からテロリストとして敵視されています。ただ、ロシアは自国の利益の為にウクライナのロシア系住人を支援しています。戦っているのはウクライナの人々同士です。
アメリカの場合は・・・
1)アメリカの安全保障や資源獲得に不可欠な地域の利権を手に入れようとする
2)他国の政権に「テロリスト」のレッテルを張り攻撃対象とする
3)実際には911などのテロを実行したのが誰かは???
4)テロリストは自国の自由を勝ち取ろうとする人々
5)テロと戦うのは貧しいアメリカの若者
ISIL(イスラム国)との戦いは構図が複雑です。ISILは元々アメリカの仕込みですが、彼らはアメリカと敵対するアサド政権などを弱体化しつつ、アメリカに空爆の口実を与えています。
■ メディアが見落としてしまう「リアルな人々」の存在感 ■
『あの日の声を探して』という映画が素晴らしいのは「正義」を保留にして「事実」を見つめようとしている点です。
映画監督がこの映画を撮る動機の一つに「チェチェンにおけるロシア軍やロシア政府の蛮行を告発する」という目的があるはずです。しかし、彼はこの「分かりやすい正義」をひとまず保留します。
戦争に翻弄される少年、戦争を前にあまりにも無力な女性、戦争の狂気に取り込まれる青年の姿を淡々と追う事で、チェチェンで起きている事をありのまま視聴者に提示しようと試みています。
戦争は国と国との利権の衝突で発生しますが、戦場ではそんな事は何ら関係有りません。銃弾や爆弾を避けて今日を生き延びる事、敵に撃たれる前に撃ち殺す事。単純なルールが人々を支配し、その総体として「戦争」が遂行されて行きます。
メディアやジャーナリズムは往々にして「正義」に訴えようとします。自分が「正義」の側に立つ事で彼らは人々の共感を得、そして力を得るからです。
しかし実際の戦場では「正義」なんぞは犬に食わせた方がましです。「生き延びる」事が全てだからです。ジャーナリズムが「正義」を旗印とする限り絶対に伝えられないのが「戦争の真実」なのかも知れません。
このギャップを埋めようとするジャーナリストも多く居ます。戦場に飛び込んで人々の生活を必死に伝えるカメラマンやレポーターは少なくありません。ただ、彼らの必死のレポートもニュースネットを通して伝わる間に「正義」に塗りたくられてしまいます。
『あの日の声を探して』はフィクションです。シナリオが有り、舞台セットが有り、俳優達が演じています。決してジャーナリズムでは有りません。しかし、「演じる」事で「戦場とそれに関する人達を再構築」しようとする行為は、慎重に「正義」の存在を回避しようと試みまています。ただひたすら、そういう状況に陥った時に人はどうするのかをシミュレートします。ただ、この作品が「ドキュメンタリー的か」と問われれば答えはNOです。ヨーロッパ映画の積み重ねてきた「語法」に極めて忠実な作品です。映画としての完成度は極めて高いものがあります。
折しも、NHKの杭ローズアップ現代の「やらせ事件」が注目を集めています。真実を伝える為には「現実の映像」は説得力が足りないので、昔からこの様な演出はニュースやドキュメンタリーでは常套的に使われています。私達は「現実」と錯覚しながら出来の悪いフィクションを日常的に見せられているのです。同じフィクションの土俵に立った時、この映画の完成度は圧倒的とも言えます。
映画というフィクションは現実を伝えるジャーナリズムを超える瞬間を手に入れる事もあるのでしょう。その稀有な例として『あの日の声を探して』は必見では無いでしょうか。
ちなみに大学1年の娘と一緒に観ました。映画が終わった後目を涙で腫らしていました。若者は感受性が強いなと思いながら「泣いたの?」と聞いたら、「隣のオバサンなんて号泣うだったよ!!」と言いました。私が泣けなかったのは心が純粋で無いから・・・・?
劇場は映画が好きそうな中高年と、若干の若者で立ち見が出る状況でした。