湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ヴォーン・ウィリアムズ:ピアノ協奏曲(1926-31)

2019年02月07日 | ヴォーン・ウィリアムズ
ハンドレー指揮ロイヤル・フィル、シェレイ(P)(lyrita)CD

ヴォーン・ウィリアムズの意欲作で珍しく複雑な様相を呈している。二楽章を中心とするアピール力の強い旋律と単純な響きによる感傷性と、三楽章前半で現れるサーカスのような象のような音形を核とする動き(人を食った感じはロンドン交響曲ぽくもある)重視のダイナミックな扇情性が交錯するあたりを面白く弾けるか聴けるかが焦点となるが、一楽章冒頭いきなりのフォルテがやりづらいと言われるようにちょっと慣れない楽器を実験的に用いている感も否めず、この盤の録音が少し籠もっているせいもあるがピアノの音に重量感が足りず埋没してしまう。ピアノが技巧というより書法的に難しいからと結果的に2台ピアノ版が作られそちらのほうが演奏機会は多いようだが、この盤でも一楽章はモソモソいっているばかりで余りちゃんと聴こえてこない。二楽章は師ラヴェルのピアノ協奏曲のエコーが(ほぼ同時期なので偶然かもしれないが)響きにおり混ざるが概ね単純な美観につらぬかれ、それはヴォーン・ウィリアムズ自身の確立した作風とも違う古来の「ロマンチシズム」に沿ったものに思える。ここではこの盤は極めて美しい。今は評価されるハンドレーだが昔はヴォーン・ウィリアムズなどお国ものを振ってさえ冴えない感じがあった。この楽章では奇麗にしずかにピアノを支えており、うねるようなロマンを持ち込まない節度を感じる。それが三楽章の「ヨブ」のような突然変節でやや派手さが足りないように感じられるのだが、ヴォーン・ウィリアムズの書いた響き自体は自然で依然美しいからそのまま聴いていられる。すると変容の末に二楽章のような天上の音楽になって消えゆくのである。この明るい上品さはヴォーン・ウィリアムズにしかないもので、だから敢えて濁るような音楽と錯綜させてみたのだろう、そこが同時代音楽との歩調合わせになり、バルトークの目にも止まったのかもしれない(フランス風の響きと民族音楽のエッセンスの融合はやり方は違えど遠くはない、ただこの話のソースを私は知らない)。
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ヴォーン・ウィリアムズ:交響... | TOP | ジョン・フォウルズ:ピアノと... »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | ヴォーン・ウィリアムズ