湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番(1998)

2017年11月01日 | Weblog


<最近ショスタコーヴィチを聞き直している。久しく聞いていなかった「レニングラード」などに改めて感服したりなぞしている。緩徐楽章にブルックナーやマーラーのエコーが聴こえるたびに、ああ前の世代を否定する事により成り立っていた「モダニズム」の、「次の」世代なんだな、と思う。音楽院時代の師匠にして個人的恩人でもあるアレキサンダー・グラズノフは、ロシア五人組、とくにボロディン・リムスキー=コルサコフの継承者として約束された道を歩んだ。外来の音楽家や、チャイコフスキーらモスクワ音楽院の折衷派とも活発に交流したが、踏み外す事を許されぬ道はそのままペトログラド音楽院長へと続き、表向き闘争する側に回ることも許されなかった。結局作曲家としては殆ど忘れられることとなり(寧ろ指揮者だった)、困窮の亡命者という末路は「破滅」だったと言ってよいかと思う。

グラズノフの才能はどのみち限界に当たったのかもしれないが、最盛期までの流麗な佳曲の数々に触れるたび、時代の波に翻弄された帝政ロシアの「最後の波(byブラームス)」に同情する気を抑えられない。音楽的系統樹を切り倒す暴風~ゲンダイオンガク~への防波堤となったグラズノフは、ストラヴィンスキーやプロコフィエフという異能と対立する事もあったが、あくまで個人的趣味の上に留め、その才能についてははっきり認めていた。寧ろ自分の耳がロートルなのかもしれないという発言は、マーラーがシェーンベルクに語ったこととよく似ている。それゆえ「潰す方向」に動く事は決してなかった。ソヴィエト時代の権力的音楽家が真の才能を持った音楽家を押さえつける構図とは全く異なる。ショスタコーヴィチの才能はこの暖かな温床の上にすくすくと芽を伸ばした。程なく大輪の花が開く。そして半世紀以上にわたり花が付き続けた。世界中に種を撒いた。あの鉄の壁の向こうから、壁など無いかのように力強く響く音。音楽史の流れからいえばそれはとても先端のオンガクではなかった。だが現在20世紀が終わるにあたって、この世紀において最も才能に満ち溢れ、しかも真摯であった作曲家が誰かと考えてみると、DSCHの4文字が浮かんでくる(多様さを否定する無闇な順位付けなど意味の無いことだが)。オネゲルではないが伝統の「幹」がなかったなら「枝葉」など生える事は無い(これは新古典主義のことだったか、ショスタコーヴィチも新古典の流れ上にいる作曲家だ)。かといって枝葉を張らない幹は枯れ果てるだけなのだけれども。・・・

収集がつかなくなってしまいました。この曲はグラズノフの室内楽では最も良く書けているといわれる。交響曲のところでも書いたが、中央ヨーロッパ的な後期ロマン派音楽の枠組を総括したうえで、旋律と和声という「音楽の重要なファクター」についてだけロシア音楽を取り入れている。配合具合が独特のため個性的に聞こえるが、耳ざわりが悪くなる事は決してない。フーガに始まる1楽章は強い力を持ち、4番四重奏曲で試みられた古典音楽回帰の傾向が、より消化された形で魅力的な旋律群を飾っている。2楽章は典型的なロシア国民楽派のスケルツオであるが、テンポの遅い演奏で聞いてみるとブルックナーやマーラーの舞踊楽章を思わせる深刻な色をにおわせる。さらに8番交響曲の暗い幻想に繋がるような儚い3楽章は死に行く白鳥を思わせる味わいを持ち、祝祭的な終楽章は緊密な対位構造や複雑なポリフォニーによって、その長さを感じさせない程ヴァリエーションに富んだ内容を聞かせる。ブラームスからベートーヴェン果てはバッハまでも取り入れて、この秀逸な流れは昇華洗練されてショスタコーヴィチに確実に受け継がれている。ストラヴィンスキーですら初期にはグラズノフ的な曲を書いた。アマルガム作曲家であっても影響力は強い。手法の探求され尽くした時代の芸術のありようが、ここにも先駆的に示されている。(またいつかしっかり書きます。すいません中途半端でした)>2000記


◎ショスタコーヴィチ四重奏団(melodiya)
○リリック四重奏団(meridian)
ダーティントン四重奏団(pearl)
シシュロス四重奏団(melodiya他)

これらを聞き比べると余りの印象の違いに改めて「懐の深い曲」なのだなと思う。無論オーソリティのショスタコーヴィチQにかなうものはないと思うが、民族音楽的趣が少し苦手の場合は後者の演奏に触れるとよいと思う。ショスタコーヴィチQのヴァイオリンは独特のロシアスタイルで、折衷派グラズノフをおもいきり五人組の世界に引き戻すようだ。あやふやな音程感も左手の柔らかい演奏スタイル(コブシのきいた細かく沢山のヴィブラートをかけることにより、素朴だが艶やかな音色を出せる)上、仕方ない。単純な技術でいえばダーティントンのほうが上に聞こえるかもしれないが、この解釈は軽すぎる感もある。また生硬だ。リリックの終楽章は面白かった。シシュロスは奏法はショスタコーヴィチQに似るがファーストの音が金属質で細く、堅牢な楽曲自体の魅力は十分伝わるが、情趣の面で劣る気もする。名前の近似でショスタコーヴィチ四重奏団との混同を疑ったが、異なる演奏でファーストはシシュロフではなくシシュロスという別人だと思われる。他、グラズノフ四重奏団のカット版SP録音(断片別録もあり)、従来は初録音と思われたレニングラード音楽院四重奏団(後年のタネーエフ四重奏団)のものなど古い演奏でも結構な数がある。新しい録音も比較的多い。

※2004年以前の記事に2017年加筆したものです
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