湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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ドビュッシー:バレエ音楽「遊戯」

2007年05月23日 | ドビュッシー
○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(LONDON)1953/10・CD

~<ジュー(Jeux)>のよい校正刷を手に入れ次第、君におくります・・・・・・この<三部からなるおしゃべり(バデイナージュ)>に対する君の意見を、ぜひききたいと思っています。<ジュー>といえば、君は<公園(パーク)>という題の方がいいといっていたから、私がこれを選んだのでおどろいてましたね。しかし、<ジュー>の方がいいことを信じてくれませんか。第一に、より適当しているし、つぎに、この方が、この二つの性格曲***の間におこる<恐怖(ホラー)>を、もっと切実に偲ばせる。~

***ドビュッシーは<ジュー>を作曲中、ずっと、私と親しくつきあっていたし、どう管弦楽に移すかという問題で、再三、私に相談した。私は今でも<ジュー>は管弦楽の傑作と考えている。もっとも、あのうちのいくつかは、<あまりにラロー的だ>と思っているけれども。

~ストラヴィンスキー/吉田秀和訳「118の質問に答える」音楽之友社

1913年11月8日パリ付のドビュッシーからストラヴィンスキーへの書簡には、「春の祭典」をピアノ試演奏したときの「何か美しい悪夢」という比喩的感想ののちに、この記述がつけられている。周知のとおりドビュッシーの「管弦楽における(上記文章註でストラヴィンスキーが強調記号をつけているように)」意欲作であったこの隠喩的な作品はハルサイ初演のセンセーションの後ろに隠れ忘れられた存在となり、戦後になってやっと再発見され評価されるようになった作品である。不可思議な管弦楽の響きは「現実に無い光景の描写」をなし、夢のようにあらわれた男女がかなり肉感的にたわむれるものの、いきなり幽霊のように消え去り、ギロチンの歯が落ちるように終わる。<恐怖>は幻想の最も激烈たる発現であるが幾分ニュアンス違いもあるであろうこの訳文を読みながら、世間の評判や売れ方と全く関係の無い未だ仲の保たれていた天才作曲家同士の会話が暗示する、両者が音楽に対して全く異なる視座と美的センスをもっていて、しかしプロフェッショナルな作曲家という点においてのみ密接な関係があったことに気づかされる。別にこの項で引用しなくてもよかったのだが、アンセルメが二人のいる音楽的環境に既に確固として存在していたことも考慮に入れて、このモノラル録音を聞いてみる。

すると今現在きかれる遊戯よりもかなり娯楽性の強い、リアルな肌触りのバレエ音楽になってきることに気がつく。カッチェイ王が踊りだしそうなほど動きがある。意図的に取り入れられたワグナーふうのロマンティシズムもしっかりそのように重厚に響く。アンセルメはかなり長い間ストラヴィンスキーのよき解釈者であった。20世紀も10年をへて、世情は印象派の定義の曖昧な世界から極めてリアルな肌触りの明確な音楽~それが理解できようとできまいと空想的であろうと大衆的であろうと目的(「ホラー」ではなく「パーク」)とフォルムの明確な「強い音楽」~に流れていて、ストラヴィンスキーは賛否あるにせよその象徴的存在となっていた。この作品には間隙にいたドビュッシーがどのような立場を取ろうとしたのかを偲ばせる部分がある。濃厚なエロティシズムと冷え冷えとした前衛的な響きのちぐはぐな交錯が、まさにその発露として現れているように思う。結局、「リアリストの闊歩する世の中に順応できなかった」けれども、形式音楽への志向を題名に示しながら内容的には終まで己に忠実な作品を作り続けた。それがだいぶ後年、流行というものにおいそれと左右されなくなった耳高い音楽家や聴衆によって冷静に評価されるようになった、この段階において今一度アンセルメの生々しい音楽を聴きなおすと、面白いのである。ただ、正しいのかどうか、オーソリティだから正しいという評価は無意味である、ほんとうにこんな娯楽音楽でいいのか・・・・・・・・・・「ジュー(英語でJOY)」だからいいのか。神々の遊び、スクリアビンの好きな世界だ。意味不明。○。

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