湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番その1 (2012/3までのまとめ)

2012年04月10日 | Weblog
交響曲第5番「革命」(1937)

<20世紀交響曲の代表格であり古今東西いたるところで演奏され続けてきた曲である。ショスタコーヴィチが当局に対する防波堤として書いたとの伝説もあり、いかにも”狙った”箇所が随所に見い出されるものの、クライマックスが終楽章前半にきてしまったような謎めいた構成(有名な「証言」を信ずれば”擬似”クライマックスということになるのだが)、全楽章の諸処に顔を出すやつれた諦観など、影絵のようにぼうと浮かび上がる作曲家の素顔に、背筋が寒くなる。この時代この国でマーラーへのオマージュを書き続けたことも恐ろしい。かりそめのモダニズムから脱皮し自己に誠実な音楽を書き始めた矢先、当局との衝突にあったショスタコーヴィチ。マクベス夫人や4番交響曲での恐ろしい経験が乖離する二重人格的作風を産み出した。それは少しどっちつかずというか、”どちら側”から聞いても中途半端・・・というより未完成・・・に聞こえてしまうこともある。5番はこの感が強い。物凄く抽象的な言い方をすると、包括するものは大きいはずなのに、それを全て出し尽くすことなく尻切れにばっさり切り落とした、だから龍頭がずらっと並んでいても、裏返すと退化した手足が申し訳に突き出ているだけで、たまに不格好に大きな足や、無数に枝別れした尾が垂れ下がったりもして、・・・奇形。・・・19世紀末から20世紀の音楽の流れとして、怪奇趣味というのは確かにある。モダニズムやダダ、おおざっぱだが「現代音楽」そのものも普通の人間にとってはとても奇ッ怪な音楽だ。しかし、ショスタコーヴィチのそれは、自ら進んで奇形化した頭でっかちのオンガクとは少し違う。これは、・・・「公害」の結果だ。>

ホーレンシュタイン指揮ウィーン交響楽団(VOX)

ホーレンシュタインは同じウィーン響・VOXでマーラーやブルックナーの中仲渋い名盤を作っている。ではショスタコは?といえば、余り成功していないと言わざるを得ない。何を言いたいのか甚だ不明瞭である。ホーレンシュタインの棒はウィーンの風土によって何の影響も受けていない。朴とつとし、とても流麗とはいえないぎくしゃくした流れはザンデルリンクにも似て表現主義的ですらあり、ブルックナーなどでは強みになるけれども、この曲に関しては、今一つ中途半端になってしまった感がある。

同曲の要求する音がウィーンの艶めかしさとは程遠い所にある事も、同演奏への違和感を昂じさせる。奇妙に音の軽い終楽章も又聞きづらい。が、ショスタコーヴィチがムラヴィンスキーを「何もわかっていない」と酷評した「という」テンポ表現、盛り上がるところでの劇的なアッチェランドが、無い。前半に山が無い。そのため最後まで平板な演奏になってしまう感は否めないが、ショスタコーヴィチの「真意」を見抜いた読みの深さと贔屓目にいえるかもしれない。・・・真意に括弧を付けたのは、これすらも果たして作曲家の本心だったのか、今となっては確かめるすべがないからだ。仮面は1枚とは限らない。

○ホーレンシュタイン指揮ベネズエラ交響楽団(放送)1954/2/18live

フルヴェン先生も振った名門だが終楽章こそ綻びが目立つもののおおむね充実した演奏を提示してくれている。ホーレンシュタインは前半楽章は速めのテンポで音符を短く切り上げる方法が特徴的でありリズムが強化されている。3楽章は地味だが終楽章は実直な中から大きな盛り上がりを引き出す。ショスタコの書法は冒頭のようにフーガを導入するなど目を引く部分はあるのだが基本単純で、直線的な旋律表現に頼るところが多い。ホーレンシュタインは勘所をよく押さえていて変に構造性を抉り出すようなことをしないから聴き易い。録音は悪いが迫力はある。○。

*********************************

◎ロジンスキ指揮ロイヤル・フィル(westminster)
◎ロジンスキ指揮クリーヴランド交響楽団(lys)1942/2/22

ロジンスキの定番。オケに漲る緊張感、充実した響きそして情熱的な棒は、 どちらの盤でもかなりのカタルシスを与える。常識的解釈という言葉が妥当かどうかわからないが、古典作品のように構築的に表現された演奏であり、いうなればベートーヴェン的交響曲の表現だ。 何か深読みをしている奇異な演奏ではなく、伸び縮みするルバーティッシモな演奏でもない。ただ即物とも又違う(多分3楽章など少しいじってもいる)。空回りする熱気ではなく、 深い情感を伴っている。全編オケの共感が胸に迫るほどに白熱して届いてくる。クリーヴランド盤2楽章の躍動、3楽章の弦楽器の歌は5番演奏史に残るものだろう。 4楽章はややテンポを落とし、踏みしめるような表現が意外でもあり、緊張感が和らいだ感もある。それでもロイヤル・フィルにくらべてこちらのほうが オケの総合力は強いような気もする。只チェロが弱く感じたのは多分録音のせいだ。トータルなバランスはロイヤル・フィルに分がある。どちらも捨て難い。

ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(ARCHIPEL)1946/2/24LIVE

物凄く音が悪い。そうとうの覚悟が必要な録音。演奏はまったくもって直球勝負。こんな速さ、無茶だ。即物的演奏とかいう言い方自体すらもう越えてしまっている。速いうえにさらに走る。ブラスはやりやすいだろうが弦は大慌てだ。まったく揺れずこの速さというのはもう思い入れとかいっさい無しに「早くうちに帰りてえ~」と思っているとしか思えない(?)。間違っても初心者向きではないです。当然のことながらライブ録音。

*********************************

ボルサムスキー指揮ベルリン放送交響楽団(LE CHANT DU MONDE/LYS)CD

奇盤で有名な盤だが思ったより意外と実直。但し4楽章は意味のわからない急激なテンポ操作がしばしば織り混ざり独特だ。その結果はオケの当惑ぶりが想像できる粗雑な仕上り。最後にいったん音量を落として壮烈なクレッシェンドをかけるやりかたはあるていど成功している。全曲中、2楽章がよくできているほうだろう。とにかく意外に正統な部分の目立つ印象だった。イタリア盤で一度CD化している。

*********************************

ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ICONE)1984LIVE

○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル (DREAMLIFE:DVD)1973レニングラード・ライヴ,2003年発売

○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル (NHK,Altus,KING)1973/5/26東京文化会館ライヴ,2000年7月発売

両端楽章が素晴らしい演奏というのはたくさんある。ムラヴィンスキー盤でも、終楽章などロシアン・ディスクの極度に集中力の高いライヴのほうがカタルシスを感じやすいだろうし、1楽章冒頭の軋んだイキみぶりには少々ひいてしまう(多分録音が生々しすぎるせいだろうが)。だがこのライヴ、中間楽章が何物にも代え難い光彩を放っている。2楽章の斬り込むようなリズムはデジタル・クリアな録音と実にバランス良く噛み合って、ガシガシと踊る。増して印象的なのは3楽章、崇高な祈りの音楽、ムラヴィンスキーらしい清廉な響きの中に、実に意外ともいえる「情感」が息づいている。同ライヴ全般に、「運命のメトロノーム」は微妙にしかし確実に揺れて、旋律とその流れも自然に浮き立つようで、ムラヴィンスキーにしてはかなり抒情性が感じられるものとなっているが、 3楽章のそれは殊更迫ってくるものがある。痛切な響きは決して悲鳴の泣き声にはならない。佇み沈黙する叫び。ピアニッシモの密やかで繊細なハーモニーは、葬送の黙祷に凪いだ教会伽藍を思い起こす。終盤、マーラー性を排したムラヴィンスキーの、最もマーラー的な響きを聞いた気がする。旋律性が消え響きだけが空を流れるような場面、ピアニシシモの光の中にマーラーの10番やフランツ・シュミット4番のような諦念を感じずにはおれなかった。この世界、 2楽章の激烈なリズム性とのコントラスト、終楽章のいきなりのプレスト攻撃(ライナーにもあるが、あっというまに加速しそのまま突き進む)とのコントラストが少し「ありすぎる」ようにも思える。しかし同盤、個性という点で従来知られていた録音より突き進んだ感があり、聞いて決して損はしない。パートソロで思ったより突出しない低弦や、ひきずるようにテンポをずらす金管ソロ楽器など、ここまで音がディジタルに鮮明でなければ聞こえなかったような瑕疵が聞かれても、屁でもない。突き刺すようにクリアな音に溺れよう。

ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(le chant de monde,PRAGA)1967

ムラヴィンスキーの演奏はまず安心して聞ける。いつもどおりの解釈、いつもどおりの演奏。完成度は高い。ただ、この録音は音が悪い。・・・ということで余り上位には置けません。疑義あり。

ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1966

○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(DREAMLIFE/RUSSIAN DISC)1965/11/24live

うーん・・・確かに素晴らしい名演である。録音が問題だ。ドリームライフがリマスタリングしなおして出したわけがわかる。ムラヴィンにしては振幅が大きく珍しく3楽章で感情移入してしまった。最初、「ああ、リマスター過程でモノラル還元したときに紡錘型に小さく彫刻されこじんまりしてしまった音だなあ」と思ったのだが(あくまでドリームライフ盤ね)中間楽章からブラスと打楽器の低音の出方がハンパなく重く広がりがあり、ムラヴィンにそういう「重量級の側面もある」というイメージを「再喚起」させたいんだなあと思う一方、「確かにこの音響バランスだと違う」と思う。スヴェトラとかそのへんに通じるのである。つまりこれもあきらかにロシアであり、決してトスカニーニではないのである。オケの力も西欧風でなく明らかにロシアであることを再度確認できた。かなり盛り上がるし、集中力も何か違う。これはレベルの違う演奏である。ムラヴィンの中では相対的にどうだかわからないが。録音はいくらリマスターしても結局モノラルのCDの音でしかないので、最初はもっといい音で聴くべし。○。

ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA/BMG)1938末~39初

ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(DOREMI/BMG/MELODIYA)1938/3/27-4/3・CD

ムラヴィンスキーの初録音にして同曲の世界初録音というもの。初演より5ヶ月しかたっていない湯気の立つような録音だ。貴重な古いSPからの板起こしである。BMGで日本盤CDの特典として世に出たが、今はDOREMIレーベルから他の古い録音と併せて発売されている。これがなぜ特典盤として売値を付けられなかったのかは聞けばわかる。雑音の洪水、ぎくしゃくした音楽、薄くてまとまりのないオケ、乱れる音線。これはムラヴィンスキーの名誉に掛けて発売すべきではなかったものと思う。全てが全て録音のせいとは言えない。手探り感がかなり強く、音楽が流れていかない箇所が目立つ。若きムラヴィンスキーの苦悩が現われているようだ。後年の充実した演奏とは掛け離れた「バラケ感」が強く解釈的にも工夫が感じられない。ちなみにレニングラード・フィルの首席指揮者の座を勝ち取るのは同年9月のコンクールでまさにこの曲を振って直後のことである。マスターが残っておらず国内生産された数少ないSPをもとに復元された同曲最初期の録音、参考記録としての価値はある。無印。

*********************************

クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1948/3/16live

知る限りクーセヴィツキー唯一の録音で興味深かった。しかしどうも粗い。ライヴだからしょうがないのだが、弦楽器などに雑味を強く感じる。両端楽章の異様な速さは何か目的があるのかなんにも考えていないのか、独特だが成功しているとは思えない(特に終楽章、拍手は盛大だが)。なにかやみくもに焦燥感に駆られたような感じがする。3楽章はなかなか深みを出してきているが、なにか足りない気もしないでもない。全体を覆いつくす暗い色調は録音のせいかもしれないが、一種のカタルシスを求めて聴く曲なのに、余りに素早く駆け抜けて終わる終楽章はどうも気になる。うーん、お勧めではない。

*********************************

○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(BRILLIANT)1957/4/12LIVE・CD

ゴステレラジオ・ファウンデーションの正規音源によるガウク・ライヴ録音集成より。廉価盤なりの軽さが感じられやや残響付加気味の音場の小さい録音だが聴きやすい。ガウクはドラマチックである。性急で力強い同時代西欧で流行ったスタイルにスピードや発音は近いものがあるが、もっと主情的で、男らしいロマンチシズムが感傷におぼれることなく支配している。弛緩することはまずなく、その点でムラヴィンに近い感もあるが、あそこまで抽象化しないため、その親しみ易さがゆえに素人はのめりこみやすい。だが、この演奏には更に悲愴感が強い。けして重く引きずることはないが、強く慟哭するような表現の交じる1楽章、暗い攻撃性の支配する2楽章、悲しみに対する何故という問い掛けをひたすら歌い続ける3楽章、ライヴゆえか異常なテンポで突き進み崩壊しながら「見せ掛けの頂上」へアッチェルしていき、しかし苦難から大団円へというそのあとも楽想を余り描き分けず、暗い情熱が強い内圧となって弛むことなく音楽を持ち上げるのみの4楽章、戸惑い気味の拍手は曲に対してのものであるにしても、単純でない、ガウクなりの時代への思いがかなり出ているように思う。アンチェルよりはムラヴィンであり、コンドラシンよりはスヴェトラであり、音は悪いがひとつ見識として聴ける。○。

*********************************

スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA・VICTOR/ZYX)1977/8・CD

ステレオなのはいいが分離が良すぎて気持ち悪い。そのせいかアンサンブルがバラバラに動いていてまとまらないような印象を受ける。スヴェトラーノフの録音にしばしば聞かれるスカスカ感をここでも感じてしまうのだ。録音のクリアさが更にその感を強くさせる。終楽章などどこに盛り上がりどころを持ってきているつもりなのか、意図がよく見えない。そんな設計上の疑問も感じる一方、ただ、3楽章の深淵を覗き見るような恐ろしい音楽には感銘を受けた。晩年、静寂の中にその芸術の神髄を込めたスヴェトラーノフ、この時代にして既にピアノの音楽を意識して作っている。全般に悪くはないが良くもない。そういうところ。ZYXはCDです。

○スヴェトラーノフ指揮LSO(vibrato:cd-r/bbc,medici)1978/8/28エジンバラLIVE・CD

懐かしい音楽だ。忘れられつつあるこの孤高のカリスマ指揮者、やはり独特の風格をもち、最後の巨匠系指揮者であり、その芸風は「ロシアの大陸を思わせる雄大でドラマティックな指揮」などと総括できない理知的な計算に基づく音響感覚の上に設計された音楽であった。この演奏は既出ではないか?LSOがまるでUSSRsoのような音をはなつ。弦の揃わなさ薄さ個人技誇示系の表出性と強い発音からなる独特の音やパーカス、ブラスのぶっ放し方、木管の超絶技巧を存分に発揮させるテンポ設定、このあたりがオケ起因によるものではなく、あくまでスヴェトラという人の設計に基づいてあらわれてきたものであり、それはやはりバンスタのような即興性に基づくものであったのではなく、予定調和であったのだろう。終楽章のまるで歌舞伎の見得を切るようなドラマティックな表現のもとには聴衆もフラブラを余儀なくされ、このように内面から沸き立つ熱狂的な歓喜のブラヴォを呼び覚ます指揮者というのは、スヴェトラが最後だったろう。ガウクやラフリンやサモスードやハイキンといった「純ロシア系指揮者」、フェドやロジェスト先生のような同時代の指揮者と比べても、今これを聞いて、晩年の芸風を思わせる鋭敏な音響感覚にもとづく静謐な音楽を描いた3楽章など聴くにつけても、この人は独特であり、孤高であった。ロシア人指揮者の典型などとゆめゆめ言うなかれ、ムラヴィンやコンドラシンはロシアというより西欧的な芸風を持っていたし、ガウクの系譜は即興的なものに基づく芸風であり、スヴェトラは前者の傾向にあった中に独自の「大げさな表現」を持ち込んだ。これはアンサンブルの乱れからとても最上位には置けない演奏ではあるものの、多分今はもう聞けないたぐいの演奏である。○。

○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト(放送?)交響楽団(LUCKY BALL:CD-R)1983/10/20LIVE・CD

邪悪な表現のうまいスベトラならではのものがある。1楽章や4楽章の攻撃性ったらない。録音は篭りがちで特に弦楽器が遠くブラスやパーカスに潰されがちなのは痛い。そんな録音のせいか荒さが目立つような気がしなくもなく、2楽章にはそんな粗野なアンサンブルがささくれ立った印象を与える。ハープが大きく入って独自の美麗さを発しており耳に留まった。3楽章も美しい響きがサーというノイズで大分台なしになっている。だが緊張感は伝わってくる。客席のノイズが殆ど入らないのだ。その場その場の美しさに従事し全体として何が言いたいのか今一つ伝わってこないが、明るい高音域中心のハーモニーはいかにもスベトラらしい楽観性を感じさせる。4楽章は思ったほどではないがドガシャーンと盛り上がる。ペットが外しているが後愛嬌。弦楽器の刻みに乗ってブラスにより吹きあげられる最後の盛り上がりが遅いテンポで雄大に、強引に?築かれるのは予想通りだが効果大。ブラウ゛ォが一斉に叫ばれる。スベトラにしてはやや半端な感じもするが○。

スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(CANYON)1992/6・CD

ソヴィエト・ロシア系指揮者によってやりつくされた曲であるが、この演奏で最も耳を惹いたのが終楽章だった。前半、胸のすくような走句が一旦頂点へ向けて駆け上がるところ、敢えてそれほど盛り上がりを作らず、じわじわと盛り上がる終盤のクライマックスへの大きな流れを造り上げている。前半部分を「証言」でいうところの「強制された歓喜」と位置づけ、人間性の回復という真の歓喜への経過点としているかのようだ。弦楽器、とくにヴァイオリンセクションの薄さが目立ち、オケ全体的にやや悪いコンディションにあるように感じるが、それでもスヴェトラーノフの真情の篭った演奏になっており、注目すべきものを持っている。

*********************************

○コンドラシン指揮ミュンヘン・フィル(VIBRATO:CD-R)LIVE

モノラルでエアチェック状態は悪くないが録音は悪いというか遠く篭っている。ノイズもある。演奏は紛れも無く超即物的コンドラシンスタイルで冒頭からつんのめり気味の異様な速さである。軽快に聞こえかねないほどだが妙に粘り深刻なよりは聞きやすく個人的には好きだ。スケルツォはそれに比べれば普通のテンポ。水際立った音のキレとリズム感はコンドラシンらしい厳しくりっせられたものだ。ミュンヘンの一糸乱れぬ好演が光る。ソロに瑕疵はみられるがこの曲でこの厳しさでソロのこけない実演のほうが珍しいのである。アダージオはドライなコンドラシンにとって鬼門のように個人的には思う。わりと常識的な演奏に落ちる。美しく淋しく深刻なさまは描けるのだが例えばバンスタのような歌謡性や迫力がなく、ソヴィエトスタイルの典型的なやり方を踏襲しているがゆえに個性の印象が薄い。全体設計の中ではそれで充分なのかもしれないが。雄大に烈しい発音で始まるフィナーレはわりと落ち着いたテンポから徐々にアッチェルしてゆきヴァイオリンがばらけだして激烈な最初の頂点にいたる。強制された歓喜それ自体より直後の太鼓の破滅の乱打が深刻で印象的だ。念を押すような珍しいテンポルバートがコンドラシンの言いたいことを音楽で示している。わりと普通の緩徐部から再現部は徐々に徐々に注意深く表現を荒げていく。少し注意深すぎるような気もするがじつに大きな造形だ。コーダは二度テンポを上げることなく雄大に壮麗な勝利の凱歌をあげる。設計がすばらしく上手い。ブラヴォもむべなるかな。初心者向きではないが古典好きにもアピールするであろうロマンに流されないしっかりした構造の演奏。○。

*********************************

○ミトロプーロス指揮NYP(SONY/CEDAR,THEOREMA)1952/12/1STUDIO・CD

これはなかなかの名演である。音が飛んだり裏返ったりする部分があり興をそぐが、全体の充実度にはいささかの傷にもなっていない。物凄く特徴的な解釈である、とか技術的に無茶苦茶巧い、とかいうたぐいのものではないが、非常に集中力が高く、確信に満ちた強靭な棒と力強い表現力には感服する。この曲に飽きてしまって久しい私は、久し振りにこの曲を通して聴いて、とても満足した。2、4楽章の充実した演奏というのを物凄く久し振りに聞いた気がする。ミトロプーロスの恣意性についても言及しておくべきだろうが、まあ、本質を損なう事にはなっていないから、省略します。終楽章はあほみたいに歓喜で終わったりしかめっ面で変な解釈を施したりすることなく、ま正面から取り組み、明暗のコントラストをつけずに一気に登り詰め、終わる。ミトプーは明るくない。「くすんだ解釈」を施すことが多い。これもそのひとつだ。でも晦渋にならない手綱さばきの巧さがミトプーの本領。聴いて損はしません。○。

*********************************

○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(sony)1959/10/20

○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(sony)1979/7/3&4東京文化会館live

後記ウィーン盤のほぼ直後にあたるライヴである。名演の誉れ高いものだ。前進力があり、熱気あふれる演奏ぶりであり、その点ウィーン・フィルのものとは聴感がことなっている。知らず知らず引き込まれ、気がつくと全曲ききとおしている、それだけの説得力のある演奏だ。(ライナーにも同じ事が書いてあった(笑)。)この人の演奏には「物語」がある。ストラヴィンスキーのような作曲家には噴飯ものだろうが、音楽がひとつの悲劇的な物語を語っており、その語り口に引き寄せられる。ウィーン盤同様やはり弱音部のそこはかとなく哀しい音楽にとくに惹かれる。3楽章の美しい音楽にはなにか失われてしまったものたちへの哀悼の祈りを感じる。バーンスタインはウィーンとの演奏よりニューヨークとの演奏の方が板についているように思う。丁々発止の動きが魅力的だ。録音の素晴らしさもあいまって、これは確かにバンスタの「革命」白眉の演奏といえよう。

○バーンスタイン指揮NYP(orfeo)ザルツブルグ1959/8/16live・CD

モノラルで音はそれほどよくない。同時期得意とした曲の、手兵によるライヴ。集中力が音の迫力となって最後まで突き進む感じは壮年期のバンスタらしい。技術的ほつれは少ない。ソロ楽器もおしなべて巧いが終楽章、気分に任せてどんどんアッチェランドしていくようなところでは弦楽器に少々乱れもみられる。聴きものはやはり三楽章だろう。ロマンティックなマーラーとはまた違った静かな感傷が印象的である。スタジオ録音や他のもっといい音の録音と比べてとりたてて聴くべきとは言わないが、マニアならどうぞ。聴衆反応は穏やか。3楽章終わりで何か叫ぶ声が聴こえる。ブーイングなのかブラヴォなのか判別できないけど、内容的には後者だと思う。

バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SYMPOSIUM)1945/1/28

横浜のタワーレコードはなかなか掘り出し物が有るし、詳しい店員がいるようで各平置きCDに細かい紹介文がつけてあって楽しかった。対して横浜HMVは広さのわりに出点数が少なく(平置きばっかり)駄目になってしまった。詳しい店員といえば昔はお茶の水ディスクユニオンだったが(昔新宿ディスクユニオンがあったころ、べらぼうに詳しい店員がいたが、今はどうしているのだろう)、クラシック館を移動してからなんだかちょっと店的にダメになったような気がする。とくに新譜の売り場がひどい。でも中古屋としての所蔵点数は膨大で、LPも圧倒的に多いし、貴重な店ではある。渋谷タワーも細かい紹介文で知られ、ひいきにしていたところだったが、さいきん文章が悪ノリがすぎてかえって購買意欲を削いでいる。ただ、点数は抜群である。渋谷HMVはだんだんと充実していってるかんじだが、紹介文は全店舗共通の通り一遍のもの。値段は今やHMVのほうが安いかも?今はなき渋谷WAVEに六本木WAVE、特に六本木はマニアック路線一直線だっただけになくなったときは非常に残念だった。銀座山野楽器はちょっと面白いものがあることも希にあるが、それほど多くない。銀座HMVは平置きの安売り中心の店になっている。新宿ヴァージンは穴場で、マニアックな品揃えで魅せる。対しタワーは売り場こそ広いものの、それほど充実度が高くない。店員もあまり詳しくない。タイムズスクエアのHMVのほうが狭いもののどちらかというと買い易い。池袋HMVは独自路線を歩んでいたが、最近ちょっと低迷か?大御所、秋葉原石丸電気はべらぼうに安かったりして嬉しいが、品の回転が速すぎて古い盤が残らない。昔は古い盤を探しに石丸へ行く、というくらい所蔵点数が多かったのだが、今や全く別指向の店になった。他の店にふつうに売っているちょっと前のCDが、二店とも売り切れていたりするのでびっくりする。ただ、ここはCD-Rを扱っているので非常に貴重である。あと、店員が親切。CDに紹介文こそほとんど挙げられてないものの、この店は十二分に存在価値がある。(以上2003年時点の話、現在はかなり縮小変更されている)

店のことをつらつら書いてしまったが、
冒頭の横浜タワーに戻って、そこで手に入れたのがこのシンポジウム盤である。シンポジウムだから音はレコードからそのまま録音した如き悪いものであるが、音楽の魅力は十分に伝わってくる。若きバーンスタインの覇気溢れる演奏には後年に比べれば個性的なものは少ないものの、全体的に速めに進む音楽の耳心地は非常に良く、その力強い推進力に身をまかせるのも一興といったところ。ただ、この演奏のころ戦争はまだ終わっていなかったわけで、この曲に託された想いに想像をめぐらせてみるべきでもあろう。1楽章のどことなく悲痛な叫びには生々しさがあり恐ろしい感じすらするが、4楽章のあまりに楽天的なフィナーレへと続くところがアメリカ的だ。後年のものにくらべこの演奏のほうを高く評価する人もいる。(2003/2/12記)

○バーンスタイン指揮VPO(sardina records:CD-R/FIRST CLASSICS)1979/5/27ライヴ

精妙で落ち着いた演奏。ドラマティックな盛り上がりも柔らかく透明な音色でまとめられ、ライヴにしては非常に安定した印象を受ける。技巧的にも完璧といってよく、まるでロンドンの有名オーケストラを聞くようだ。緩徐部における「荘重な」表現は没入型指揮者としてとらえられることの多いバーンスタインのイメージを覆し、過去のNYP正規盤のようなエキセントリックな面も消滅し、崇高な祈りの感情を感じる。特に3楽章の沈潜する表現は彼のマーラーとは異なる静謐と威厳に満ちている。全般、爆発的な迫力は望めないが、深味のある演奏だ。最上級の賛辞を贈られても、おかしくはない。個人的に 2楽章の表現がマーラーなどにみられる「レントラー舞曲」的に重いところが後年のバーンスタインのスタイルを象徴していて面白かった。26日盤というものがLIVE CLASSICSなどで出ていたが偽演とのこと。(A.ヤンソンスらしい)

バーンスタイン指揮VPO(DA:CD-R)1979ウィーン音楽祭live

イマイチ。録音が撚れすぎている。かすれがひどいし、ピッチも安定しない。VPOというよりNYPみたいな弦も気になる。管楽器群はあきらかにウィーンの音をしているが弦が機能性は高いがライヴでは雑味の多く色の無いNYPであるかのようだ。とくに4楽章のバラケ具合は問題だろう。またバンスタにしては意外と落ち着いていると言うか、客観的すぎる。比較的遅いインテンポというか、無個性的なのである。とりたてて印象に残らない演奏、ただ、3楽章だけはいつもどおり美しい挽歌になっている。だからバンスタではあるのだろう。 1979/5/27(26)と同一演奏かは不明。

○バーンスタイン指揮フランス国立管弦楽団(KAPPELLMEISTER:CD-R)1976LIVE

かなり質の悪いエアチェックもので最初隠し録りかと思った。「膝の温もりが伝わってきそうな録音」と書きそうになった。一楽章では酷い混信もあり聞きづらい。しかし、やっぱりバンスタはわかりやすい。。この曲にこの年で今更面白みを感じるとは思わなかった。音のキレよく骨ばった音楽をかなでるのではなく、生暖かい肉のまだついている音楽、まさにマーラー側に思い切り引き寄せたような厚ぼったくも魅力的な響きに旋律の抒情性を最大限引き出したロマンティックな革命、オケもフランスがどうこういうものはなくバンスタのハミングにしっかり肉を付けている。勿論ドイツやロシアでは得られないすっきりした響きが(コンマスソロなど技術的綻びはあるにしても)バンスタの脂を上手くあぶり落としている点も聞き所ではあり、イギリスオケのようなニュートラルな無難さがない所もまた人間臭さを感じるのだ。いや、飽きないですねこの人の革命は、三楽章がなかったとしても。ムラヴィンだいすき派やチェリは偉大派には受けないやり方だろうが、この分厚い響きにえんえんと続く歌心には、マニアではなく一般人を引き付けるわかりやすい感情の滑らかな起伏がある。豊かな感受性は淋しくも希望のかけらと憧れをもって轟く三楽章で遺憾無く発揮され、マーラー好きのパリジャンの心を鷲掴みにする。ショスタコの大規模曲には速筆ゆえに構造の簡素さや各声部剥き出しの薄さがつきまとう。弱いオケがそのまま取り組んでしまうとちっともピンと来ない浅い曲に聞こえてしまいがちである。私などはそういうところで入り込めない部分があるのだが、演奏陣によってここまで分厚く塗り上げられると否応なく引き込まれざるを得ないのである。浅薄なまでに速いスピードで煽られる四楽章にしても旋律はつねに明らかであり響きの重心は低く厚味を保っている。コードを小節単位でただ各楽器に割り振っただけの余りに単純なスコアも粘着質の強いフレージングを施し構造的な弱みをカバーしている。それにしても弦楽器そうとうプルト多いな。旋律の抑揚も完全に歌謡的だが、元々カッコイイので演歌にはならない。打楽器要素が強調されているのもダレを抑えゴージャスぶりを発揮するのに役立っている。バンスタのカラオケ声がときどきうるさい。アグレッシブなのはいいのだが、マイクバランスが悪く指揮台直下で聞いているような感じなので、足踏み共々気を散らされてしまう。でもまあこの異常な突撃怒涛のクライマックスが聞けただけでも聴いた甲斐があった。○。

○バーンスタイン指揮ORTF(VON-Z:CD-R)1966/11/30LIVE

きわめてクリアなエアチェック音源でカペルマイスターの76年とされるものと比べてもはるかに楽しめる。バンスタは粗い。雑味をも味とした典型の人で、あたえた影響はけしていいことばかりではない。変に厳しさのない勢いや起伏だけのアンサンブルをこうじるトップ指揮者はバンスタ前にはそんなにいなかったのではないか。逆にバンスタは唯一無比のアバウトさを感情のほとばしりと聴かせる指揮者だったのだ、とこの解釈の行き届いた、しかし雑音も多い演奏を聴きながら思った。バンスタははっきり、ショスタコ適性があり、作曲家の内面に踏み込めたからこそどんなに曲から遠いオケでもここまでやりきることができたのだ。録音が僅かな混信を除けばほぼ満点なので◎をつけたいがいかんせん、それゆえ聞こえてしまう雑味が気になったので○。3楽章なんて自作じゃないかというくらいないきおいだ。しかも晩年のようなフォルムの崩れはない。

~三楽章アダージオ

○バーンスタイン指揮ロンドン交響楽団(GNP:CD-R)1975/8/13LIVE

ショスタコーヴィチ追悼のために特別に演奏された75年8月のライヴ記録。あたかもこれ一曲で完成された悲歌シンフォニーであるかのように、深く、広く、哀しくひびく演奏。すすり泣くような冒頭から、ロンドンのオケとしては精一杯の悲しみの叫びまで、バーンスタインの歌は続く。とはいえ録音のせいか盛り上がりどころでいくぶん物足りなさを感じる部分もなきにしもあらずだが、静かな場面の意味深さはこの盤でもよく伝わってくる。非常に美しい演奏だ。そういえばバーンスタインが亡くなったときメータが演奏したのは、マーラーの3番終楽章、慈愛に満ちたあたたかい曲だった。そのとき遠くロシアではスヴェトラーノフが同じくマーラーの9番を追悼演奏したという。追悼演奏をする側もいつしか追悼演奏をされる側になる。しばし無常を想う。

*********************************

(ふたたび全曲)

シルヴェストリ指揮ウィーン・フィル(emi)1962

ライナーには「非常にスマート」とかかれているが、整然というより雑然といったほうがいいような部分もある演奏。3楽章は精妙な音楽を聞かせており本盤のききどころと言ってもよいが、弦のアンサンブルが崩れたように聞こえる箇所が有る。またヴァイオリンが薄くてまるでウィーン響?と思わせるようなところさえある。終楽章は割合と恣意的なテンポ操作が行われており、それまでの「そっけない系」の解釈とは少々異なってはいるが、わざとらしい。シルヴェストリという指揮者を知るにはいささか分が悪い盤である。雑味の多さにライヴかと思ったらスタジオ録音。・・・なんとまあ。

マキシム・ショスタコーヴィチ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)

比較的オーソドックスな演奏で、とくに没入することもなく、かといって客観的でもなく、いたって平凡な解釈である。ただ、終楽章だけがちょっと違った。まるで父ショスタコーヴィチがヴォルコフの「証言」で「なんにもわかっちゃいない」とムラヴィンスキーを批判した、その批判されるような解釈をはっきりと行っているのである。最初の盛り上がりで急に恣意的にテンポを落としているのがもっともわかりやすいが、それ以外でも娯楽作品を扱うようなテンポの伸び縮みが見られる。それは自由にルバートしているわけではなく、予めはっきり指示されてのことであるようだ。作為的に盛り上がりを作っているところが逆に萎えさせる。無印。この盤はLPではいろいろと出ているがCDは不明。

*********************************

○ストコフスキ指揮チェコ・フィル(PRELUDIO)1961LIVE

3楽章が圧倒的に素晴らしい。チェコ・フィルの美しい弦により寂しげな歌が歌われている。心に染み入る感傷的な歌だ。これだけでも○ひとつを与えるのに躊躇はない。ストコフスキは譜面操作を行う指揮者だが、終楽章以外は特におかしな解釈は聞かれない。終楽章はテンポがゆっくりめのインテンポであるところが意外だが、いくつかオケ(とくにブラス)がとちっている箇所が有り、ひょっとしたらそれはとちっているのではなくそういう解釈なのかもしれないが、失敗だったとしたらちょっと残念ではある。終楽章のヴァイオリンが何本かとても艶めかしい音でポルタメントばりばりで弾いているのが聞こえ面白い。モノラル。

ストコフスキ指揮ニューヨーク・スタジアム交響楽団(ニューヨーク・フィル)(EVEREST)1959/1初出

「オーケストラの少女」DVD化記念に買ってみた(あっちはチャイ5ですが)。
クリアな録音が仇!ヴァイオリンパートが薄すぎる。ストコフスキのいくぶん緩い指揮がここでは雑味を呼んでいる。それらの欠点までもクリアにされてしまった!ストコフスキの解釈はそれなりの見識のもとに施されているし他では聞けないものだが、正直古いモノラル録音のほうが聴き易かった。

○ストコフスキ指揮NYP(DA:CD-R他)1962/3/4live

ストレートな演奏でスコアの弱さも強さも露呈するやり方をしている。旋律によって横に流されがちで、構造的にはただ二本の線が絡み合うだけのような簡素な曲なだけに、部分的な補強はなされるもののそのまま、3楽章はその方法で印象的だが、全般には旋律が強すぎる感じもする(ちなみにスコアをいじってはいるようだが強奏部の打楽器補強や低弦のアーティキュレーション強調など音量的配慮を前提にしたもので「改変」とまで言えるかどうかはびみょう)。ただ、揺れない。基本速いインテンポで押せ押せをやっており、4楽章などラインスドルフ的な即物性を感じる。この楽章で変な起伏をつけないところは他の演奏でもそうだがストコの見識というか、設計上の配慮か。突っ走るコーダで録音が乱れるのは惜しい。最後だけシンバルを轟かせた「ストコフスキ・クレッシェンド」。録音はやや篭ったモノラル。雑音は少ない。○。 CD化された模様。

○ストコフスキ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R他)1965/3/12LIVE

比較的有名な放送音源でストコフスキの革命では素晴らしくよい録音。開放的なアンサンブルだが決定的な崩れはなく、ブラスとパーカスを強調し分厚い弦楽器のうねりで響きを盛り上げていく。確かにBSOの音だがフィラ管のように華々しく聞こえるのはさすがだ。大きな表現の中で非常に煽情的なテンポ設定、特徴的なアーティキュレーション付けはいずれも別録に聴かれる解釈とほぼ同じだが、細かくは弦にオールドスタイルなポルタメントを導入したりなど、ミュンシュの繰ったボストンSOの力量と特性が、少しきしんではいるけれど、遺憾無く発揮されているといっていい出来。アタッカで度肝を抜く異常なクレッシェンドで幕あける終楽章、テンションを途切れさせず(かなりあざとい表現ではあるが)大ブラヴォを煽る結末はききものだ。ソリストのレベルも大きく影響している。中間楽章の木管が素晴らしく力強いのが印象的。編成のせいもあろう響きが低くやや重い、それに引きずられるようにテンポも遅くなる、両端楽章では気になるところではあるが、けして単調でないこと、リズムのキレが素晴らしくよいことでカバーされる。ステレオ。○。ストコフスキはこの曲を好んでいたようだ。

○ストコフスキ指揮ボストン交響楽団(SCC:CD-R)1965/8/15live

お盆の中日にこの曲をやる意味を考えると、、いや関係ないか。インホールで(クリアだが)よくはない録音。しかし水際立ったキレのよさに分厚く重いひびき、他オケとのものに比べ精緻さをそなえたまるでミュンシュのような迫力を提示、ボストンSOにしては雑味を感じる向きもあるかもしれないが、ストコフスキにしては極めて固くしっかりした演奏である。急くような前のめりのテンポ取りで音符を短く切り詰めた表現が印象的な前半楽章、ボストンの弦の面目躍如たる雄渾なアダージオ、いくぶん潤いが足りないが直裁な解釈を忠実に、弛むことなく弾ききったフィナーレ、管打を増強し極端に引き延ばされクレッシェンドをかけられた終止音のド迫力、盛大なフラブラ気味の客席反応。他録と似ているがいずれ感銘をうけざるをえない。一楽章終わりに拍手が入り仕切り直し、フィナーレはアタッカ。○。

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R他)1972/5/7LIVE

新しいわりに音は悪い。手兵だけあって軽く明るく、美しいひびきにしなやかな表現は板についたものがあり、他客演録音と比べるとストコフスキらしさがより出ているように思う。三楽章のむせ返るような弦楽合奏、ねっとりした木管ソロの競演、ストコフスキの独壇場だ。曲の響きの重さに引きずられることもそれほどない。個性的な変化付けやデフォルメも、横の流れの上に有機的に紡がれ不自然さがそれほどない。これもストコフスキらしさだがややラフさが気になるし、技巧的にはとりわけ優れているわけではなく、深刻さを求める向きには甘い演奏に聞こえるかもしれないが、スケルツォの即興に流れるような前のめりなテンポなど、ライブ感は楽しめる。フィナーレがやや弱く作為的に聞こえてしまうのは楽団の疲れのせいか。ホール残響が強いので、真実はまた別かも。なにせブラヴォが凄まじ過ぎる。○。

*********************************

チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(EISEN)1986/2/6LIVE

音が余りに悪すぎる!あきらかにラジオ放送のエアチェック。このライヴ4枚組みは1600円強で非常に安いが、非常に状態が悪い。「革命」でいえば、ピッチが高い!海賊盤にありがちなピッチを上げて収録曲数を増やすというやり方を思い起こさせる。そして、演奏もはっきりいってあまりよくない。四角四面の音楽、構築性を重視するあまり曲の流れがよどみがち。ハーモニー重視のやりかたは一理あるが、この盤は状態が悪すぎて肝心の響きの美しさがデッドだ。ショスタコはけっこう単純なスコアを書く。楽器ひとつにえんえんと旋律を演奏させたりする。だからこういった細かい音が聞き取れない録音だと、旋律が暗雲の中に消失、なんじゃこりゃ、わけわかめ。無印。

○チェリビダッケ指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(aulide:cd-r/ARKADIA)1955/2/12(21?)live・CD

素晴らしく盛り上がるライヴで、正直録音さえよければ◎にしてもよかったと想うくらいだ。しっかり独自の解釈を創り上げ、まるでベルリン・フィル時代のそのままの芸風でまい進してゆく若々しい演奏振りには長髪を振り乱しながら全楽器のミスを見逃さない極めて専制君主的な指揮ぶりが聴いて取れる。だからこんなオケでもまるきりドイツの音を出す。磨き抜かれ縦にびっしり揃えられた音の群れが、怒涛のようにしかし颯爽とショスタコのまだぬくもりの残る代表作を、独自の世界観の中にドライヴしてゆく。情にはけっして流されない、トスカニーニですら流されすぎていると言わんばかりの非常に律せられた予め彫刻されたものの表現ではあるのだが、後年のただ響きのみが残り横の時間の感覚を失った一種非音楽的なところがまったくなく、紛れも無くこの時代の非常に魅力的だった、カラヤンさえいなければどんな世界を展開していったのか尽きぬ妄想を抱かざるを得ない、たぶんこの人の革命の演奏ではいちばん巧くいっているし、一般向きだと想う。個人的に気に入った。特にこの楽章のここが、ということはないが(1楽章など独自の間断などきかれるが)。

○チェリビダッケ指揮スウェーデン放送交響楽団(VIBRATO:CD-R)1967LIVE

既にして運動性よりひびきを重視してはいるが、重々しい一楽章冒頭フーガ、ここからの簡素簡潔なオーケストレーション、ひたすらハーモニーの綾だけで描いていると言えば「コラール音楽を指向している」と読まれかねない。そうではない。確かにここにはロマンチックな感覚が通底している。数学的には引きずるような重いリズムやらテンポやらなんやら言えるだろうが表現にははっきりとした主観的なロマンチシズムが聞き取れ(三楽章の最も印象的な慟哭と感傷の世界にいたらなくても)チェリらしくないほどにドラマティックなのだ。これはAC盤ならではの悪い録音が逆にリアルな演奏の場を演出しているのもある。EMIのエンジニアが入れば「ひたすら鋭利にみがきあげられた響きだけで生気のない演奏」にでもなるのだろうが、ここでホワイトノイズを掻き分けてたちあらわれる荒々しい音楽性は、「録音芸術」という独立した概念を提唱する私にとっては「真実がどうであろうが」素晴らしく魅力的なものであり、このほうが演奏家の素顔をよく伝えるものたりえているのではないか、という幻想を抱かせるほどに面白いのだ。スケルツォ冒頭でベースがゴリゴリいわないのはこの人らしい抑制だがドイツ的な流れよさは心地いいほどだ、物足りなくはない。三はとにかく聞け。四は疾駆しないのが(私でさえ)物足りず、オケの弱さがすこし目立つが、刹那的に愉しむのではなく全体構成のなかに身をひたすなら、チェリの巨視的な解釈が見えてこよう。正しく音価をもたせ盛り上がってもけして切り詰めないところなどイマイチ乗り切れないが、これはムラヴィンを聴き過ぎた者の宿命だろう。むしろ弱音部を評価すべき解釈だ。総体として○。チェリの革命ではいちばん聞きやすい。

チェリビダッケ指揮スウェーデン国立放送交響楽団(WME:CD-R)1960'LIVE

録音がかなり悪い。復号化がうまくできていない圧縮音源のうえつぎはぎのようである。三楽章のあとに聴衆のざわめきが何故かクリアなステレオで挿入されるものの四楽章が始まるとモノラルの悪音に戻る。がっしりしたフォルムの厳しく客観的にりっせられた演奏というものは聞き取れるが、正直鑑賞するには厳しい状態であり、無理して聞き込むと今度はオケ側の演奏不備も目立つようになり、とくに四楽章は厳しい。演奏的に悪くはないのだが、これに特にこだわる必要はない。無印。チェリの革命には4枚ほど音盤があるが、イタリアの古いライヴは未知。 vibrato盤と同一演奏の可能性あり。

Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ウォルトン(映画音楽、協奏... | TOP | ショスタコーヴィチ 交響曲... »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | Weblog