りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

時代の変わり目。

2011-02-22 | Weblog
今は明治維新以来の変革期なのだそうだ。

先日来、この国の総理大臣が、何とかのひとつ覚えの
ようにそう言っている。

たしかに、世界は大きく変わっていこうとしている。
この国も、大きく変わってしまった。

しかし、本当にそうだろうか?

1969年。僕は生まれた。
東大紛争で全共闘が敗北し、アポロが月面着陸し、
アメリカではウッドストックで野外ライブが開催された年だ。
あるモノが終わり、あるモノがはじまった時として、
今でもシンボリックな年として語られる年である。

しかし、当然だが乳飲み子だった僕には記憶は、ない。

1989年。僕は20歳になった。
ドイツのベルリンで壁が崩れ、中国の天安門広場で戦車が学生と対峙し、
ルーマニアではチャウシェスクが処刑され、東証株価は最高値を記録し、
美空ひばりが亡くなり、おまけに中森明菜は自殺をはかった。
明らかに、世界が大きく変わった年だった。
しかし、当時の僕はといえば、大学にもろくに行かず、古ぼけたアパート
の部屋で友達とカップラーメンをすする毎日だった。

1995年。僕は社会人3年目の青二才だった。
阪神大震災が起きた。地下鉄サリン事件が起きた。音楽業界では訳の
分からない歌でも、簡単にミリオンセラーが連発していた。
知識人たちは、この年こそが完全にバブルの余韻も残像も吹き飛び、
この国には何もなくなったことが露呈した年だと語っていた。
しかし、当時の僕はといえば、仕事のやり方や社会の仕組みを覚えるのに
必死で、他の何も見えていなかった。

上述した3つの年は、僕が生まれて以降、“時代が変わった”と言われている
年である。
しかし、そこに書いたように、当時の僕にはそんなことは関係なかった。
何かが変わりつつある・・・という雰囲気は肌で感じてはいたが、それよりも
自分のことだけで精一杯だった。

なぜか?

それは、おそらく、その当事者である人々は、“今が時代の変わり目”だと
いうことに気づかないからだと思う。

例えるならば、台風の目の中にいるのと一緒だ。

どんなに巨大な台風でも・・・いや台風が巨大すぎればすぎるほど、その目の
中に入れば、その台風の大きさは分からない。むしろ、巨大な台風の目の上に
広がる青空に目を奪われる。
そして、台風の目が上空を過ぎ、再び暴風雨に襲われて、初めて自分が巨大な
嵐のど真ん中にいたことを痛感するのだ。

時代の分かれ目も、そういうものだ。

必ず、後になって“あぁ、あの時が時代の変わり目だったんだ”と痛感するのだ。
だから、今の時代を「時代の変わり目」とか「明治維新以来の変革期」と
連呼して安売りする人物は信用しない方がいい。
僕はそう思う。

本当に今の時代が変わり目ならば、その当事者は、その時代のリーダーは、
そんな事を言っている暇はないはずだ。

思い返して欲しい。

上述した3つの年に、この国の総理の椅子に座っていた人たちを、私たちは
ちゃんと記憶しているだろうか?
記憶していたとしても、どんな実績を残したのか、覚えているだろうか?
それ以前に、時代の変わり目に関わるような実績を残したのだろうか?

悲しいことだが、この国のリーダーとは、その程度のモノなのかも知れない。
コメント
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