りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

「苦役列車」を読んで。

2011-04-02 | Weblog
いいなぁ~、今日のこの日記のタイトル。
まるで小学生の読書感想文みたい(笑)

でも今日の日記は、この小説の読書感想文に変わりはないからなぁ。
まぁ、妥当なタイトルでしょう。

3月下旬に「文藝春秋」を購入して、仕事の合間や帰宅後に読みました。
http://blog.goo.ne.jp/riki1969/e/d3f305c515950ee4e5515da737ffbe92

いやぁ、すごい小説だった。
主人公の貫多(かんた)の、辟易を通り越して苦笑するしかないような見事なダメっぷり。
社会の最底辺の鍋底を舐めるような極貧生活。
世間や他人を徹底的に斜めからしか見られない、屈折しまくった性格。

仮に知り合いにはなれても、絶対に友達になれない。なりたくない(笑)

そんな貫多の言動や彼の周囲で起こる(正確には彼が起こすのだが)出来事に嫌気がしつつも
それでも最後まで読み終えたのは、明らかにこの小説が優れているからに他ならない。

時代設定は、おそらく1980年代半ばから後期、つまり日本がバブルで熱病のように浮かれまく
っていた頃なのだが、作者自身、戦前の無名作家・藤澤清造の没後弟子を自称しているように、
文体は時代設定に比べて、やや(というかかなり)古い。
しかし、あえてそのようないわば古文に近い文体を用いることで、主人公の赤貧ぶりや偏屈ぶりが
見事にあぶり出されているような気がした。

文体はそんな感じだが、紡がれた言葉にはしばしば唸った。
非常に秀逸な語彙が並んでいて、その言葉たちが、これまた主人公のダメっぷりを物語の中で
否応に露呈し続けるのだ。

そもそも、この西村氏の作品の言葉には琴線が触れるような作品が多い。
タイトルだけ見ても、敏感に反応せざる得ないような作品が多いのである。
「どうで死ぬ身の一踊り」、「けがれなき酒のへど」、「小銭をかぞえる」・・・etc.
購入するかどうかは別として、書店で遭遇したら、無意識のうちにその書籍に手を伸ばして
しまいそうなタイトルのオンパレードだ。

小説のタイトルは、人間でいえば、顔だ。
その顔次第で、注目されるかされないか、売れるか売れないかが決まると言っても過言ではない。
これは地方の小さな広告代理店だが、コピーライター的な仕事もしている広告業界の端くれの
人間としても興味深い。

西村氏は、自身を小説家ではなく、「私小説家」と呼んでいる。
つまり自身の身に起こった出来事を、それこそ身を削って作品にしている。
今回のこの「苦役列車」も、そんな作品のひとつだ。

そんな作品が純文学の最高峰の芥川賞を受賞したことは、選者の山田詠美氏の言葉を借りれば、
愉快でたまらない。

しかしその一方で、ふと思ったことがある。
いったい、「純文学」とはなんなんだろう?

以前から、この件に関しては活発に論議されているテーマではあるが、いまだにその明確な
定義はないようである。
この「苦役列車」も、今回は純文学として芥川賞にノミネートされ受賞に輝いたが、
文体や、あらすじの視点を少し変えて執筆されていたら、痛快で底抜けに面白いエンターテイ
メント性にあふれた青春小説になっていたような気がする。
そうなれば、おそらく芥川賞ではなく、大衆小説を対象としている直木賞にノミネートされて
いたのではないだろうか。

アマチュアながらも細々と小説を書いている人間として、今回、“もし自分がこのテーマで作品
を書くなら・・・”とシュミレーションしながら読んでいた。
もし、僕がこのテーマで作品を書くのなら、きっともっと主人公を突き放した上で、重量を極力
軽くした文体で綴っていたと思う。
それはまさしく、エンターテイメントにあふれた青春小説だ。
そうしなければ、こんな切なくみすぼらしい人物を主人公に据えて小説を書くことは、今の僕
には到底できない。書き進むにしたがって、苦痛しか残らないような気がするのだ。
それを考えれば、西村氏の文章の精神力、体力、持久力は、とんでもないレベルだと思う。
だから“自分には私小説しか書けない”と明言する同氏の腹の据わり様は、尋常ではない。

まぁ、そんな感じで二週間ほどで読了した「苦役列車」。

さて、次は何を読もうか。
コメント
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