rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

ねこにとっちゃあ・・・草を抜くこと

2013-05-09 23:51:38 | 随想たち
雨が降らなく乾燥した、まるでアリゾナかタクラマカンかと思わせるほど白くからからになった土でも、雑草は、しぶとく生えて花を付ける。
毎日のように小一時間ほど、草抜きをしている。
いつの間にかねこがやってきて「にゃっ」と声をかけてきたり、あるいは近くに寝そべってこちらの様子を窺いながら毛づくろいをしている。
時折ねこの視線を感じると、「この人いつも草をぶちぶちと抜いて何をやっているんだろう。あんなことして楽しいのかな。」と思っているのだろうなと想像する。
撫でてもらいたくて擦り寄るねこの気持ちを察しながら、ついぞ草を抜く手を休めようとはしない私に、ねこが苛立ち諦めて去っていくこともままある。
ねこにしたなら、楽しくも面白くもなく、腹が満ちることも眠りの気持ちよさも何もない草抜きという作業を分からないのも当然。
いや、自分にしてもこの終わりのない草との葛藤にうんざりしている。
草刈機や鎌など刈り込み、草丈が伸びなければそれでかまわないとさえ思っている。
今こうして草抜きをしているのは、義母の手前上、義母の流儀に倣っているだけのこと。
何しろ庭が広いから、今の状態を保つには、年がら年中、毎日数時間草を抜いたり植木の刈り込みをしなければならないと思われ、途方にくれている。
そのような気持ちも作用してか、ねこの視線の意味を勝手に解釈しているのだろう。
時として、人はある事象に出会ったときに自分の中に湧き起こる印象は、自分の深層心理が反映されたものになる。
草を抜く自分、ねこの視線で引き起こされたものは、こうした日常の繰り返しの中に埋没する自我、自分の夢と可能性の悲壮な叫びと思える。
平穏な日常がいけないとは思わない、けれども如何ともしがたい自我がそれだけではいられないと主張する。
後悔しなどしたくない。
心のうちで生きたいと叫ぶ自我を、救えるのは自分なのだから、さあ、絵筆をとりたまえ。