トモコパラドクス・8
『乃木坂の白い雲』
連休明けの空には、ポッカリ雲が浮かんでいて、乃木坂を学校へ向かう友子は見とれていた。
義体になる何年か前に、両親に連れられていった遊園地のことを思い出していた。いま父をやっている一郎は、まだ幼稚園で、ちょこまかとよく動き目が離せなかった。友子は、面倒なガキだと思いながら、姉として弟への愛情は十分持っていた。だから遊園地で一郎が急に走り出し「コラ!」と言って、背中のリュックを掴まえバランスを崩し姉弟重なって芝生に転んだときも、じゃれ合いながらケラケラ笑えた。その時も、こんな雲が浮かんでいたなあ……そう思ったら、歩道の敷石につまずいて、前を歩いていた担任の柚木先生のお尻を掴んでしまった。
「ウワー!」
「キャー!」
という声が一度にして、通学通勤途中のみんなが注目した。
「また、友子!?」
「あ、すみません。つい空の雲見て、思い出にふけっていたもので……」
「あなたね」
「でも、先生って、いつも生徒が危ないというところにいらっしゃるんですね。教師の鑑です」
「それは嬉しいけど、今度は他の先生にしてちょうだい」
「はい、すみません」
先生は、さっさと先を急いで行ってしまった。
「どうだった、柚木先生のお尻の感触は?」
気がつくと、クラスの委員長大佛聡が、落っことしたカバンを拾ってニヤニヤしていた。
「それは個人情報で、その質問はセクハラよ、オサラギサトシ君。委員長としても問題ありだな」
「おれの名前、覚えていてくれたんだな。それも正確に。たいがいのやつはダイブツソウって読んじゃうんだぜ」
「カバン拾ってくれてアリガト!」
そう言って、友子はさっさと歩き出した。
「おい、待ってくれよ!」
「また、教室でね!」
友子は、その時、競歩なら世界新のスピードで校門へ向かった。大佛も走って追いかけてくるほどのバカではないようだ。
友子は、まだ自分の力がコントロールできない。
昨日は外交官を拉致から助けたとき擬態の能力があることが分かった。スゴイと思ったら、さっきみたいにズッコケる。初日は敵を誘い出すための計算した行動だったけど(それで白石紀香は姿を現したけど、もう、敵などという状況ではないことが分かった)今のは完全な不可抗力。どうやら、自分の中にはいろんなモードがあるようなんだけど、その種類も切り替え方も分からない。
クラスはおろか、この二日あまりで見た生徒や先生の情報は全て記憶してしまった。
今の大佛聡の情報が一瞬頭に浮かび、彼が一番好意を持つような対応をしたことなど、友子の意識の中にはなかった。
これは、友子の親和的プログラムのなせるワザで、友子が義体を手に入れ、三十年ぶりに人と関係が持てる喜びから、発動されたもので、白石紀香が敵ではないこと、また、当面は戦わなければならない状況などにはならないだろうという安心感からも来ていた。
そして、放課後までには、ほとんどのクラスメートと仲良しになってしまった。
六時間目に柚木先生が授業に来たが、歩き方が微妙におかしい。他の生徒は気づかないが、先生のニュートラルな歩き方を覚えてしまった友子には分かった。朝、友子が掴んだお尻が、目を透視モードにすると青あざになっていることが分かった。申し訳ない気持ちになった。
そして、先生の気持ちに曇りがあることにも気づいた。
空席になっている長峰純子という生徒のことが気に掛かっているのだ。入学して一週間ほどで来なくなった、長欠の始まりだ。電話や家庭訪問をくり返しているがラチがあかないようだ。柚木先生の記憶を基に長峰純子の情報を取り込んだ。長峰興産という大きな会社の社長の一人娘だ。すると長峰興産の表と裏の情報が頭に流れ込んできて、友子は慄然とした。
「鈴木さん、十五ページの漢文読んでみて」
柚木先生が、ボンヤリしている友子に当てた。目の奥には若干の意地悪が籠もっていたが気にもならなかった。
「はい、渭城朝雨潤輕塵 客舎青青柳色新 勧君更盡一杯酒 西出陽關無故人」
教室中がシーンとなった。
王維の『送元二使安西』を完全な中国語の発音でやってのけたのである。
――しまった――そう思った時は、華僑の生徒である王梨香が一人感激の眼差しで、見つめている。
「鈴木さん。中国語できるの……?」
「あ……NHKの中国語講座で、ちょっと」
「汝会说汉语! あ、あなたとっても中国語がうまいわ!」
梨香(ワンちゃん)が感激のあまり、中国語と日本語で賛辞を送った。
「じゃ、ついでに訳してもらおうかしら」
「は、はい。渭城の朝の雨が軽い砂埃を潤している 旅館の前の柳の葉色も雨に洗われて瑞々しい 君にすすめる。昨夜は大いに飲み明かしたが、ここでもう一杯飲んでくれ。西域地方との境である陽関を出れば、もう友人は一人もいないだろうから……アハハ、こないだ中国語講座で出てきたとこなんです」
「ああ、ここの解説は、又今度にして、白楽天にいきます!」
やってしまった。と、反省しきりの友子であった……。