「お父さん、そろそろ閉めようか……」
日の落ちかけた空を見ながら、美優が呟くように言った。
「そうだな……でも、明日は神楽坂の卒業式だろ。もう少し開けておこうや。ボタンとかスカーフとか、小物を買いにくる子がいるかもしれねえ」
「そだね、篠崎さんとこも閉店だし、神楽坂の制服扱ってるのうちだけだもんね」
神楽坂学院は、この春から創立以来の制服を改訂する。
新しい制服はデザインが凝っていて、街の小さな業者では採算が合わない。制服業者は、大手デパートと二十校以上の取引先を持っているY商店の二つになってしまった。
学院創立以来、制服を手がけてきた篠崎屋は、店主が高齢なため、この二月いっぱいで店を閉めることになっている。篠崎屋から三十メートルほど離れた筋向かいの美優のテーラーSAKURAも、今日を限りに神楽坂学院の制服から撤退することになった。
娘の美優が、早くからこういう日を見越して、制服以外のプレタポルテに比重を置くようにして、なんとか神楽坂で店を続けることができるようになってきた。
「ほんとに、美優のお陰だよ。こうやって店続けられんの」
「だよな、美優がいなけりゃ、ゲンとこみてえに店たたまなくっちゃならないとこだ」
「篠崎さんとこも、信ちゃんいればねえ……」
「もう、五年も前に死んだ人のこと言っても仕方ないでしょ」
美優は、怒ったように言う。彼方の筋向かいの篠崎屋の看板が薄闇に滲んで、しばらく目が離せなかった。
「あ……雪……」
そう呟くと、ホッペをこするフリをして滲んだ涙を拭った。
「お母さん、お茶……」
「あいよ、いま、お茶っ葉入れ替えるから」
ホコホコとお茶をすすり終えた頃、静かに店のドアを開けて、少女が入ってきた。
「すみません、まだいいですか?」
「はい、いらっしゃい」
その少女は、この薄ら寒いのに、神楽坂学院のジャージにマフラーをしただけの姿で立っていた。
「あのう……学校の制服、まだ置いてらっしゃいますか?」
「ええ、あるわよ。まあ、こっちおいでなさいな、冷えるでしょ。お母さん、お客さんにお茶お願い!」
「インスタントだけどココアでも入れたげようね……」
「どうも、すみません」
「スカーフか何かかな、明日卒業式でしょ?」
「一式欲しいんです」
「え、上から下まで?」
「ええ、今日自転車で転んでしまって、あちこち破けてしまって」
「縫って直せないの、明日一日のことでしょ?」
「最後だから、きちんとして卒業したいんです……お願いします」
少女は、自分の言葉に照れて、ペコンと頭を下げた。
「すみません、へんなこだわりで……」
「いいわ、お父さん、一着残ってたわよね?」
「ああ、ちょっと待ってくれ……」
「もう処分品みたいなものだから、原価でいいわ」
「ありがとうございます……あちち」
少女は、慈しむようにココアを飲んだが、少し熱かったようだ。
「まあ、ピッタリね。九号サイズだから、どうかと思ったんだけど」
「わたしって小柄ですから」
はにかむ少女に美優はえも言えぬ親近感を感じた。
「サービスで、名前の刺繍させてもらうわ。苗字は?」
「あの……嘘みたいですけど、神楽坂です」
おずおずと、少女は生徒証を見せた。確かに名前は「神楽坂幸子」となっていた。
「こりゃ、目出てえや。気持ち籠めてやらせてもらうからね」
オヤジは、嬉しそうにミシンに向かった。
「幸子ちゃんて、なんだか、とても懐かしい感じの子ね」
「そう言われると嬉しいです。わたしって、よくタイプが古いって言われるんです。消極的で……あだ名は昭和っていうんです」
「ウフ……ごめんなさい。わたし好きよそういうの」
「どうもです」
「最後の制服の学年だけど、なにか特別なことやるの?」
「いいえ、いつも通り。正式には卒業証書授与式っていうんですけど、わたしは、卒業式って呼んで欲しいんです」
「そうだよな、世の中、名前ばっか変えちまってよ。先だって、病院で看護婦さんて呼んだら『看護師』ですって叱られちまったよ」
ミシンを踏みながら、オヤジがぼやく。
「わたし、卒業式の歌も、へんな流行歌じゃなくて、ちゃんと仰げば尊しと蛍の光で……ヘヘ、なんて言うから、昭和って言われるんですよね」
「いいや、そりゃ大事なことだよ。さっちゃん、なかなか良いこと言うね。だいたい今時の……」
「はいはい。お父さんが演説したら、さっちゃん帰れなくなっちゃうわ」
「はは、それもそうだ……ほい、できあがり。立派な神楽坂だ!」
「ありがとうございました。はい、お代です」
「ちょうどいただきます……さっちゃん、手が荒れてるわね」
「あ……肌荒れがきついんです、わたし」
「ちょっと待ってて……はい、スキンクリーム。即効性があるから、明日は、これを塗っていけばいいわ」
「ありがとうございます……え、丸ごと頂いていいんですか」
「いい、卒業式をね!」
「はい!」
少女は、スキップするようにドアまで行くと、振り返り、丁寧なお辞儀をして行ってしまった。
テーラーSAKURAの親子は、ホッコリした気持ちで、神楽坂学院ご指定の店の役割を終えた。
その夜の遅くのことだった、救急車のサイレンの音で美優は目を覚ました。父と母が、あとに続いた。
「だれか、具合が悪いんですか?」
「篠崎屋のゲンさんが、心臓発作だってさ」
向かいの洋菓子屋のオジサンが応えた。
美優はツッカケのまま駆けた。
美優が駆けつけたとき、篠崎屋のゲンさんはストレッチャーごと救急車に載せられるところだった。
救急車のドアが閉められる寸前、ちらりと神楽坂の制服を着た人影が車内に見えた。
あの子……。
同業のよしみで、明くる日、美優は病院にお見舞いに行った。病院は、子どもの頃からの馴染みのK病院だった。幼い頃、篠崎屋の信ちゃんといっしょにインフルエンザの注射をしにきたことがある。日頃は強がってばかりの信一が、猿のように嫌がって泣き叫んだことなどを思い出した。
総合の待合いに、篠崎屋のオバサンがうなだれて座っていた。
「オバサン、大丈夫?」
「ああ、美優ちゃん……」
「オジサンの具合は?」
「うん。今夜が勝負だって……」
「病室は?」
「今は、あの子が見てくれているの」
「あの子?」
「ほら、マネキンの幸子……え……いま、あたし、なんて言った?」
「マネキンの……幸子って……」
「そんな、ばかな……?」
そのときナースのオネエサンが、足早にやってきた。
「篠崎さん、大丈夫、いま峠をこえましたよ!」
二人は、危うく走りたいのをこらえて、病室へ向かった。
「……あんた、大丈夫?」
「おじさん」
ゲンのおじさんがゆっくり顔を向けて、笑顔で言った。
「信一のヤローが、まだ来ちゃいけねえって……で、幸子が代わりによ……幸子、幸子……」
おじさんが目で探ったそこには、神楽坂の制服が、こなごなになった何かのカケラにまみれて落ちていた。それが、マネキンの幸子であるということに気づくのに数秒かかった。
幸子は、篠崎屋が開業以来使っている、神楽坂学院専用の制服マネキン。お下げに、はにかんだような笑顔が可愛く、子どもの頃に信一と遊びにいくと、いつもこのマネキンと目があった。
「この子なんて名前?」
「……幸子だ」
オヤジさんが答えたのを思い出した。最後の制服は神楽坂学院に記念に寄付し、幸子はジャージを着せていたとオバサンが教えてくれた。篠崎屋と神楽坂学院の歴史をみんな知っている。
カケラの中に、夕べ、幸子にやったスキンクリームの小瓶が混じって、朝日に輝いていた……。