堕天使マヤ 第一章・遍歴・11
《試行錯誤⑧エクボの証人・1》
梅雨晴れの日差しから外れるように、その二人は佇んでいた。
昼間の住宅街だったので、最初は保険会社の営業の子たちかと思った。
でも。近づくと、一人の子のため息で分かった。
――この子たち、エクボの証人なんだ――
もう何軒も門前払いを食ったようで、その子は少し凹んでいた。だが、もう一人はベテランのようで、まだまだ意気軒昂だ。
エクボの証人、ホルモン教、統合協会はキリスト教社会では三大異端で、天使ならば、この子たちを目覚めさせ改宗させなければならない。
だが、マヤはそういう気にはなれなかった。
――今日は、一軒も話をさせてもらえていないんだ――
かわいそうという気持ちが先に出てしまう。
電柱一本分先に売り家になっている戸建があった。
マヤは、雨沁みのついた「好評発売中」の看板を消して、適当に佐藤という表札をかけて、中で待ち受けた。
やがて、門柱に付けたインタホンが鳴った。
ほんとうはリビングで、ゆっくり話してやりたかったけど、彼女たちが玄関から上には上がらないことが分かっていたので、玄関での話になった。
「唐突ですが、あなたは、いま幸せですか?」
不慣れな口調で、その子は切り出した。
「いや、単刀直入に宗教の話をしましょう」
四十代の主婦に擬態したマヤは予定通りの第一声を発した。
「聖書を読まれたことがありますか?」
ベテランが続けたところから、マヤの口は勝手に喋りだした。
「ちょっと数学的にアプローチしていいかしら。この障子の桟をX軸とY軸にします。X=1、Y=1の点は、ここになりますね?」
マヤは、桟一つ分いったところを指さした。二人は頷いた。
「あなたたちの嫌いな言葉で言えば、あなたたちは偶像を認めたことになりますけど、それはしばらく置きますね」
偶像という言葉に、二人は微かに反応した。
「点というのは、面積も体積もありません。だから、ここに点を書いてしまったら、もう嘘になります。真実のX=1、Y=1は三人の心の中に真実として存在します。神や仏も同じです、心でしか感じられません」
「そうですね」
「100-100はゼロです。ゼロとは、なにも存在しないことです。でもお互い理解できます。ね?」
「ええ」
「ゼロは数学的には万能です。どんな大きな数字を掛けても、答えはゼロです。ちょっと神さま仏様の全能に近いニュアンスですね」
「ええ、分かりやすい例えですね」
「良かった、宗教観が一致しましたね」
「あなた方エクボを始め、キリスト教には最後の審判があります。それにいたるアルマゲドンが1914年から始まっているのも、横においておきましょう。あなたがたとわたしの共通点は、人間は死んだらゼロになる……ここまで、いいかしら?」
「ええ」
「神や仏と言われるものを、共通言語として絶対者と呼びましょう。わたしの絶対者は、このゼロを極楽と言いました。ゼロに何を掛けてもゼロになるように、人間は死ねばゼロ。もう決まったことなんです。今日の次には明日が必ず来るように……だから、その極楽に往生できることをひたすら感謝すれば、それでいいと思います。ただ、これはわたしの宗教観です。強制するつもりはありません。もっとお話ししたいんですけど、あなたたちも数をこなさなければなりませんね。続きを話してもいいと思われるなら、どうぞいつでもおこしください」
「もう少し、お話ししても……」
「ホホ、でも、そちらのオネエサン、足が外の方に向いていらっしゃる。その気になったらでいいの、またおこしなさいな」
二人が帰ってから、マヤは不思議でならなかった。聖書や三位一体のことをキリスト者として話したかったのに、まるで違うことを話してしまった。
「ま、いいか。八割がた共通理解が得られたわ」
そう独り言を言い、あのルーキーの再訪を確信するマヤであった。