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大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・33『東京家族』

2016-09-13 06:02:00 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評
『東京家族』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 これは、悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に流している映画評ですが、もったいないので、本人の了解を得て転載したものです。


 今年は小津安二郎生誕110周年、「東京物語」が60周年(私と同い年…どうでもよろし)
 
 山田洋次がこれをリメイクすると発表したのは2009年か10年だったと思う。11年4月クランクインを目指していたが、3月11日東日本大震災で製作が延期、台本も書き直された。奇しくも12年8月、英国映画協会が10年ごとに“世界映画50選”を発表する中で、 「東京物語」が1位を獲得した。
 小津安二郎、東京物語、現代の巨匠・山田洋次と揃えば こりゃあ誰も抗えない。パンフレットも立派なら、その内容は讃辞に満ちている。映画関係者で意義を唱える人は皆無だろう。
 映画館は60~70代の観客で7割の入り、一番大きな部屋で八尾の小屋という条件からすれば上々のスタートだろう。
 今後の口コミ次第だが、若年層に訴求する所までは行かないだろう。 映画は「東京物語」のリメイクというよりも、その骨格をトレースしながら、戦後の日本の家族を描いた小津作品に対して、3・11以後の日本の家族を描こうとしている。山田洋次らしい秀作と言えるが、万雷の拍手……と言えるのか?
 まず、ハッキリと断言するが台本が不出来だ、意あって届かず……空回りしている。
 妻夫木と蒼井以外(正蔵は埒外)の役者はほぼ全員「東京物語」を意識しすぎて極めて退屈な演技、特に中嶋朋子は考え過ぎて迷路にはまったんじゃないかとさえ思える。
 妻夫木、蒼井は その点捕らわれる事なく自然な演技で好感できる。この二人と早くから接点のある 母役・吉行和子がまず目覚め、次いで橋爪功が浮上してくる。空回りで退屈な前半と打って変わって、後半は人物に血が通い始める。
 台本からすれば「世紀の大凡作」で終わるはずの作品が 一番若い二人によって救われたと言える。  
 小津の「東京物語」においても、父・笠智衆と 戦死した次男の妻・原節子のエピソードが最重要ポイントであり、ここを生かすための前半であるともいえる。
 そう! あまりにも皆が絶賛するので誰も口に出来ないが「東京物語」だって前半は退屈なのだ。東京での生活に汲々としている長男、長女に自らを見いだしながらも 彼らには共感したくないという心理が働くのかもしれない。
 私見を言わせて貰うならば、「東京物語」は戦後の日本だからこそ意味を持った、「東京家族」はそれを3・11以後の日本に重ねたが そこに錯覚があった。恐らく山田洋次は東北を丹念に見て回った事であろう、直に接する悲惨は彼の中に大きな傷をつけたであろう事は間違いない。
 あえて こんな言い方をすれば「お前は日本人じゃない」としかられそうだが……第二次大戦は日本人全てに拭えぬ傷を負わせた。それからすれば、あの超規模の大震災であろうとも一地方の災害に過ぎない。そんな感覚であってはいけないのは明白……なら、それを喚起するための作品はもっと別な姿を取るだろう。少なくとも本作にその力は無い。監督の想いは空回りしているとしか言えない。
 実は、もっと非道い感想を持っているが、これは書かんときます、自分でもそこまでの悪意は口にしたくありません。
 あえて、ここまで3・11に踏み込まなければ、もっと評価できたかもしれないが、それにしても小津安二郎に対するリスペクトと同量以上の山田洋次オリジナルが提示されなければ、今度は「単なるコピー」と評価しただろう。
 もう一つ、私見を言うならば……小津安二郎はヨーロッパでまず認められ、日本人の彼に対する評価はそれに引きずられている。 小津タッチといわれる独特の技法・語り口は見事ではあるが、映画のエンタメ性を否定した所に立脚している。趣味の問題もあるのだが、そうまでして求められる「リアル」を積極的に認める気にはならない。
 何度も書いているが、私は「私小説」なるものが あまり好きではない。人生のすれ違い、残酷、悲惨、愚かしさ…全部 自前か周囲にあるものでたりている、読みたければドキュメンタリーを読む。映画についても同じように言える。元々こういった作品に興味が無いとだけはおことわりしておきます。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・32『ゲキ×シネ髑髏城の七人/ルーパー』

2016-09-12 06:36:30 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評
『ゲキ×シネ髑髏城の七人/ルーパー』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 この映画評は、我が悪友の映画評論家、滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので。本人の了解を得て転載したものです


☆髑髏城の七人 

 ゲキ×シネ、訂正!
 学生・身障者のみ1000円、一般2200円(それでも300円安くなりました)でした。その他の割引は無しです。ごめんなさい。

 今回のドクロは“ワカドクロ”を名乗って、その名の通り ドド~ンと若返りました。初演から97年版の『得体の知れない熱気』が戻って来ました。
 メインキャラの捨之介/天魔王は従来一人二役(古田新太が出とちりしたため、懲罰的配役で始まったが、これが見所になってました)が、今回 小栗旬・捨之介/森山未來・天魔王に別れた。この線に沿って、メインストーリーは残しつつ脚本を大幅に書き直した。作者・中島/演出・いのうえ 共に大興奮しているのが伝わって来る。
 役者達は終始 苦しみ悩んで演じたようだが、その試行錯誤は大正解だった。
 まず、早乙女太一が相変わらず汗一つかかず高速殺陣を見せると共に凄みを見せつける。何なんだ この貫禄は…恐れ入りました。
 勝地涼も橋本淳の嵌り役“抜かずの兵庫”を大熱演公演中もムードメーカーだったようで、そんな所まで橋じゅんの役割を担ったらしい。
 小池栄子の“極楽太夫”にも新設定…これが泣かせる、この設定 面白いんだけど 今までには入り込む隙間が無かった。
 仲里依紗はもっとあばれるかと思ったが、それほどでも無かった。あまり乗っていなかったように見受けられる。
 全体のイメージとして、髑髏城の持つ熱気が戻っており、古田新太/橋本淳の大御所がいない分、ギャグの量が減って、その分 感動作になっている。特に後半、劇場中がグスグスいっている。泣かせる演出がことさらにある訳ではないが、勢いで感動に飲み込んで行く。生え抜きの劇団員の肩の力の抜けたサポートが抜群で、若い客演陣の熱演を支えている。
 劇団員の中では高田聖子が アッと驚く役どころ……するってぇとクライマックスの百人斬りで……と思っていたら、そこはサラッと身をかわしてましたけどね。
久し振りにリピートしたい舞台です(今更〓) 絶対毎日どこかしら大きく変化が有った筈で、リピーターの楽しみ満載間違い無しです。実は、古田新太/橋本淳のいない髑髏城ってどないよってんで 舞台は見てないんですよね…いやぁ、惜しい事しました。

☆ROOPER
 
 なぁ~~んも 考えんと見る分には、役者は揃っている(E・ブラント最高!)し、雰囲気もあって面白い映画ではあります。……しっかぁ~~し、アカン!こんな設定認められまへん。
 ご存知でしょうが「時間テーマSF」です。基本的にターミネーターと同じなんですが……時間旅行が可能な未来、一般には禁じられており 犯罪組織のみが ある目的の為に時間旅行を利用している。まず、その利用目的が?????…何をいうとるやら、説得力無し。
 30年過去に殺し屋が待ち構えており、送られてきた人間を即座に殺して処分する。この殺し屋、30年後には自らも過去に送られ処刑される決まりになっており…つまり、過去の自分が未来の自分を処刑しなければならない。B・ウイルスはこの決まりを作ったボスを殺す為に確信犯として過去に戻る……ここまで書いただけで、SFファンなら「そらぁ アカンがね」とお気づきの筈、タイムパラドックスの法則から そんな事は絶対出来ない。
 ターミネーターは同じ設定ながらシリーズ5作を持ってしても結論を出さない事によってギリギリリアルを保っているが、本作には ハッキリした結末が付けてある……この結末も有り得ない。 リアルを保つ為、アクシデントがあると ブルースの記憶が曖昧になる(バック・トゥ・ザ・フューチャーで写真の人物が薄くなって行くのと同じと思えば良い)なんてな仕掛けが有ったりするが、彼は あるものを見る事によって克服する(あり得ない)。 まぁ、役者が巧いのと ストーリーテリングがテンポ良く運ぶので見続けさせられる。
 私も あり得る設定をあれこれ考えながら見続けていましたが…あっきまへん、J・G・レヴィッツ(30年前のブルース)のラストの選択で総てがオシャカ! これが通るのは“ディアボリス”(キアヌとパチーノの「悪魔物語」)みたいな作品で、しかも この選択が有効なのは未来においてに限られる。
 SFファン以外にはチンプンカンプンかも……ですが もう少しお付き合いを、過去の改変で 同一時間軸上の未来を変える事は出来ません(これを言っちゃうとお仕舞いですけどね)。
 それは事象が変化したのではなく、 無数に有る「在りうる別な時間軸上の未来」に移るだけなので なんの解決にも成らない。結局 「なぁんでぇ」っちゅうのが結論です。この映画を楽しみたければ 一切の理屈に蓋をして、映っているママを受け入れる以外無し。 SFファンとしては辛い選択になってしまいます。

 怒り狂うか ニッコリほくそ笑むかは、見る方にお任せいたします。私は…?

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・31『96時間/リベンジ』

2016-09-11 06:15:17 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評
『96時間/リベンジ』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 この映画評は、悪友の映画評論家、滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので、本人の了解を得て転載したものです。


 本年一発目は3本です。大事を取って2日に分けました。

 まずは、リーアム・ニーソンの最強(凶)おとんがイスタンブールで暴れまわる“96時間~リベンジ”前回、誘拐されて泣いているしかなかった娘のキムが大活躍! 面白かったし、今作だけでも楽しめるけど…やっぱり事前に前作チェックは必須です。
 邦題の付け方の弱点がモロに出ておりまして、原題“taken”誘拐ってぇ意味ですが、前作ではパリで娘が誘拐され、身の代金目当てでなければ(人身売買)96時間以内に見つけないとトレース不能になるってところで邦題にも意味があったが、今回はタイムリミットにあまり意味無し。さりとて今更「taken2」には戻せない。まぁどうでもよろしいけどね。
 オヤジのアクションが、前作では最上級応用編だったのが、今回は娘共々の戦いとあって全くの基本編。しかし、情報工作現場で実際に使われるテクニックとあって、興味のある向きにはぞくぞくのお楽しみ。前作ご覧の方々には100%オススメの一本です……って事で、以下 妄想的ウダウダです。
 リーマンショックでガタガタに成ったアメリカ……公開される映画が大作である程、資金ショートして中途半端な作品に堕していった。以降作られた作品も「アメリカは悪魔に取り付かれた」だの「何をどうしても無駄だぁ」っつう映画が多数。ゾンビやヴァンパイヤの大流行はその証拠だと言われたりします。  
 70年代のように「なんとなく左寄り社会」でもないので、ニューシネマ的な物は出て来ない。一部にラディカル左翼が語り口を甘装った映画を作るが、大衆からは相手にされない。 「ノーカントリー」では、アメリカは生活不適応な国として描かれ、バットマンですら闇に消えた。ハビエル・バルデムの“牛の器具を使う殺し屋”やヒース・レッジャーの“ジョーカー”はアメリカを襲う悪魔~アメリカに向けられる悪意(端的にはイスラム原理主義)の仮託であり、それに対してアメリカは無力なんだ…といった気分が横溢していた。

 しかぁし!

 こんな気分のまま いつまでもいられないのがアメリカ人気質、誰もが この閉塞感の破れる日を待ちわびていた。にも関わらず、誰一人そんなものを作れる者は居なかった。007が50周年目指して再起動し始めてはいたがアメリカの復活が「いつ、如何にして、どの程度…」に対する答えが無かったので“カジノ・ロワイヤル”一作をもってリブートとは成らなかった。 続く“慰めの報酬”でリブート終了かと思いきや、結局リブートは今回の“スカイフォール”を持って3部作となったのはご存知の通り。いずれにせよ007はイギリスの話であり、直接アメリカの映画都合には入らない。
 そんな時、いち早く「強いアメリカ、不屈のアメリカ人……しかも、オ・ヤ・ジ!!」を余す所なく描いて見せたのが、誰あろうフランス人のリュック・ベッソンだったってのが、皮肉であります。何の事ぁない、アメリカだって外圧が無ければ身動き取れなかったってのが 痛快なような情けないような……。  
 前作“96時間”は、そんなエポックメーキング…というよりは、もっと大きな意味を持ってスクリーンに登場したのであり、この規模の作品としては 有り得ないメガヒットとなった。どれだけアメリカ人がこのような映画を待ちわびていたかの証拠であった。
 以降、アメリカは威信を取り戻したとばかりに大作企画が次々に復活した。……とは言え、まだまだ気分的な範囲に止まっているのが現実(こういうタイミングでは共和党政権である事が必須) だから ついでに左翼までが勢いづいてしまっている。アメリカのリベラルなんてな“羊の皮を被った狼”……今回の選挙で共和党が勝っていれば(日本にとっては共和党の方がやりやすいってのもあって)と、今更ながらに残念に思うが あれだけ失政続きのオバマすら倒せないんじゃどうしようもない。
 映画世界でも、殊にドキュメンタリーや短編に左翼の台頭が激しく、未だに「地球温暖化」だの「犯罪者の権利」だのと言っている。始末の悪い事に、まだまだ騙されたままの人々が世界中に多数いて、これらの作品はミスリードを続けている。
 そこで、今回の第二作にこの状況を打ち破る起爆剤になって…なんぞと思っている訳ではない。前作はたまたま前述のようなポジションにはまってしまっただけであって、R・ベッソンにしてもそこまでの覚悟があった訳ではあるまい。
 ただ、彼がどう考えようとも前作にはそれだけの突破力と影響力があった訳で、それからすると本第二作は単なるアクション続編に成ってしまっていると言わざる得ない。もとより脚本・企画(ベッソン)の責任でも、作品の責任でもない。アクション作品としては一級品であり、アメリカでも既にメガヒットをもって受け入れられている。しかも本作は大人が見に来る作品である所から、後日 全く違った意味でのエポックになるのかもしれない。

 以上、多分に舌ったらずのウダウダでした。今年はこの観点から、まず アカデミー賞を再確認してみます。今年は“ユダヤ寄り”復活の予定の年であり、それが果たせないとなると、アカデミー協会への左翼浸透の傾向もあって、そのせめぎ合いが表面化するかもしれません。ノミネートが噂される作品名からも混乱が予想されるので…さて、如何 相成り増すやら。
 しからば、明日『ゲキ×シネ 髑髏城の七人』『ルーパー』にて、ご機嫌お伺い申し上げます。

 情報: ゲキ×シネが一般映画と同じ価格になってました。各種割引も適用されています。但し、劇団・新感線作品に限ってだと思います。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・30『今年を振り返って 2012』

2016-09-10 06:35:46 | 映画評
ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・30『今年を振り返って 2012』

 タキさんの押しつけ映画評・30・一年間、悪友の滝川浩一の映画評を掲載してきましたが、今回は締めくくりがきましたので転載しました。

この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 これは、友人の映画評論家滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので本人の了解を得て転載したものです。



  ウダウダの「押し付け映画評」にお付き合いいただきありがとうございました。 本年は先日の「レ・ミゼラブル」で終了いたしました。今週末の「ブレイキング・ドーン」はめでたく回避、編集からは「今年は散々サボったくせに、最期の依頼を蹴るんかい!」と大顰蹙でありますが、知ったこっちゃありゃぁせん ハハ
 
 ラストが大感動ミュージカル、ええ雰囲気で終わりよければ全て良し!であります。  
 本年の収穫は「J・エドガー」「ものすごくうるさくて~」「マーガレット・サッチャー」「バットマン/darkknight」「ミッドナイト イン パリ」「007/スカイフォール」「レ・ミゼラブル」、邦画では「のぼうの城」「外事警察」がダントツでした。 
 最低じゃ~あ~りませんか「マイウエイ」(笑)「バトル・シップ」「スノーホワイト」、邦画の大爆笑「愛と誠」、 大激怒「ヘルター・スケルター」、 どうでもええのが「スペック」、
 大失望「天地明察」、 こんなもんやろ「悪の教典」 舐めとんかい「踊る~4」…この上「5」なんか作ったらCX爆破します。
 邦高洋低(あくまでも売り上げだけの結果)の一年でしたが 「銭返さんかい!」と怒鳴りたくなる作品も仰山有ったのは邦画の方。 他にも「ダークシャドウ」「アベンジャーズ」なんてな面白おかしい映画がありました。皆さんの感想はいかがなもんだったでしょうか?
 売り上げだけから行くと、只今公開中「ワンピース/Z」 一体どこまで伸びるんでしょうねぇ。「ヱヴァンゲリヲン」がスッゲェなぁと思っていたら、あっさりワンピが抜きさりましたなぁ…げに恐ろしきはワンピの破壊力であります。 年が明けて暫くするまでランキングが判らなくなります。「ホビット」の成績が気になります。
 年明けは、12日から「96時間/リベンジ、ルーパー、それと新感線 ゲキ×シネ「髑髏城の七人」でお目にかかります。また一年間 ウダウダにお付き合い下さいませ。中で
 も 一部 「読書評」にもお付き合い願っている皆様には、二重三重の苦行かとはおもいますが…笑って許して(微笑) では皆様、良い年をお迎え下さいませ。
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高校ライトノベル・学校時代・15『ごめんね……美優』

2016-09-09 09:47:56 | 小説3
学校時代 15『ごめんね……美優』

 ☆ 今回は小説です


 この春も定員を割っていたので覚悟はしていた。

 でも、現実に廃校が決定してしまうと凹んでしまう。
 そのせいじゃないだろうけど、補導委員会は、どこか力が抜けていたような気がする。
 終わったのが六時半を超えていたこともあり「電話でもええんちゃいますか」と生指部長は言ってくれた。

 でも、あたしはMの家に家庭訪問に行ってきた。生活指導上の家庭訪問は時間を置いてはいけないのがセオリーだ。

「きびしい懲戒になるでしょうけど、退学にはなりませんから」
 いろいろ話したけど、M本人も保護者も安心したことは確かだ。なんといっても三回目の喫煙、それも三回目の今日は、逃げる途中でOLに衝突して怪我をさせている。私学なら立派な退学の理由になる。それにMの兄時に懲戒を巡ってこじれたことがあるので、一晩置いておくわけにはいかない。ちょっとしたことが疑心暗鬼になり、場合によっては弁護士が乗り出してくることもあるのだ。
 
 さすがに疲れて、阪急電車が淀川を渡るころには舟をこいでしまった。

 カタンカタン、カタンカタン、カタンカタン、カタンカタン、カタンカタン、カタンカタン……。

 鉄橋を渡る音が小気味よくて、いっそうの睡魔が襲ってくる。
 膝の上……というよりは胸に抱きかかえていたバッグの中でスマホが振動した。

 あ……Mから? え……美優?

 スマホは、妹の美優からメールが入っていることを示していた。

――お姉ちゃん、今から会えないかなあ、話があるんだ――

 Mと同い年の妹はこらえ性が無い。思いついたら自分の都合であれこれ言ってくる。
 美優の年齢やここしばらくの状況を考えれば話し相手になってやらなきゃならないんだけど……さすがに今夜は辛い。

――明日の午後、年休とっていくから――

 鉄橋を渡り切るころには返事を打ち終えて、自分ちの最寄りの茨木駅に着くまで眠ることにした。

 あくる日は母の電話で起こされた。
「もしもし、お母さん?」
 疲れが取れていないので、我ながら声に棘がある。
「……ついさっき、美優が息を引き取ったの」
「え…………………」

 暗い後悔がみるみる胸を満たしていった。

 ごめんね……美優。
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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・29『レ・ミゼラブル』

2016-09-09 06:02:26 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・29
『レ・ミゼラブル』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 これは、友人の映画評論家滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので本人の了解を得て転載したものです。


 ヒュー・ジャックマンとラッセル・クロウそしてアン・ハサウェイに神の祝福あれ。

 素晴らしい映画でした。まだ感動が身体の中に収まりきらない。とはいえ、万人にお勧めはしない。まず、キャラクターがいきなり歌いだす形式が苦手な人には苦痛だろう。冒頭から全体の1/3位までは ものすごいダイジェスト感がつきまとう、舞台だと(東宝舞台)同じ事をしていても そうは思わないが映画だとその様に感じる。一人一人がクローズアップされるので 作品世界に入り切る前だと表情のみに気を取られるからだろう、その意味、舞台のほうがスケール感があり、冒頭から観客を飲み込んで行く。
 この部分を乗り切って、1832年 革命前夜のパリに行きつければ、後には間違いなく感動が待っているのですがね。

 ユゴーの原作を読んでいる方には説明不要、舞台をご覧になった方も同じく。本作で初めて“レ・ミゼラブル”に触れられる方へ……当時のフランスの歴史など全く知らなくとも構いません。原作は間違いなく、そのフランスの歴史に根ざした物語ではありますが、その中心にあるのは人間の魂の尊厳・救済・浄化です。
 アニメ「フランダースの犬」のラストに涙する感性さえあれば無問題です。
“ミッズ”のストーリーを尚更に語るのはやめます、あまりにも無粋ですから。舞台に比べて映画の方が感動的に見える部分があります。それは先述とは逆に、キャラクターのアップによってもたらされる物です。 ジャン・バルジャンを執拗に追うジャベール警部の内実が 彼が選ぶ自己の身の処し方と共に分かりにくいのが舞台の弱点でもあるのですが、本作では一点の誤解も無く伝わってきます。それどころか、ユゴーの思惑さえ超えて ジャベール自身の浄化にも思い至ります。
 この映画で一番泣かされるポイント…3ヶ所(?)…コゼットの可憐、、、ブ~~!!ち~がいま~す。エポニーヌ(コゼットが預けられていた宿屋の娘)のマリウスに向けられる純愛、それはもう一切、混じりっけのない、正真正銘、天下無敵の純愛。神は時にとてつもない喜劇を演出され そしていきなり幕切れを見せ賜う…… 第二、革命の前章なる学生達の純粋、あまりにも無計画、無鉄砲、状況判断の甘さ……市民に見捨てられ、遺骸をさらすのだが……志しはあまりにも気高く、またあまりにも愚かしく、当然にして滅ぶ。その潔い馬鹿さ加減が美しい。そして最後は、全て受け入れられ、明らかになり愛する者の幸せを確信して旅立つジャン・バルジャンの笑顔、ファンテーヌが感謝と共に迎えにやって来る。 ジャベールの最期に涙を捧げてはならない、それが彼に対する礼儀。

 そろそろ引け時、書きたい事は10倍あるけどキリがない。後は映画館で堪能して下さい。パンフレットは購入必須、見事な解説が載っています。 来年、新演出の舞台があります。これは必見! 大阪は9月からフェスティバルホール…う~ん、新しくなったフェスティバルも魅力的だが 待ち切れそうにないので5月からの帝劇に行きてぇ!

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・28『ホビット・1/ワンピース・Z』

2016-09-08 05:57:48 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・28
『ホビット・1/ワンピース・Z』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 これは悪友の映画評論家・滝川浩一クンが個人的に流している映画評ですが、もったいないので本人の了解を得て転載したものです。


 今、最悪の気分! 

 八尾のアリオにいるんですけどね……朝の8時半から……即、4階に上がったけど、ワンピース1回目9:00が既に売り切れ、券売カウンター長蛇の列、ホビット10:40を買って、ワンピースは14:25から(連絡は良し)。
 パンフレット買うつもりがショップがまた長蛇!パンフレットを入手した頃にはワンピ本日6回上映の半分売り切れ!!!! 10時に全館オープン、1階下にディスクを買いに行くとHMV 本日ベッキーが来るとかで、彼女のCDを持った奴らでキャッシャーまたもや長蛇……しゃあないねん……しゃあないねん……もう爆発寸前。
 上に上がると、ワンピ本日ラスト回 残席75……ほんまに予想はしてましたけどね。
 やっぱりすげぇでんなぁ ワンピース。おかげさまでタバコを吸うタイミングがほとんど無し。今 数少ない喫煙コーナーのある茶店で煙突5本立てて、ま……なんとか大魔神に成らずに済んだが、ちっけぇ子供連れてタバコの煙が充満しているコーナーに来るなよ!このっ バカ親共!!
 またそのガキ共がギャーギャー……と、うっ……へっ変身しそうだ。

☆ホビット1

 で、ホビット 1 です。 こらぁ しゃあないよなぁ、小屋 ガラガラですわ。そらぁ、ワンピと当たったら砕け散るのは決まってる。しかも配給元が全く宣伝していない。配給元が端から負け犬根性でどないすんのよ。

 さぁて、映画の出来ですが、ようまぁ こんだけてんこ盛りサービス満点な映画を作ったなぁと感心しきり。初め、二部構成になるといわれていたが、これが「指輪~」と同じく三部作になった。確かにエピソードは3本分有りますけれど、原作の厚みは二本が良いところ……どないするのやろと思っていたら、やっぱりねぇ~ 「指輪~」第三部の後に「追補」が大量に付いているのですが、そこから「ホビット」の時期に当てはまる物を総動員、それにとどまらず、今まで読んだ事のない設定(忘れているのかもしれないが)が盛り込まれている。
 トールキンの指輪関連原稿の内、未邦訳(英語圏には全10巻の研究本が有る)のものが相当あるが、あるいはそこにヒントが有るのかもしれない。
 出版されている「ホビットの冒険」との差は、“森の守護者・ラダガスト”の存在(ガンダルフと同じく魔法使い)がある。「指輪~」でカットされた“森の守護者・トム”に当たるのかもしれない。魔法使い達の「白の会議」のシーンもあるし、「裂け谷」のエルフの館でガンダルフとガラドリエルの会話も映されている。 鷲のエピソードが軽く流されているが、その分、ゴブリンとの戦いが詳細に描かれている。また、原作では軽く触れている(追補だったかな)だけの「モリヤの攻防戦」にも時間が裂かれている。 兎に角、見せ場に次ぐ見せ場の連続、それが上映170分 終わってみると物語の1/3位の所で終わっている。
 ちょっとしたジェットコースタームービーですが登場人物一人一人の描き分けにも神経が行き届いている。さすがに「指輪物語オタク」のピーター・ジャクソンの面目躍如、痒い所に手が届いている。
 殊に、主たる三人 ビルボとガンダルフ、そしてドワーフのトーリンの描写が素晴らしい。トーリンが「オーケンシールド」と呼ばれる理由も明かされる。原作では 自分勝手なイメージの強いトーリンであるが、映画では誇り高く かつ 謙虚な人柄に描かれており、これは続く二作に決定的な意味を持つと思われる。
 指輪フリークの私としては大満足なんですけど……あまりにも露出が少ないので、フリークス以外にどれだけアピールされているのか、チョイと心配であります。初日一回目の観客がこの入りと……。

☆ワンピースZ
 
 で 超満員の「ワンピース/ Z」 です。

 ハッキリ言わして貰って不満です。「ストロング・ワールド」を基準にすると、満足度60%って所ですかねぇ。脚本の鈴木おさむが原作との連動にこだわり過ぎたのが主因か?
 とはいえ、これは趣味の違いとも考えられるのだが、今回の敵役が ガープ・センゴク・おつるさんなんかと同期の元海軍大将で、青雉・黄猿・赤犬の師匠に当たるので、マリンフォード頂上戦争後の三大将の勢力争いに関わらすにはいられない。これは、どちらかといえば原作・テレビで扱うべき題材ではないかと思う。映画の結末(なんぼなんでもこれはバラせない)からすると、後々の原作ストーリーに影響がでる。
 もっとフリーな設定にしておいたほうが良かったと思うのだが、ワンピフリークの皆さんはどう思われただろうか。作画・動画に破綻はない、サイド設定も面白いのだが、メイン設定のかつてゼファーと呼ばれた英雄と海軍との関わりがあまりにもハイスピードで語られる。かつての「海賊王白ひげ」と比肩されうるキャラクターなだけに、う~~ん、もったいないんじゃないですかねぇ。 だから、ルフィー以下麦わらの一味の存在感もいまいち薄く感じられる。
 だからだから(?)感動が薄い……俺が贅沢言ってるのかなぁ、とにかく「嗚呼!勿体ない」ってのが正直な感想でありまんにゃわ。
 周り殆ど中坊で 若干ざわついていたのにイラついていたし、予定していた時間に見られなかったり……今日はイライラしっぱなし、しかも雨は降ってる 車は来ない……時間を置いたら別な感慨が生まれる…?

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・27『007/スカイフォール』

2016-09-07 06:14:25 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評
『007/スカイフォール』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ

これは、我が悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので、本人の了解を得て転載したものです。今回は、吹き替え版の有りようなどの、タキさんのこだわりに唸らされます。

 只今9:40 八尾MOVIX上映まで1時間有り。このまにチョイと別なお話。
 
  昨日、毎日夕刊にソニーの映画担当重役の、洋画の日本語吹き替え版のウェイトを多くする旨 発言があった。
 洋画の動員の中で、吹き替えを見る人の割合が増えているってのがその根拠。言い訳としては、字幕だと切り捨てられるセリフ内容の全てが伝えられる。字幕を読まなくて良くなるから役者の芝居に集中出来る……と おっしゃる……。
 ハッキリ言わしてもろうて、映画観客動員数減少は業界にとっては大問題です、しかも、世界共通の傾向として観客の質が低下しています。もっとハッキリ言わして貰うなら観客がアホのガキにシフトしていると言う事で、この所映画界はこの層に配慮した作品に重点を置いて来ました。それは構わんのです、阿呆共から巻き上げた金で まともな映画を作り続ければいいんですからね。
 ただ、まともな映画をまともに見られる環境は守って貰いたい。吹き替えを全面的に否定はしない、吹き替えでしか洋画を見られない方々も多数いらっしゃる。問題は製作サイドの姿勢にある。
 ことにソニーは この所 こと信頼という地平線からはほど遠い。ここまでボロクソに言ったついでに吐き出すならば、本業が落ち目に成って 元々の文化に対する理念を見失っている。ソニー/コロンビアの作品で、本作や「ミレニアム・リメイク」といった堂々たる作品はアメリカ人重役の努力の結晶である、日本側高位スタッフは悉く邪魔をしている。本作を3Dで撮るように指示したドアホウがいたらしいが……悲しいかな映画担当日本人重役である。こんな奴がいるから信頼出来ないのだ。
 吹き替えもいいだろう、しかし、それは芝居の構造が二重に成ってしまう危険性と隣り合わせである。芝居とは役者の肉体とその言葉との統一性の上に成り立っている。そこに吹き替えを被せるのは、言うなればミケランジェロの天井画の裸身に布を書き足す行為に他ならない。日本人声優は巧い人が多い、しかしながらオリジナルキャストその人では有り得ない、スーパーから意味が漏れ落ちるというが、映画翻訳者を真剣に養成したのか?今作の戸田奈津子の仕事は素晴らしい、しかし、彼女が今年幾つに成られるか考えた事が有るのか?戸田さんは ある種の映画偏執狂である、このこだわりがある限り、彼女は死ぬまでこの仕事から離れないだろう。後継者は?…残念ながら彼女程の愛をそそぐ人を知らない。
 人材の発掘・育成・スーパーの見せ方にまず努力すべきじゃないのだろうか。

 で、今日の映画です(ここで34時間あいだが空いちゃいました) ダニエル・クレイグになってからの本シリーズは、007連作と言うよりリ-ブート(再起動)ですね。 「バットマン」「スパイダーマン」なんかも一緒です。中でも唸るほど渋いのが本シリーズ、ボンドが00要員に成る所から始まって、彼の過去と現在が絡まりながら、事件よりボンドの「人間」を描く事に重点が置かれている。本作は再起動三部作の最終回になる。それに相応しく、ボンドの人間としての根っこが描かれている。勿論、フレミングの原作には全く無い設定、制作者のただならない決意が伝わって来る。007シリーズは50周年を期して全く新しく産まれ変わる。それに相応しく、設定のすべてが明らかになり、得る物も有り、また失う物も大きい。大方のファンは、戸惑いながらも目が離せない状態で前2作を見たはず、大丈夫…戸惑いはもう終わる。タイトルロールにはっきりと「彼は戻って来る」と記されていた。もう一度、「Dr,NO」から辿るのか、全く新しいストーリーに成るのかは判らない。ダニエル・クレイグのボンドが続く事だけは決まっている。今回の見所は まずハビエル・バルデムの怖さ「ノーカントリー」の悪魔のような殺し屋が金髪に成って帰って来た。ジュディ・デンチ(M)も暴れる。Qが新登場して、もう一人 顔が揃えば懐かしのシリーズフルメンバーやなと思っていたら……お~やぁ そうなっちゃうんですねぇ。ストーリーがズン!と詰まっている、オールドファンほど色々見えるものがある。見なくっちゃいけませんぜ!

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・26『人生の特等席』

2016-09-06 06:00:41 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評
『人生の特等席』
   

この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ

これは、悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので、本人の了解を得て転載したものです


 ワウ!! 後の予定がなければ このまま飲みにいきたいぜい!

 イーストウッドの頑固爺に乾杯! いやいや、82歳にゃ見えまへん。
 兎に角、脚本が素晴らしい、エイミー・アダムス最高! ジャスティン・ティンバーレイク さすが!
 エイミー・アダムスは「魔法にかけられて」なんてなクソ(失礼!)映画が初見だったので すっかり実力を見誤っていた。
 しかし、考えてみたら「魔法~」なんてな作品がまがりながらも一応見られる映画に成っていたのはエイミーの力だったのかも… ストーリーは多少先読みできたり、ご都合主義がみえるが、言うなりゃ これがハリウッド式ハッピーエンドの基本形、これだけ綺麗にはまれば 少々の事は無視してO.K.
 
 監督はロバート・ロレンツ、イーストウッド作品のプロデュースをしてきて今作が初監督、イーストウッドが監督の方が良かったとの評価もあるが賛成しかねる。彼の仕事は見事だ。 妻の墓の前でイーストウッドのだみ声で歌う「YOU ARE MY SUNSHAIN」まさかこの歌に泣かされようとは、「あなたへ」で健さんと大滝秀次が短いセリフのやり取りだけで人生を垣間見せたのと同じく「燻し銀」の演技です。 父と娘の間に有ったわだかまりが徐々に溶けて行く様も美しい。カタルシスが計算されていると言う向きもあるだろうが、それに付き合うのもハリウッド作品の見方ってもんであります。楽しみましょう。


☆滝川浩一
 1953年生まれ、大阪府立山本高校、龍谷大学卒。両親のたっての希望で、イヤイヤながら10年あまりサラリーマンをやるが、その舌先三寸の口と、良く回る頭(実際回転するわけではない)押し出しが強くデカイ顔(AKBのトモチンの倍はある)で、あやうく中間管理職になりかけ退社。 以後子どもの頃から身に付いた勝負師の勘と、料理の腕、映画演劇への造詣の深さから、志忠屋というレストランを経営しながら映画評論を続けている。辛口ではあるが、的確な評論には定評がある。現在門土社の『モンド通信』などに連載を持つ。唯一の欠点は、大橋作品に点が辛いこと。面当てに『志忠屋繁盛記』を不定期連載し、本人の姿だけは、ありのままに描写するも、カエルの面にナントカである。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・25「新ヱヴァンゲリヲン劇場版Q」

2016-09-05 06:23:43 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・25
『新ヱヴァンゲリヲン劇場版Q』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


これは、悪友の映画評論家・滝川浩一が、身内に回している映画評ですが、おもしろく、もったいないので、本人の了承を得て、転載したものです



 まいったなぁ…なんにも書けません…兎に角、見に行って下さい。

 既に見た方と全く興味の無い方々に、以下 解放します。〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 さて、「序」では旧シリーズを引きずっていたのですが、「破」では 未知のメンバーも加わり、どうやら全く違うストーリーに成って行く可能性が有りました。
 本作「Q」において、物語は完全に別物に成りました。しかも、新しく提示される謎、謎、謎、謎、謎、謎………足掛かりは有るものの、一切答えは示されない。ただ、今度こそ最終回(らしいけど……)の「シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版」に 「つづく」とでるだけです。今回ほどシンジに同情した事は有馬線。まるでシンジに対する「サド講座」みたいになっています。
 観客以上に何も知らされない、理解出来ないままに流転していく。前回 助け出した筈のレイは何処に……シンジの前に姿を現すカオルの正体は?……ここはどこ?今日はいつなんだ! 世界は存在しているのか……まさに、地獄で悪夢を見ているかのような扱い……こんなものを中学生が抱えられる訳がない。いつの公開に成るんだか、最終回第四作に早くたどり着いて楽にしてやりたい。心の底からそう思う。 あるいは、エヴァ劇場版第一作(「序」ではなく、テレビシリーズ直後の奴)に繋がるのかもしれないが……もう、それでも構わない。レイとシンジの魂に平安あれかし…本当にそんな気分なのでしよ。疲れた……「巨神兵、東京に現る」…?
 なんのこっちゃと思ったら…なんと「ナウシカ」の大前提、炎の7日間の東京バージョンをミニチュアとCGで作ったショートムービーでありんした。ちょいとゾッとする画面でありましたわい。
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高校ライトノベル・『私家版・父と暮らせば・5』 

2016-09-04 06:44:03 | エッセー
大人ライトノベル
『私家版・父と暮らせば・5』
     


「まず、お墓開きをしていただきまして……」さりげなく三度目の圧力だあった。

「それは、いたしません」さりげなく、受付で三度目目のお断りをした。
 納骨の打ち合わせの段階に、二度「お墓開き」を言われている。京都でも有名な屋内型の墓所で、父が三十年以上前に、分不相応に買ったものである。三十年前に買った墓地に、今さら「墓地開き」もあるまいと二度断った。担当のオネエチャンは、さも自然な流れのように「まず、お墓開き……」ときた。うっかり「うん」というと、これだけで一万円取られる。やることは想像がつく。僧侶が一人十五分ほどのお経を唱えて、それで終わりである。あまり無碍(ムゲ)にもできないと思い、納骨にさいしてのお経だけお願いした。
 で、この坊主は仏教系大学の学生アルバイトである。このことは従兄弟の住職から聞いていた。現に従兄弟の息子が学生時代に、このアルバイトをやっている。失礼ではあるが、この宗旨の教義については、ハンパな学生よりも詳しいつもりである。
「オタク、A大学? B大学?」
 若い僧侶は、完全なシカトで、これに応えた。

 納骨檀を開けて驚いた。すでに人型の木に法名が書かれて収められていた。

 愕然という言葉はめったに使わないが、愕然としか表現しようのない気持ちになった。
 その法名は『釋○○』と言い、月足らずで生まれ、死産と届けられていた、わたしの兄のものであった。よく見れば過去帳も、その兄の忌日のページで開かれており、ちゃんと法名が書かれていた。

 わたしの愕然には、二つの意味がある。

 一つは、そこがもう墓としての存在意味を持っていることである。兄の人型があり、過去帳に載っていれば墓であろう。過去帳のきれいな字は父の手ではなかった。「お父さんの法名、なんやったら、こっちで五百何十円で書かせて頂きます」と受付のオネエサンが言ったところをみると、この墓所の担当者の手によるものであり、よく調べれば、ここがもう墓として俗世的にも機能しているということである。また、うちの宗派の宗祖は、墓について、そんなことは一切言ってはいない。
 もう一つは、父が、水子として処理され戸籍にさえ載っていない兄に負い目を感じていたことである。空の墓であると思っていたのは、わたしたち姉弟、親類みなそうで、父と認知症になる前の母だけであった。

 これを知ったことで、わたしの人生は兄の分だけ重さが増えた。

 父の骨箱は、封筒で言うと定形最大で、三段になった一段分では収まりきれず、棚一段を外して、なんとか収めた。いわば1Kのアパートのようなもので、次ぎに同じサイズの骨箱が来れば、もう収めようがない。
 この先、どうするんだろう……この疑問を受付のオネエチャンに聞いてみた。
「そう言うときは、古いお骨を分骨して頂いて、小さくします。そして新しいお骨を収めさせていただきます。はい」
「ああ、産業廃棄物ですものね」
「いいえ、他のお骨といっしょに祀らせていただきます」
 エホバのニイチャンと「言葉は偶像である」というところで、話が中断したままなのだが、わたしは「言葉は偶像である」という自説が頭に浮かんだ。実態としては収納仕切れない骨の処分なのであるが、「お祀り」と言われると、なにかとても美しい言い回しに聞こえる……ほどウブではない。

 外歩きに慣れないわたしは、しばらくリビングでひっくり返ってから、この駄文を書いている。
 父のお骨が置いてあった祭壇は、まだそのままにしてある。明日にでも片づけなければカミサンに叱られそうなのであるが、少し抵抗がある。
 一年五ヶ月、父の居場所であり。飽きるほど語り、ふと気づくと目がいった場所に、父はもういない。

 敬虔な、他宗教の人たちには叱られるかもしれないが、その本箱前の場所は父の場所であり、聖地に似ている。ズボラからではなく、片づけるのには抵抗がある。なんだかんだ言いながら、カミサンの顔色が変わるまで、そのままにしておこうと思う。

 今夜から天気が崩れるそうである。納骨の日取りについては、ザックリ連休と決めていたのだが、今日という日にしたのは、なんとなくである。生前お天気屋であった父らしい上天気ではあった……。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・24「悪の教典」「シルク・ド・ソレイユ 3D」

2016-09-04 06:22:04 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評
「悪の教典」「シルク・ド・ソレイユ 3D」


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 これは、悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に流している映画評ですが、もったいないので、本人の了承を得て転載したものです。


「悪の教典」

 三池崇史…とうとう ここまで来ちまいましたか。
  本作はご存知の通り、貴志祐介の本屋大賞作の映画化です。主人公は頭脳明晰な天才的サイコパス。  
 三池演出を見ていて、こういう読み方も有りか?とビックリしちまいました。奴はこう言っています「蓮実(主人公、サイコパス)はいい奴だ。そもそも“一般とか普通”ってな何? 蓮実はいつも自分の気持ちに対して真っ正直なだけじゃないか」……三池のこれまでの仕事を見ていると、こういう読み方をしていても不思議じゃないが、それを映画にしてしまうと いかにもグロテスクだ。
 原作にはここまでの肯定的表現は無い(と信じたいだけかもしれない)、単に殺した人数だけなら 大藪春彦の主人公の方が遥に多い、サイコパスで言えば T・ハリスのハンニバル・レクターなんてな先輩がいる。しかし、彼らには殺人に理由と目的がある。対して蓮実には…前半にはそれらしき物があるが、後半の大暴走は単なる大量殺人でしかなく、そこに美学も何も無い。
 こういう映画はこれまでもありましたけどね、ここまで殺人者を肯定した作品は無かった。「殺し屋1」みたいにファンタジーじゃない、漫画の「サイコ」みたいにホラーでもない。三池は「ほれほれ、お前らの心の中にもハスミンがいるぜ」と言いたいんでしょう……その衝動は理解しますけどねぇ……。
 ラストが“THE END”ではなくて“TO BE CONTINUE”になっている。???原作に続きは無いはず(有ったら教えて)っちゅう事は、物語の終わり方に引っかけたのか? ごめん!この点が解らない。

「シルク・ド・ソレイユ 3D」

 シルクが日本以外で展開している“KA”“O”なんてな舞台から見せ場を抜いて、一組の男女を狂言回しにして繋いである。監督は“タイタニック”のジェームズ・キャメロンです。
 まず、3Dの先頭にいるキャメロンですが、この3Dは出来が悪い。頭が痛く成ります。画像は綺麗のだが、なぜか構図に失敗があり(画面手前に人が立っていて邪魔…とかです)肝心なシーンが両断されていたりする。いつもなら2Dを見なさいと言う所ながら、こいつが 舐めた事に3Dしか公開されていない。
 よって 結論!ディスクになるのを待ちましょう。映画館へは行かんで宜しい。 しかし、人間の刺激を求める本能ってのは贅沢なもんです。私、何回かステージを見に行って、ディスクはほぼ全部もってます。各々見せ場を持っていますし、世界最高の水準にあるのは確かなのですが、初めて“キダム”を見た時の感動は有りません。「何を贅沢こいてやがる」と、自分でもあきれますが、正直に言うとそうなります。“ラ・ヌーバ”なんてな結構ワクワクしながらディスクを見ましたが、やっぱり“キダム”で受けたショックは再現されません。ほんま、贅沢こいとりますわい。
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高校ライトノベル・『私家版・父と暮らせば・4』

2016-09-03 06:30:09 | エッセー
高校ライトノベル
『私家版・父と暮らせば・4』
         


 早いもので、もう1年と5か月になる。で、明日が、いよいよ納骨。久々に線香を焚く。

 家の機密性が高く、また電子機器が多いので、日常的に線香が焚けない。
 もう、今日が最後の日になるので、父が生前、なにかの法要の記念にもらったのだろう、5ミリ幅ほどもある特製の線香を焚いている。予想はしていたが、燃えた線香は崩れもせずに『南無阿弥陀仏』の六字が浮かび上がってくる。

 南無は、サンスクリット語の「ナーム」からきている。もとの意味は「もしもし」「おーい」と言うような呼びかけの言葉である。阿弥陀仏は、阿弥陀如来のことで、真言密教では、根本仏である大日如来の化身とされ、大日如来とは、ざっくり言って「宇宙」あるいは「宇宙の法則」のようなもので、本地垂迹(ほんちすいじゃく)の日本的なすがたでは天照大神と同じとされる。
 要は南無阿弥陀仏とは「もーし、仏様」という呼びかけにすぎず、浄土教の中ではこの六字が全てである。

 人は死ねば無になる。ゼロになると言ってもいい。この世の全てのものが、生まれ、いずれかは死んだり滅んだりしていく。この地球や太陽にさえ寿命がある。宇宙もビッグバン以来膨張し続け、いずれは縮んで無くなってしまうそうである。

 ここまで書いて、線香が燃え尽きた。黒々とした線香は、その形のまま白くなり、茶色く南無阿弥陀仏の六字をうかびあがらせている。

 浄土真宗では、死ぬと極楽にいくことになっている。極楽とは「無」の方便だと、わたしは思っている。無=0である。0とは不思議な存在で、「存在しないことを現す存在」 なんだか、訳が分からなくなってしまう。
 で、この電子顕微鏡でさえ見えない0を、初等教育さえ受けていれば、実に簡単に「あるもの」として信じている。
 話を変えてみる。X=1 Y=1をグラフに書けといわれれば、X軸から1、Y軸から1のところに点を打って「はいできました」と軽々と回答とする。だが、その点はエンピツであれ、ボールペンであれ、点は面積をもってしまっている。厳密な意味では正解とは言えない。正解である点は面積も体積も持ってはならないのであり、打った点は正解の偶像に過ぎない。

 なんだか、理屈っぽい。

 要は、ものは全て滅ぶのであって、ゼロになると言っていい。このゼロになる性質を仏性という。だから、この世の中のものには、全て仏性がある。と、生悟りしている。

 昔、父に捨てられたと本気で思ったことがある。

 ワルサをして「おまえなんか、うちの子とちゃう。出て行け!」と外に放り出されたときは捨てられたとは思わなかった。ただ父が怒っていると認識しただけである。

 幼稚園に行くか行かないかのころの話である。父が、なんの前触れもなく、「阪急百貨店に行こう」と言いだし、幼い姉とわたしは、市電に乗せられた。
 屋上のミニ遊園地で遊んだあと、お昼にしようということで、大食堂に行った。
「ほんなら、券買うてくるから、手えつないで待っとりや」
 そう言って、父は人混みの中に消えていった。何分たったのだろう……子供心には一時間ほどにも感じられる時間が流れた。心なし姉も不安になってきたのか、握る手の力が強くなり、汗ばんできた。

 そして、捨てられた……と、思った。

 当時、そんなふうに子供を迷子にして、捨てることが時々あった。父は貧しい職工であり、25日の給料日は、いつも中身をちゃぶ台に広げては、父と母がため息をつき、時には激しく罵り合っているのも心に傷として残っていた。
 もう、ほとんど泣き出しそうになったとき、姉が呟き始めた「大阪市旭区生江町……」と、住所をおまじないのように。姉もなにかしら覚悟しはじめたのであろう。
 要領の悪い父は、容易に食券売り場にたどりつけず、やっと二時間(わたしの感覚で)の後、父は茹で蛸のようになって、三枚の食券を手に戻ってきた。

 もう六十年近い昔の話である。話にも仏性があるようで、姉は、この時のことを覚えてはいない。姉にとっては、もうお浄土に行った話である。こういう話をいつまでも覚えているわたしは、往生際が悪いかも知れない。

「そんなことあったかなあ……?」

 骨箱の父がぼやいた。明日の今頃は、お墓の中である。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・23『のぼうの城/黄金を抱いて翔べ』

2016-09-03 06:12:45 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・23
『のぼうの城/黄金を抱いて翔べ』
    

この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


この映画評は、映画評論家の悪友・滝川浩一が、個人的に仲間内に流しているものですが、あまりにもったいないので、本人の了解を得て転載したものです。


☆のぼうの城

いやいやいや、映画館 マジで満席でしたわ。
原作を読んだ時ほど笑わんかったんですが、それは「笑えない」のではなく感心する方が先だったのと、野村萬斎のあまりに見事な「のぼう様」振りに見とれていたからです。

本作は単純に「原作」と「映画」を比べる訳には行かない。というのが、本作の原形脚本が先に有って、脚本家がそれを小説化、さらにそれを脚本化という制作過程を経ているからで、小説を映画のノベライゼーションとは言えないという事情がある。
元々が秀吉の小田原攻めに関するまごうことなき史実であり、埼玉県行田市に行けば当時の史跡がかなり残っている。タイトルロールに現在の様子が映し出され、たった今見た映画がそのまま現実の歴史であると実感できる。

さて、映画の出来ですが、こらもう見事と言う他無い。細かく言えば…水攻めで沈むシーンを模型じゃなくCGにすりゃいいのに とか ヤッパリ全体に音響が悪く、慣れるまで何を喋っているのか聞き取れない とか有るんですが、まぁそれは些末な事として切り捨て出来る。
音響が悪いにも関わらず、野村萬斎だけはハッキリと台詞を聞き取れる、舞台人というより狂言役者の真骨頂を目の当たりにしました。小説に登場する「のぼう様」は ボーっとした大男として描かれ、その表情は最低限の言及が成されるだけで、だから 読者は最後まで凡人なのか天才なのか判断がつかない。
小説の場合、眠っていた才能が危急存亡の場に臨んで眼を覚ましたと読める、対して映画では各シーンが映像として描かれる(あったり前) 萬斎の「のぼう様」はボーっとしているようで、一瞬表情にハッキリした意志が現れる。これを見る限り野村萬斎は「のぼう様」を堂々たる侍大将として演じている。可能性の中の一つの表現であるが、この一瞬の表情が観客に緊張を産む、本作の成功の半分は野村萬斎を起用した事に拠っている。
残り半分は成田長親を囲む人々を演じた俳優達の安定した熱演が担保した。榮倉甲斐姫、佐藤丹波守、グッサン和泉守、成宮酒巻~~~~一々言及出来ない、敢えて一人を上げるなら上地雄輔の石田三成が見事だった。正直、この人が一番不安だったのだが爽やかに裏切られた、もう「お馬鹿タレント」の皮を完全に脱ぎ捨てた。拍手を贈りたい。見どころはそれこそ「満載」なのだが、白眉はのぼう様が舟の上で踊るシーン、敵味方双方を飲み込む設定だが…設定を超えた、このシーン 野村萬斎の踊りには本物の力がある。見ていて身震いのする思いがした。
絶対の自信を持ってお薦めします。是非とも劇場に足を運んで下さい。

☆黄金を抱いて翔べ

 見事に久々の日本版フィルムノアールです。
原作と比べると、実にその30%にも相当する詳細な下見がほぼカットされているのですが、これは仕方が無いでしょうねぇ。
大阪に住み、中之島に土地勘が有れば、ほぼ犯行をトレース出来る。執筆時に詳しく取材したのだと思うが、こんな作品に成るなると判っていたら取材拒否されただろう、まさかそれをスクリーンに映せない。この点を除けば、井筒監督に手落ちは無い。
 まずはキャスティングの妙がある。主人公たちは恐ろしい程に荒んだ精神の持ち主ばかり、それを演じるに妻夫木、溝端、チャーミンはあまりにも整った顔をしている。本作のスティールを始めて見た時、それが一番の引っかかりであった。
 チャーミン以外の二人の演技力は充分知ってはいたが、小説から思い描く彼らは見るからに「悪」そのもの。ある意味、自分の状況に正直に生きている人物達。ここに西田敏之「爺さん」も含まれる。対して浅野、桐谷の二人は仮面を被り、社会に溶け込んでいる。この対比が一つの大きな見所、結論から言って私の危惧など全く杞憂、稀に見る堂々たる“ノアール”でした。
 チャーミンの芝居は初見でしたが見事なもんです。日本人がヤクザ、兵隊、警官なら誰でも演れる(最近はそうでもないでしょうが)と言われるように、韓国人にとっては「北の工作員」は誰でも演れるキャラクターなんですかねぇ。
現在、銀行強盗は陳腐な犯罪である。それはネット上に舞台を移してしまったのだが、その現代に身体を張って、然もわざわざ重い金塊を狙う。この時代錯誤が妙なリアル感を持って迫って来る。
 作戦成功の高揚も死の虚しさも無い、新しい(う~ん、でもないかな)ノアール感が現出している。フランスノアール全盛期には無理なく受け入れられた筈だが、今 本作を見るのにテクニックがいる(?)かもしれないが、どうかあるがままに一度受け入れて、後にジックリ振り返っていただけると、色んな事が見えてくる…なぁんてね、ちょっと「上から目線」過ぎる? 本作もお薦めです。但し、ジャリにはこの映画の本質は解りにくいやろなぁ(またまた上から目線?)
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高校ライトノベル・『私家版・父と暮らせば・3』

2016-09-02 06:48:29 | エッセー
大人ライトノベル
『私家版・父と暮らせば・3』
 
    


 若い頃の父は、青年学校の同窓会などでは割を食っていた。

 大人の宴会であるので、当然二次会がある。
 その二次会に、父は二つの理由で参加できなかった。

 一つは、ほとんど下戸であることで、それに加えて話し下手なので、行っても、アルコールの勢いで喋っている仲間のテンションには付いていけなかった。
 わたしも父の体質を受け継ぎ、肝臓がアセトアルデヒドを分解する能力が低く、ほとんど下戸である。しかし学園闘争時代の最後尾にいるわたしは話に酩酊することは得意である。相手を酔わしては、その言語能力を奪い、話をひっくり返したり、お茶にしては喜んでいる。「並の酒飲みより始末が悪い」と言われる。
 で、父である。一次会でサヨナラする父は料理や、お寿司の残り物を折に詰めてもらい家に持って帰った。
 すこぶるつきの料理下手である母の料理に慣らされたわたしと姉は「世の中に、こんな美味い物があるのか」と感動した。
 で、今度こそ父である。昔の男の宴会は、いろんな二次会があったが、陸軍組と海軍組に分かれるのが、標準であった。社宅の二軒隣のTさんなどは陸軍なのに、陸軍の航空母艦(正式には空母型の飛行機輸送船)に乗っておられて、陸軍では珍しい銀蠅(ぎんばえ=ちょろまかし=員数を揃えるとも言う)の話などしてくださった。

 戦争の善し悪しは別にして、大正末年生まれの男に兵役というのは、独特の意味合いがある。徴兵制度のない今の日本では例えがむつかしい。
 例えば、わたしは六十になろうというのに、野球が分からない。中学や高校のホームルームで、やることがなくなると、グランドや、近所の公園で野球やソフトボールをやったが、わたしは、ほとんど参加したことがない。サッカーはむろんのこと水泳、テニス、ゴルフ、等々やらないだけではなく、ルールも選手も分からない。だから、子供のころから、そういう話題には付いていけなかった。

 ちょっと分かってもらえるだろうか。

 大げさな物言いになるかもしれないが、兵役はイニシエーション(通過儀礼)であり、これを経ていない者は、どこかコミュニケーションする上でトッテの掴みようがないようなところがある。そんな印象の父であった。

 現役のころは、ずっと職工であった父は器用な人で、戸棚や縁台はもちろんのこと茶箪笥、本箱、わたしの勉強部屋まで作ってしまった。特にうちの父だけが器用なのではなく、同世代の男達は、おしなべて器用であった。
 だから、その息子である我々は、その点では遺伝子を受け継いでいる。欲しいモノがあると、買ってもらおうと思う前に「作れないだろうか?」と思った。
 当時はゴミの不法投棄などは当たり前で、空き地があれば、なにかしら捨ててあったり落ちていたりした。
 そういうところから、木っ端や金属材料を拾ってきてはいろんなものを作っていた。その時に、カナヅチやカンナ、ノコギリの使い方を学び、そう言う点、父は、わずかに偉かった。中学で技術家庭を習うころには、たいていの男子は、当たり前に工具が使えるものが多かった。

 先日、エアコンの掃除をやろうとして、椅子に載り、クリーナーをかけようとしたところで、ひっくり返った。持病のメニエルが復活したようだが、その、ひっくり返ったところが父の骨箱の前であった。もう少しずれていたら、骨箱の祭壇の上に落下しているところで、そうなれば父も無事では済まなかっただろう。エアコンを、ある程度バラして掃除しようというのは、確実に父の遺伝子である。息子ならダスキンさんか何かを呼んで、さっさと何千円也を払って涼しい顔だろう。落ちる瞬間、父が「危ない!」と言ったような気がする。しかし、哀れ骨箱に入ってしまっては、助けることも出来ない「もうちょっと早よ言うてえな」と骨箱にグチった。

 骨箱というと、こんなことがあった。葬儀会館から帰って祭壇を組み立て、骨箱を安置、お花などの飾りも、おさおさ怠りなく済まして、上の部屋で家族三人三日ぶりに安眠しようとしたところ、無人の下の部屋で人の気配がして、カミサン、息子が飛び起きた。
「な、なんやろ……!?」
 驚愕の息子。
「あんた、ちょっと見てきてや」
 警戒のカミサン。
「どうせ、親父やで」
 わたしは、ごく自然に、そう思い階下に降りた。
『すまん。慣れん家で勝手が分からんよって』
 父が骨箱の中でそう言った。見ると祭壇の湯飲みに水が入っていなかった。
「ごめん、て……ちゃんと入れたはずやのに?」

 父が緊張すると、やたらに水や、お茶を飲んでいたことを思い出した……。

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