続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『オツベルと象』⑧

2018-12-05 07:29:37 | 宮沢賢治

 そしたらそこへどういふわけか、その、白象がやつて来た。白い象だぜ、ペンキを塗つたのでないぜ。どういふわけで来たかつて?そいつは象のことだから、たぶんぶらつと森を出て、ただなにとなく来たのだらう。


☆魄(たましい)の章(文章)である。
 博(大きく広がる)章(文章)の図りごとの記である。
 照(あまねく光が当たる=平等)を新しく推しはかる記である。


🈞マグリット『会話術』

2018-12-05 06:46:37 | 美術ノート

 
 

 REVE、夢・Amour、愛・Espana、スペイン・・・この三作品には総じて『会話術』と名付けられている。
 しかし、むしろ否定的なシーンであり、会話の不毛とでも呼びたいような光景である。
 なぜそのようなタイトルにしたのか。
 会話、意思疎通は日常においてごく当たりまえの行為であり、相手(対象)の存在が必須であるが、人物の登場がない。

 巨大な石造りで構成した(REVE、夢)は衝撃である。こんな巨大な石を刻むこと自体不可能であり、非現実的である。そして夢と名付けられた空間には対応すべき相手の存在がない。会話の基本である対象者の欠如に会話は成立しない。

 夜と昼の光景が交錯する光景は既に設定された異空間である。一見むつまじく見える二羽の白鳥、同じものを見つめているようでもあるが、詰め寄る一羽にそっぽを向く一羽という想定も可能である。しかも羽ばたこうとしている。愛の不条理、成立し得ない愛の一コマではないか。白鳥の会話を人が厳密に聞き取ることは不可能である。

 頭部にナイフの突き刺さった瀕死の遺恨を残したような眼差し。共通言語を持たない対象との悲劇、強者が弱者を死に至らしめる。ここに正当な会話は存在しない。 

 会話とは矛盾・不合理を伴うものであるという、会話における亀裂を拡大して見せたものかもしれない。


(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)


『やまなし』㉟

2018-12-05 06:37:45 | 宮沢賢治

『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いゝかい、そら。』
『やつぱり僕の方大きいよ。』


☆混(一緒になった)詞(言葉)の文(文章)には他意が現れる。
 逸(隠れた)緒(もろもろ)の図りごとが目(ねらい)の他意である。


『城』3083。

2018-12-05 06:28:12 | カフカ覚書

そこで、ドアのところから耳をすましてみた。ここもどうやら客が泊まっていないようだった。もし客が眠っていても目をさまさないように、そっとノックをしてみた。それでもなんの応答もなかったので、用心ぶかくドアをあけた。


☆企てに耳を傾けてみた。ここは少しも声がしなかった(小舟が騒々しかった)。微かに戸を叩く音がした。先祖の眠りはそのために目覚めることはなく、今も同じように起きることがなかったので、用心ぶかくドアを開けた(企みを公開した)。