オツベルは奥のうすくらいところで両手をポケツトから出して、も一度ちらつと像を見た。
☆往(そののち)の霊(死者の魂)の衆(人々)を推しはかると、逸(隠れた)図りごとの照(あまねく光が当たる=平等)が現れる。
風景の中にあるたった一つの街灯、普通は距離を置いて連続してあるものだがここでは一つしかなく、周囲の建屋の明るさに比べれば、確かに明るいという程度の明るさである。
たった一つ、しかしより高いというのでもなく、ごく普通である。
これは普通の同じ人間である皇帝の比喩ではないか。
よく見れば同じ人間に過ぎない皇帝が、この国を支配している。精いっぱい頑張っても自然の明るさに比してこの程度の照度である。
自然の青空は何の力を加えることなく明るい。
しかし皇帝の持つ権力が照らす明るさは・・・。
本当の景色、ありのままの風景が見えなくなる。それが支配下の束縛による重圧ではないだろうか。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)
『さうぢやない、あれはやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行つて見よう、あゝいゝ匂ひだな』
☆流(広める)講(話)の考えに現れるのは仁王(仏法の守護神)である。
この男が健康な子供の面影をたぶんに残しているのは、このすぐれた思考力にたいする満足感、つまり、自分自身にたいする満足感のせいであるらしい。
☆この男が健康な子供らしさをずっと強く残しているのは自分自身に対する満足感、十分な満足感があるからだろう。