作品を見ていると、すべてが人工物(人為的な構築)であることに気づく。
ある意味、叡智の結集であり、人の為す術に因るものばかりである。
平面は原初の発見であり、段階を踏み、あらゆるは集積されつつ今日に至っている。絵画作品という伝達もそれに外れない。
しかし、とデュシャンは問う。階段はすでに外されてもいいのではないかと。
絵画作品における表現方法は尽くされている。世界の時空を封じ込める、あるいは解放する手段を模索したいと思うなら、この絵画作品(二次元)から脱却すべきではないか。少なくともデュシャンにおいては、この手法での究明は方向性に違和感を感じている。
迂遠な手段方法である。
『花嫁』の冠をこの作品に籠め、新たな転換点としたのではないか。彩色の揺らぎ、構図の平穏、主体への共感…アートは変革すべきだという主張がここにある。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
次ぎの日の未だ登らないうつ立野を発って、兼ての願で阿蘇山の白煙を目がけて霜を蹈み桟橋を渡り、路を間違えたりして漸く日中時分に絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは一時過ぎでもあッただろうか。
☆字で化(形、性質を変えて別のものになる)で、魅(もののけ)を問う律(決まり)也。
律(決まり)の験(しるし)は眼(要)であり、吾(わたくし)は、粗(おおまかな)算(見当がつく)と吐く。
掩(隠して)黙っている、総てを套(隠している)。
算(見当をつけて)胸(心の中)を吐く。
露(現れる)幻の意(考え)は全て化(形、性質を変え別のものになる)で注(書き記している)。
二つの文は舌(言葉)で調える。
混ぜて套(隠し)、紛れるのは化(教え導くこと)の講(話)である。
達(意向を伝える)逸(隠した)字には化(教え導くこと)がある。
これまでさいわい夜の尋問という方便をつかって、陳情者と顔を突き合せる辛さを切りぬけてこられたのですが、それがけさ突然ありのままの姿でずかずかと押しかけてこられたので、すっかり面くらわれたのです。
☆運よく不思議にも死の尋問から助けられたのは、相手方の重苦しさに耐えたからです。今モルグ(身元不明者死体公示書)ではなく、突然、説得なしに全ての真実が新たになったのです。