遥かに続くはずの道の両壁は勾配がきつく、常人が気軽に上ることは不可能である。地層ではないが何かの突起や接合部分があり、フラットではない両壁である。
つまりは人は谷底を進むしかなく、両壁は閉ざされ、空の解放があるのみである。わたしたちは世界は広く開放されていると思いこんでいるが、すでに通過してきた道を背にして目の前に用意された(運命)の道を行くしかないのである。換言すれば、それが私的な世界であり、客観的な世界は確かに存在するが全体を把握実感するわけではない。
作品は、もう一方にも酷似した道が用意されている。二本の道は相互に同じ関係で成り立っているものであるが、行き来は出来ず、存在しているという事実があるだけである。
決して《円環》ではない《二本の通路》なのであり、この切断に接合は望めない。酷似した世界があるという想定である。
過去・現在・未来は一本の道である。それに等しく《The other world》があるという想定は、生死を別けているかもしれないし、まったくの異世界の設置かもしれない。
見えている道は見えていない道の何らかの振動によって時空を醸し出しており、存在は空無(非存在)との共犯関係によって成立している時空である。
この二本には決して連鎖はない。
写真は若林奮『VALLEYS』展より 横須賀美術館
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