『汽車の中の悲しめる青年』
暗い茶褐色のモノトーンである。仮にこれを人体(青年)と認めるなら、その頭部は垂れている、下に傾いていることで、悲しみを納得させている。
見かけ、仮象、思いこみ、データから推しはかる悲しみのポーズ、彩色は確かに悲しみに一致するかもしれない。
汽車の中、刻々と場所を移動していく時空は、青年を包んでいる。青年はこの因果から逃れられず、時間は喜怒哀楽を猶予しない。
板状の物、ラフスケッチのような動きと面は、青年とタイトルしなければ青年を想起させることは困難である。《言葉と映像》は簡単に結びつき有り得ない組み合わせを決定づける。
ゆえに、『汽車の中の悲しめる青年』は、個々ほとんど似たような感想をもって思い描くはずである。
しかし、画像(作品)はタイトルに媚を売らず無関係である、にもかかわらず、鑑賞者のほうが言葉と画像のギャップを埋める心理に陥るのである。
作家はこのギャップ・通念に疑問を感じ、この作品を提示したのではないか。明らかに関係づけられない対象を言葉をもって簡単に意味づけられ関係性を成立させてしまう教育された脳、観念に一石を投じたものであり、苦笑、あるいは憤怒をもって悲しみを差し出したのである。
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