短編も三作目になると、作家の手法が見えてくる。
《パッチワーク技法》である、それぞれ異なる布地を集めて部分的に継ぎ大きく広げて行く。際限なく広げることは出来るが、バランスを考えると途方もなく困難になるという手法で、取り合わせの妙がものをいう。予期しない共鳴に胸の高まりを抑え切れない効果が生じるけれど、星の数ほどの組み合わせの中で選択するセンスが必須であり、その起伏ある物語のような流れは見るものを圧倒する。連続パッチの場合は最初のパターンと縫製技術があれば仕上げることは可能だけれど、クレイジーなパッチワークの場合、難しくもあり、そのエネルギーは想像を遥かに超える。
パッチワークは素晴らしく広がりある世界であるけれど、あまりにも時間がかかり修正もまた困難であるという行程のため、女性の内なる手仕事に納まっているのは残念に思う。
現代は忙しく、場面の切り替えはむしろ日常的になっている。ふっと現れ、ふっと消えてしまう。その中で軸である自分は主体性なく泳がされているとさえ錯覚してしまうほどの混沌がある。パッチ(部分)で、あたかも唐突につながっていく物語をつむいでゆくエネルギーは読む者を奇妙に引きずり混沌という日常(あるいは非日常)へと誘い込んでいく。
前置きが長くなってしまったけれど、この手法である。主人公である僕を中心にエピソードのパーツを集め繋げていく。脈絡はないが、奇妙な雰囲気が生じる。
軋みと言ってもいいかもしれない。
『ニューヨーク炭鉱の悲劇』
プロローグは目立たないような小さな文字で《地下では救助作業が、続いているかもしれない。それともみんなあきらめて、もう引きあげちまったのかな『ニューヨーク炭鉱の悲劇』(作詞・歌/ザ.ビージーズ)》とあり、ラストに《そとではもちろん人々は穴を掘り続けている。まるで映画の一場面のように。と締めくくられている。
しかし、この標題にもかかわらず、のっけから僕の友人の話で始まり、《なにしろ、もう28だものな・・・。》とこの年齢にありがちな心境の変化を吐露したりする。
物語は全て形而下にあるのに、あえて形而上的な丘の上の形而上的な殺戮について《その直後》に不意打ちのように始まったのだとつなげている。
現実と非現実のあいだに横たわるその暗い溝を最初にまたいだのは・・・中学の時の教師の自殺であり《28歳の青年の死は、冬の雨のように何かしら物哀しい。》と胸をつく言葉で語られる。(まるで、詩の断片だ)
台風の日には会社を休んでまで動物園に行き動物の様子に対峙するという変人(他の日常はごくノーマルらしい)に葬式用の黒い背広とネクタイと黒い革靴を借りにいく僕は、彼から「動物園に猫の檻を見た」という話を聞く。
常ならざることはのエピソードは淡々と綴られて行く。
幾つかの事故死。
「もう充分な数の人間が死んだ」「何だかピラミッドの呪いみたいだな」会話は夜中の賛辞に動物園にいったという話に及び、
「結局この大地は地球の芯まで通じていて、そしてその地球の芯にはとてつもない量
の時間が吸い込まれているんだよ」と、友人。
「いずれにせよスイッチを軽く押すだけでコミュニケーションがブラックアウトする」
ビール、ウィスキー、シャンパンと飲み継いでいく友人との夜更け。
物語の最後の女は「あなたによく似た人を殺した」と告白する。「もちろん法律上の殺人なんかじゃない」という女は十一時五十五分に流れ出した『蛍の光』って大好きだというが、僕は『峠の我家』のほうが鹿やら野牛やら出てきていいと答え、不意にも服を借りた友人を思い出す。
そして物語は、空気を節約するためカンテラを消した漆黒の闇の中の坑夫たちが、岩盤を削る音に耳を澄ませているという光景で終る。
静謐な死のメロディは、しかし生きている者にしか聞えない。
《パッチワーク技法》である、それぞれ異なる布地を集めて部分的に継ぎ大きく広げて行く。際限なく広げることは出来るが、バランスを考えると途方もなく困難になるという手法で、取り合わせの妙がものをいう。予期しない共鳴に胸の高まりを抑え切れない効果が生じるけれど、星の数ほどの組み合わせの中で選択するセンスが必須であり、その起伏ある物語のような流れは見るものを圧倒する。連続パッチの場合は最初のパターンと縫製技術があれば仕上げることは可能だけれど、クレイジーなパッチワークの場合、難しくもあり、そのエネルギーは想像を遥かに超える。
パッチワークは素晴らしく広がりある世界であるけれど、あまりにも時間がかかり修正もまた困難であるという行程のため、女性の内なる手仕事に納まっているのは残念に思う。
現代は忙しく、場面の切り替えはむしろ日常的になっている。ふっと現れ、ふっと消えてしまう。その中で軸である自分は主体性なく泳がされているとさえ錯覚してしまうほどの混沌がある。パッチ(部分)で、あたかも唐突につながっていく物語をつむいでゆくエネルギーは読む者を奇妙に引きずり混沌という日常(あるいは非日常)へと誘い込んでいく。
前置きが長くなってしまったけれど、この手法である。主人公である僕を中心にエピソードのパーツを集め繋げていく。脈絡はないが、奇妙な雰囲気が生じる。
軋みと言ってもいいかもしれない。
『ニューヨーク炭鉱の悲劇』
プロローグは目立たないような小さな文字で《地下では救助作業が、続いているかもしれない。それともみんなあきらめて、もう引きあげちまったのかな『ニューヨーク炭鉱の悲劇』(作詞・歌/ザ.ビージーズ)》とあり、ラストに《そとではもちろん人々は穴を掘り続けている。まるで映画の一場面のように。と締めくくられている。
しかし、この標題にもかかわらず、のっけから僕の友人の話で始まり、《なにしろ、もう28だものな・・・。》とこの年齢にありがちな心境の変化を吐露したりする。
物語は全て形而下にあるのに、あえて形而上的な丘の上の形而上的な殺戮について《その直後》に不意打ちのように始まったのだとつなげている。
現実と非現実のあいだに横たわるその暗い溝を最初にまたいだのは・・・中学の時の教師の自殺であり《28歳の青年の死は、冬の雨のように何かしら物哀しい。》と胸をつく言葉で語られる。(まるで、詩の断片だ)
台風の日には会社を休んでまで動物園に行き動物の様子に対峙するという変人(他の日常はごくノーマルらしい)に葬式用の黒い背広とネクタイと黒い革靴を借りにいく僕は、彼から「動物園に猫の檻を見た」という話を聞く。
常ならざることはのエピソードは淡々と綴られて行く。
幾つかの事故死。
「もう充分な数の人間が死んだ」「何だかピラミッドの呪いみたいだな」会話は夜中の賛辞に動物園にいったという話に及び、
「結局この大地は地球の芯まで通じていて、そしてその地球の芯にはとてつもない量
の時間が吸い込まれているんだよ」と、友人。
「いずれにせよスイッチを軽く押すだけでコミュニケーションがブラックアウトする」
ビール、ウィスキー、シャンパンと飲み継いでいく友人との夜更け。
物語の最後の女は「あなたによく似た人を殺した」と告白する。「もちろん法律上の殺人なんかじゃない」という女は十一時五十五分に流れ出した『蛍の光』って大好きだというが、僕は『峠の我家』のほうが鹿やら野牛やら出てきていいと答え、不意にも服を借りた友人を思い出す。
そして物語は、空気を節約するためカンテラを消した漆黒の闇の中の坑夫たちが、岩盤を削る音に耳を澄ませているという光景で終る。
静謐な死のメロディは、しかし生きている者にしか聞えない。
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