そして、Kが彼女の手から盆をとって下に置き、自分の腕を彼女の胸に絡ませて、その狭い場所をゆっくりと行きつもどりつしはじめても、されるがままになぅていた。
☆そしてKは彼女から無雑作に探り、根底に置いた。氏族の場所に恐れつつゆっくり向かうどころか、なお前方に行き、(可哀想な人)祖先はこのような死に方をしていたのだ。
狂気について瞑想する人物…平常心でない状態についての考察。
人物(男)は狂気ではないと自覚し、狂気を他者の眼で深く推察する態である。
パイプを親指と人差し指の間に平行に挟んでおり、一見しっかり持っているようだけれど、実は火の点いたものを危うい位置に置いている。
落下(危険)を免れない危機を、何事もないように描いている。つまり、無事であることは危険と紙一重である。
しかし、男の関心(眼差し)は中空(空虚/虚無)を向いている。(X線調査によるともう一人の男が描かれていた)おそらくその男は自身であり、自身を凝視しているという構図だと思うが、それを消去したのは自身の中の他者というより、自身のなかの世界(限りなく取り留めのない領域)である必然によるものと思われる。
時間(過去・現在・未来)を特定しない深緑の背景は、ずぅと止まったままの時間(時空)を指している。
首を突き出し、息を止めたような静謐・・・凝視し果てるまで何かを追及することは即ち狂気そのものではないか。
『狂気について瞑想する人物』は、マグリットの自画像である。皮肉と失笑をもって描いた自身の心象だと思う。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
ひばり ひばり
銀の微塵のちらばるそらへ
たつたいまのぼつたひばりなのだ
くろくてすばやくきんいろだ
そらでやるBrownian movement
おまけにあいつの翅ときたら
甲虫のやうに四まいある
飴いろのやつと硬い漆ぬりの方と
たしかに二重にもつている
☆吟(声に出してうたう)魅(もののけ)の人。
私の講(話)は、衷(心の中)の死の意(考え)である。
質(内容)は、法(神仏の教え)を字で充てている。
「従僕たちは、そうは考えていないわ」と、フリーダは言った。
「この点ででも、また、たぶんほかの多くの点ででも、きみは、従僕たちの助平根性からぼくを不誠実で裏切り者だときめつけようとするのかね」フリーダは、なにも答えなかった。
☆たくさんの異なる点を見ても立派だと思う、とKは言った。「きみを欲する従僕(死人)たちの望みでわたしを不誠実にしてしまうのかね」フリーダ(平和)は黙って耐えていた。
『狂気について瞑想する人物』
深緑の背景、時代(時間)を特定しない時空間である。
男は首を突き出し何かを凝視している。自問自答、答えの見つからない混沌・混濁の胸中。過去・現在・未来が複雑に交差し無時間に陥るような忘我、否、自身のみの世界へ落ちて行く断絶の領域。
手に持ったパイプは滑り落ちる位置にあり、辛うじて持っている風(見せかけ)である。燃え落ちるであろうタバコの火にも頓着しない男の凝視の一点。
(X線調査により右側にも別の男の姿(顔)が描かれていたということであるが、自分自身ではないか)
不自然なほど前に突き出した首、こそげ落ちた頬、尖った鼻、薄い唇、鋭い眼差し…いかにも(狂気を瞑想する人物)の風貌である。しかし、狂気という眼に見えない対象を瞑想するというのは違和感がある。
《狂気》正気でない精神状態を、《瞑想》目を閉じて静かに考える。自分自身のなかの矛盾であり、葛藤である。
男(人物)の前に角張った白い物は何だろう。棺(死)を連想させるが説明はない。
マグリットの胸中、死を前にして《生きる》を考える。《死》は白い色面に過ぎない、そんな風に幻想と化していくのだとしたら、《生》の領域に在る自分の精神とはいかなるものなのか・・・。
狂気(正気でない)を、正気の眼差しをもって明晰にする。即ち自身の狂気そのものかもしれないと、他者の眼で冷評している。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
あすこはちやうどまがり目で
すがれの草穂もゆれてゐる
(山は青い雪でいつぱい 光つてゐるし
かけて行く馬車はくろくてりつぱだ)
☆黙って双(二つ)を推しはかる。
太陽の照(あまねく光が当たる=平等)を運(めぐらせている)
講(話)の考えは魔(人を惑わし害を与えること)の赦(罪や過ちを許すこと)である。
ぼくがもうひとりの娘と話をしなくてはならないのも、そのためなんだ。ぼくは、あの子の有能さと慎重さと無私な点をりっぱだとおもっているが、あの子が男たらしだとは、だれも言えまい。
☆わたしが他の少女と話さねばならない、なるほどじしんのゆうのうさを見まわし、自身の自由を評価する。しかしながら誰も骨の髄まで信念が違うとは言えない。