なぜ『花嫁』だったのか、疑問が残る。
花嫁という人生の転機、花婿でなく花嫁を選択した心情、必然。デュシャン自身の告白にあるのかもしれない。
この画に花嫁を想起させるものを認めるのは難しい。男女あるいは人間を表すような部分さえ見当たらず、機械的な構築である。
切断、接続に生産的な意味を生じさせていない。それを意図したことは明白であるこの画を見ていると不思議に惑いが生じる。複雑怪奇な迷路、しかし介入できないバリアがある。どこにも指一本差し込むことができない緊張感と守りがある。圧迫感はないのに威風堂々とした空間の妙がある。何人も決して立ち入らせない強固な城、一国一城の主は、今この瞬間花嫁を自称した。
タイトル(『花嫁』)と画の関係には深い溝がある。この関係を解くことを許さないというような深い闇である。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
高岳の絶頂は噴火口から吐き出す水蒸気が凝て白くなっていたがその外は満山ほとんど雪を見ないで、ただ枯草白く風にそよぎ、焼土の或は赤き或は黒きが旧噴火口の名残を彼処此処に止めて断崕をなし、その荒涼たる、光景は、筆も口も叶わない、これを描くのは先ず君の領分だと思う。
☆考えを楽しみ、舌(言葉)で調える。
粉(細かく砕き)加(その上重ねた)講(話)を図ることを遂(やりとげる)。
推しはかる浄(けがれのない)鬼(死者の魂)は偽(本物ではない)と吐く。
我意は瞞(実情を隠す)。
算(見当をつけると)説(話)が現れる。
故に双(二つ)を吐く。
普く章(文章)の途(みちすじ)は惑(正常な判断が出来ずに迷う)。
釈(意味を明らかにする)惑(迷い)であると告げる。
求めるものは粉(入り乱れた)仮の考えの冥(死後の世界)である。
秘(人に見せないように隠した)諸(もろもろ)の死の談(話)である。
我意の考えは両(二つ)の講(話)を掲げている。
必ず考えは教(神仏のおしえ)を描いている。
千(多く)を訓(諭す)霊(死者の魂)を聞く詞(言葉)がある。
そういう人は、法律であれ、ごくふつうの人間的な思いやりであれ、なんでもあなたみたいにぼんやり寝ぼけ面をして見すごしてしまいます。書類の分配をほとんど不可能にし、この家の評判を傷つけても、また、たまりかねたお役人がたがついに自衛の策に出て、ふつうの人間ではとても想像もつかないほどの自制のあげくにベルを信じ、ほかの方法ではてこでも動こうとしない相手を追いはらうために助けをお呼びになっても、つまりはですよ、前代未聞の不祥事を惹き起こしても、平気でいらっしゃるのです。
☆先祖はすべての中で人としての顧慮を、鈍感な無関心とぼんやりとした無視で分別を見過ごしてしまったのです。それによって記録の分配をほとんど不可能にし、一族を害し、なお決してなにも生じさせないようにしたのです。大勢の人は絶望的になり、自身の身を守り始め、前代未聞の克己によりベルを押し助けを呼び寄せたのです。他の方法ではKを追い払い動かすことはできなかった。
じっと見ていると、自身の内部構造のような気がする。どこがどう繋がっているのか分からないが確かに集結があり、どこか一つの切断で全体が崩れるような硬く結びついた緊張感がある。
視覚で捉えた自然を模しているのではなく、人智で構築された線条・形態である。自然の野山・海川の風景にはこの形はない。つまり風景描写との対峙を離れ、人智(哲学)、思考世界への挑戦であり、決別と共に新しい闘いへの宣誓である。
『花嫁』この美称を以て自身の転換点(転機)とする決意を黙して表明したのだと思う。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
花嫁、人生の転換点である。今日から、その瞬間からという意を含んでいる。
新たな決意!
作品には流れがある、どこへ流れていくのかという方向性までは分からないが、確かに始動を感じる。
明確に描いているのに、複雑で関連が認められず意味が不明確である。換言すると、自由であり解放がある。束縛の不自由がないのである。
「わたしは花嫁です」とは言葉に出しにくく、周囲からの美称であるこの『花嫁』というタイトルをつけたのは、デュシャン自身の変革、内密の告白であり、芸術家としての立ち位置を画家ではなく真理を求める究明者(アーティスト)であることの表明だったのだと思う。
『花嫁』は新しい自分への秘密裏の祝賀、応援である。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
熊本地方は温暖であるがうえに、風のない好く晴れた日だから、冬ながら六千尺の高山もさまでは寒く感じない。
☆幽(死者の世界)を翻(作り変える)。
字に法(神仏の教え)を隠した談(話)である。
普く講(話)を整え化(教え導く)。
套(被って)録(書き記す)。
遷(移りかわる)釈(意味を明らかにする)講(話)に算(見当をつける)。
換(入れ替えること)を貫く。
お役人たちは、こういうことにはとても耐えられないのです。こういうことに無頓着でいられるなんて、どういう人でしょう!まあ、きつとあなたのような人でしょうね。
☆同じようには耐えられません。一人の人間として尊敬に値しません。Kのような人なのでしょう。
作品を見ていると、すべてが人工物(人為的な構築)であることに気づく。
ある意味、叡智の結集であり、人の為す術に因るものばかりである。
平面は原初の発見であり、段階を踏み、あらゆるは集積されつつ今日に至っている。絵画作品という伝達もそれに外れない。
しかし、とデュシャンは問う。階段はすでに外されてもいいのではないかと。
絵画作品における表現方法は尽くされている。世界の時空を封じ込める、あるいは解放する手段を模索したいと思うなら、この絵画作品(二次元)から脱却すべきではないか。少なくともデュシャンにおいては、この手法での究明は方向性に違和感を感じている。
迂遠な手段方法である。
『花嫁』の冠をこの作品に籠め、新たな転換点としたのではないか。彩色の揺らぎ、構図の平穏、主体への共感…アートは変革すべきだという主張がここにある。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
次ぎの日の未だ登らないうつ立野を発って、兼ての願で阿蘇山の白煙を目がけて霜を蹈み桟橋を渡り、路を間違えたりして漸く日中時分に絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは一時過ぎでもあッただろうか。
☆字で化(形、性質を変えて別のものになる)で、魅(もののけ)を問う律(決まり)也。
律(決まり)の験(しるし)は眼(要)であり、吾(わたくし)は、粗(おおまかな)算(見当がつく)と吐く。
掩(隠して)黙っている、総てを套(隠している)。
算(見当をつけて)胸(心の中)を吐く。
露(現れる)幻の意(考え)は全て化(形、性質を変え別のものになる)で注(書き記している)。
二つの文は舌(言葉)で調える。
混ぜて套(隠し)、紛れるのは化(教え導くこと)の講(話)である。
達(意向を伝える)逸(隠した)字には化(教え導くこと)がある。
これまでさいわい夜の尋問という方便をつかって、陳情者と顔を突き合せる辛さを切りぬけてこられたのですが、それがけさ突然ありのままの姿でずかずかと押しかけてこられたので、すっかり面くらわれたのです。
☆運よく不思議にも死の尋問から助けられたのは、相手方の重苦しさに耐えたからです。今モルグ(身元不明者死体公示書)ではなく、突然、説得なしに全ての真実が新たになったのです。