ペーパー・写・楽

ペーパークラフト、京都の写真、カブ、自転車、軽自動車で楽しんでいます。

妙音弁財天さんと出町柳近辺探索

2024-02-02 07:11:13 | 自転車でうろちょろ

 出町柳のコーヒー豆屋さんに行くとき、妙音弁財天さんや地図で気になるところを探ってみた。


近代京都オーバーレイマップで昭和28年の地図を出して自転車で撮り歩き。

この当時、河原町通りは今出川で終わってたんですね。


①の妙音弁財天さんにお参り。


キョウトデザインさんのHPより↓
「出町妙音堂」は正式名称を「青龍妙音弁財天」といい、相国寺塔頭・大光明寺が管理するお堂の一つです。
歴史は古く、この地域の人々に出町の弁天さんとして親しまれてきました。


境内に梅が咲いていましたよ。

本堂裏側にある「妙音天さん」。


本堂の周りには蛇ちゃんの絵がずらり。
来年の干支ですね。


②のところ。正面は御所。
御所の東側のこんなところに「真如堂突抜町」と「真如堂前町」という地名があった。

ウィキペディアによると以下の理由から、このあたりに真如堂があったようだ。
明応2年(1493年)、真如堂の本堂が完成するが、永禄12年(1569年)将軍足利義昭の命によって一条通北に移転する。しかし、天正15年(1587年)、今度は豊臣秀吉によって聚楽第建設のために京極今出川に移転する。慶長9年(1604年)豊臣秀頼の寄進によって本堂が建立される。

寛文元年(1661年)本堂が焼失する。元禄3年(1690年)に本堂が再建されるが、元禄5年(1692年)には再び本堂が焼失する。元禄6年(1693年)、東山天皇の勅によって現在地に移転し、再建される。享保2年(1717年)に本堂が完成する。

残念ながら町名看板は見当たらかった。


③のところ。
このあたりが「大原口突抜町」となっている。


町名看板は見当たらず、お家の表札に書かれていました。
失礼しました。


グーグル・マップを見ると二条家邸跡と二条家邸検出の井戸及び地下通路遺構があったので行ってみることにした。


二条家邸跡。
京都府の平安史跡のHPより↓
時は江戸時代、現在の京都御苑は天皇の居所である内裏(京都御所)を中心に宮家や公家が集住する空間(公家町)でした。
今出川通の北側にも屋敷が並び、当地(女子大学東半部)には二条家が広大な屋敷地を構えていました。
二条家は藤原氏を祖とし、「五摂家」の一つとして朝廷内では格式の高い家柄にあたります。


焼けた柱跡の残る礎石。


二条家邸検出の井戸。


地下通路遺構。
この2箇所は同志社大学内にあり、垣根越しに撮ってみました。

古い地図、新しい地図を見ながら散歩するのは面白い。

コメント (2)
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