「船場文化と阪神間」
江嵜企画代表・Ken
西宮文化協会の七月行事が7月14日、午後1時半から3時半過ぎまで、船場育ちで生活
文化史研究家の近江晴子さんとフリーライターの前川佳子さんを講師に迎えて西宮神
社会館で開かれ楽しみにして出かけた。山下忠男、西宮文化協会会長は「近江さん
は、西宮市甲子園生まれ、昔、古文書研究会で学んだ同窓生でした。前川さんは西宮
市生まれ、祖母さんから船場の四方山話を聞いて育った。お二人とも西宮にご縁があ
る。」と挨拶された。会場の様子をいつものようにスケッチした。
講演のテーマは「船場文化と阪神間」。第一部に登場した近江さんは「昭和7年
(1932)までは人口、面積ともに大阪市が全国一位だった。大正14年(1925)に大阪
は東京を抜いた。大阪府としては、軍需産業を軸に重化学工業化が進み全国一位の地
位を守った。大大阪時代である。それには大正12年(1923)の関東大震災の影響も
あった。大大阪時代を語るには、7代目市長、関一さん、6代目の池上四郎さんの功
績は大きい。」と話された。
「蓮如上人が残した書き物に大坂の文字がある。大阪は船場と共に商業の都として発
展した。土地と家を持つと初めて船場の人間として認められた。船場の人間は派手す
ぎてもダメ。しみったれてもダメ。行儀悪いことはできないようになっていた。家の
中はご寮人さんが取り仕切った。家を残すために長女に養子をとった。一方、主人は
芸事を極め、船場文化を育て、残した。」と話を続けた。
その船場文化も商店が会社組織となり、丁稚、手代、番頭が会社員となると、主人家
族が暮らす「家」の部分を分離して、郊外に住いを移す動きが盛んとなった。船場か
らの阪神間への移動の一つのきっかけは工業化に伴う煤煙だ。阪神間は、空気がきれ
い。白砂青松、風光明媚である。もともと大阪は摂津の国を分断し、河内と和泉の国
を加えて出来た。阪神間は摂津の一部。よその土地に行くと言う違和感は「船場」の
人にはかった。」と話した。
「当時、風水、八卦がはやった。船場から見て阪神間は戌亥、西北の方向で、恵方
だった。一方、船場から見て鬼門の土地は開発が遅れたが、そこに目を付けた松下幸
之助が、工場を作り、松下電器を大成功させた」と話した。
「明治7年(1874)既に大阪と神戸が列車で結ばれていたが、阪神が明治38年
(1905)、阪急が大正9年(1920)に大阪と神戸を結んだ。大阪は仕事場、阪神間は
生活の場として人気が出た。甲子園、香枦園、苦楽園など遊園地、海水浴場、保養地
が次々開発されたことも阪神間への船場からの移動を促した。」と話した。
「谷崎潤一郎は、小説「細雪」に当時の船場文化、阪神間の様子を活写した。「細
雪」には昭和13年(1938)の阪神大水害の様子を生々しく書き残している。水害のあ
と阪神間は、昭和20年(1945)、米軍による大空襲で壊滅的打撃を受けた。さらに阪
神間を、平成7年(1995)に阪神・淡路大震災が襲った。」と話を結んだ。
第二部に前川佳子さんが登場した。100人以上の船場ゆかりの人を前川さんは、近江
さんと二人でインタビュー、それをまとめて、「船場大阪を語りつぐ、明治大正昭和
の大阪人、ことばとくらし」(和泉書院)を昨年、出版された。前川さんは、「船場
の人々は、商いと町の発展のために教育を重んじ、自らの暮らしは律しながら、朗ら
かに過ごした」と話を終えられた。
前川さんが講演の最後に紹介した日本画家、庭山耕園のご子息、庭山敬一郎さん
(1917年生まれ)の話が印象に残った。「明治から戦前までの船場・島之内は、商業
地としてだけでなく、独自の文化土壌を持っていた」「東京の絵描きは東京美大の教
授になり、国費で留学させてもらっていた。つまりは税金で絵を描いているというの
だ。自分は腕一本で生計をを立てながら絵を描いている。 大阪で一流であれば、全
国でも一流というプライドを持ち、東京何するものぞという反骨精神が父を支配して
いた」「庭山画塾佳花社を開き、画家志望の弟子だけでなく、船場でも上級のお嬢さ
んや料亭の女将さんらに絵を教えていた。船場には「お稽古文化」が根付いていた」
と紹介された。
山下忠男会長は、講演のあと「お稽古文化と言う言葉を初めて耳にした。なるほどな
と思った。船場では店のあと取りに長女に養子をとった。譲ったあとのエネルギー
は、まさにお稽古文化に発揮されたに違いない」と挨拶された。2時間近い話を一枚
の紙に書ききれない。貴重な機会を用意いただいた西宮文化協会にいつもながら感謝
である。(了)