衛藤彩子先生大いに語る
画・江嵜 健一郎
西宮文化協会の12月行事として12月8日(水)午後1時半から「江戸時代西宮町人の生活と文化―藤田瑞峰を中心に―」と題して衛藤彩子、西宮市立郷土資料館学芸員を講師に
迎えて講演会が開かれ楽しみにして出かけた。いつものように会場の様子をスケッチした。事務局から本日は大学の学生さんも多数お見えですと紹介があった。
吉井良明、西宮文化協会会長は「西宮神社に3つ絵馬がありました。そのうちの一枚が藤田瑞穂の作でした。平成7年の阪神淡路大震災で被害に遭い、今ありません。誠に惜しまれます。藤田瑞峰を調査研究しておられる衛藤彩子さんをご紹介します。」と冒頭挨拶された。
衛藤彩子さんは「平成23年11月の西宮文化協会の行事で前副会長、藤田卯三郎さんが藤田瑞峰についての講演会で配布されたレジメです。」と手を上げて会場で見せた。「藤田卯三郎さんは講演会で「藤田瑞峰の子孫にあたる。先祖のお墓に瑞峰の文字がある。まだよくわからないところがたくさんある」と話された。私は客の一人として講演会を聞いていた。それが藤田瑞峰を調ベるきっかけとなった。」と冒頭話された。
「文化財調査団のボランティアの皆さんの協力もいただき、宗旨人別帳や日記などの調査を始めた。その中から藤田瑞峰の名前を「発見」した。いろいろなことが分かってきた。本日は、江戸時代の西宮村の様子などもお話ししたい。真っ先にお伝えしたかった藤田卯三郎さんは2年前の12月8日、急逝された。本日は御命日にあたります。」と話を続けた。
「嘉永3年「借家一向宗門帳」で藤田瑞峰の名前を見付けた。藤田治郎兵衛義景、通称小四郎、号瑞峰。2代目藤田屋治郎兵衛の子。兄弟3人・姉妹2人。天保5年(1834)31歳の時に治郎兵衛家を継ぐ。少なくとも嘉永3~6年は医師、藤田瑞峰と宗旨人別帳にあった。」「藤田治郎兵衛家は樽廻船問屋、藤田屋治郎兵衛の分家。初代治郎兵衛は和歌を嗜好、40代で家督を譲ったあと国学を修め晩年は教授もしていたことも分かった。瑞峰の死で絶家したようだ。瑞峰は絵馬では西宮神社に奉納した絵馬「組討図」ほか松原神社奉納絵馬数枚を描いている。瑞峰は西宮町の東南部の浜東町に住んでいた。浜東町の人口は2,000人を超え西宮町の30%を占めた。慶應2年(1866)には一丁目、二丁目、三丁目と分化した。
西宮町に住むためには屋号と印鑑を必要とした。医師などを除いて、職業・年齢・性別に関係なしに屋号を持った。店を構えない日雇や農業専業者でも屋号が必要だった。宗旨人別帳には毎月押印する。浜東町の職業分布では、卸売業、小売業、製造業で半数を占めた。宗旨人別帳を見るとキリシタン禁制政策により、宗旨改めが、所領内の人間を把握するために人別改めがあった。町村ごとに基礎台帳を作成し、毎年10月に作成、毎月押印して領主に提出した。浜石在町は双子が多いが人口が一番多い浜東町には1組もなかった。話は尽きない。興味深い話を聞く機会を頂戴し西宮文化協会事務局の皆様にひたすら感謝である。(了)