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「阪神間モダニズムとスポーツ」:講師・高木慶光先生(神戸外国人居留地研究事務局長)(スケッチ&コメント)

2018-02-24 09:16:12 | スケッチ


「阪神間モダニズムとスポーツ」

江嵜企画代表・Ken



「阪神間モダニズムとスポーツ」という題名に惹かれて、講師、NPO神戸外国人居留地研究会事務局長、高木應光先生による、2月21日(水)午後1時からの西宮文化協会、 二月行事、講演会へ楽しみにして出かけた。いつものように会場の様子をスケッチした。講演冒頭、会場正面のプロジエクターに青い空、山上にのぞく白い雲、東西に屏風のように広がる六甲の山並みが映し出された。「服部良一の「青い山脈」のメロディーは日本晴れのはるか彼方にくっきりと描かれた六甲の山並みを眺めているうちに浮かんだ」という話から始まった。

阪神間モダニズムは、神戸の欧米文化と大阪(上方)文化・財力との掛け算の文化だと話を進めた。大阪文化は大阪船場、上方文化を指す。大阪文化はお笑い文化でないと高木先生は力を込めた。明治5年(1872)品川、横浜間鉄道開通。明治7年(1674)神戸大阪間、鉄道開通時、尼崎、西宮,住吉の3駅のみだった。住吉は住吉川の扇状地で住宅に適しており、大林、村山、野村、平尾、岩井、住友、安宅、久原など財界の大物の家が点在していたと紹介された。

明治から大正にかけて、阪神間には、苦楽園、甲陽園、香櫨園、甲子園などが次々開発された。阪神電車が明治38年(1907)大阪三宮間開通。住宅地が広がった。白洲次郎も阪神電車で往来した。阪急電車が明治40年(1909)梅田宝塚間開通。昭和11年(1936)梅田三宮間が開通。小林一三は池田室町で日本初の住宅ローン販売を始めた。建築の世界ではライトやヴォーリズの設計の建物が次々建てられた。神戸YMCAの前身、神戸市基督教青年会館はヴオーリスの設計。ヴォーリズはバレーボールを教えた陰の功労者でもある。フアッションの世界では田中千代。フアッションリーダーとして彼女の足跡は大きい。ホテルでは宝塚ホテル、甲子園ホテル、六甲山ホテルがある。宝塚プールからは宝塚歌劇が生まれた。

大阪の空は真っ黒で色が出せない。南フランスの空に似ていると芦屋に居を移した小出楢重がいる。吉原製油創業者の吉原知良は「人のまねしたら、あかん」が口癖だった。美術館では,加納治兵衛が建てた白鶴美術館(昭和9年)(1934)、阪急御影に朝日新聞創設者、村山龍平の所蔵品を集めた香雪美術館。洋画家、小磯良平は同美術館近くに住んでいた。小磯美術館が六甲アイランドにある。芦屋カメラクラブの中山岩太がいる。カメラ一台で家が一軒買えた。

文学の世界では、阪神間は谷崎潤一郎「細雪」の舞台になった。谷崎は引っ越し魔だった。阪神間にいた20年の間に10回家を変えた。詩人の富田砕花は数々の校歌を作った。「ああ玉杯に花受けて」の佐藤紅緑は甲子園に住んでいた。跡地には阪神タイガース選手寮の「虎風荘」が建っている。紅禄の子供のサトウハチロウ、作家の佐藤愛子は腹違いの兄妹である。佐藤愛子の最近作「90才何がめでたい」は売れに売れている。紅禄は競馬好きでもあった。鳴尾に競馬場を作った。

本日講演の本題のスポーツに入る。1996年に開場した西宮ヨットハーバーがある。西宮に住んでいた森繁久彌は大変なヨット好きだった。加山雄三は湘南出身であるが「若大将シリーズ」は西宮のヨットハーバーで多く撮られている。阪神間の海岸は白砂青松だから絵になる。芦屋ロックガーデンは日本人の命名だ。日本や欧州アルプスにつながる。大正14年(1925)創設の神戸ローンテニス倶楽部がある。テニスでは神戸にも長年住んだ清水善造はウインブルドンでの「ゆるやかなボール」でもよく知られている。彼のエピソードは高校受験に出題された。

関西初のプロ野球は大正13年(1924)宝塚大運動場で行われた。全国中等学校野球大会は豊中運動場で始まった。豊中運動場では野球、ラグビー、サッカー三大スポーツ全国大会が開かれた。いまの西宮ガーデンには昔、阪急ブレーブズ本拠地の西宮球場があった。戦後第1回目の全国野球選手権は西宮球場で行われた。1年で甲子園球場に戻るが甲子園球場の前は鳴尾球場で行われた。戦前、甲子園球場ではスキージャンプ博覧会が開かれた。今アメフト、甲子園ボールが開催される。

阪神間とスポーツとの関連ではゴルフは外せない。日本最初のゴルフ場は明治34年(1901)に英国人,グルームが作った六甲ゴルフクラブである。2番目は阪神電車の青木駅近くの戦後魚崎中のあった場所に1904年に出来た横屋ゴルフアソシエーションである。10年ほどで閉鎖された。横屋閉鎖後、鳴尾浜に1920年に鳴尾ゴルフアソシエーションが出来た。その後川西市に移り名門の鳴尾ゴルフ倶楽部として現役だと、高木先生は鳴尾ゴルフ倶楽部の名が書かれたネクタイを締めていますと会場で披露された。余談ながら、横屋ゴルフについて、叔母から生前「開所式に宮様が来られた。そこは元庄屋の福井家の土地で昔綿花畑だったところだ。」と少年時代に聞いたことをはっきり憶えている。高木先生から思いがけずも横屋ゴルフの話を聞くことができ不思議なご縁を感じた。

1時間半の高木先生の講演を1~2枚に書き切れない。講演の後、西宮文化協会、山下会長は「5~6年前から高木先生に講演をお願いしたいと思っていた。平日ということもありなかなか実現しなかった。2月は韓国、平昌五輪開催最中である。スポーツを焦点にお話をお願いしたところ、阪神間の文化は大阪上方文化・財力が底流を流れていることにも触れていただき、多くのことを教えられたと挨拶された。いつもながら貴重な機会に恵まれ西宮文化協会事務局の皆様にひたすら感謝である。(了)

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