★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Changeling

2012-02-25 23:36:53 | 映画


私は、取り替え子(Changeling)伝承を単に知識として知っているだけだから、実際にこの伝承が生きている社会でこの映画をみるとどういうことになるのか、ちょっと想像がつかない。

とりあえず、イーストウッドの映画のいくつかのように、勧善懲悪を脱構築して見る者を考える人間へと導こうとするやり方は見事だった。

前半は、行方不明の男の子が見つかっていないのに、適当な他人を見繕って「発見」したといいくるめようとし、即座に間違いに気付いた(←当たり前)母親を精神病院に放り込むなど、あきれてものもいえんような警察のめちゃくちゃぶりが描かれている。その母親を救い出すのは、ラジオを使って説教をするような反警察の神父や弁護士、ちゃんと仕事している刑事達、果ては、もともとマスコミの警察に対するネガティブキャンペンーンの影響下にあった市民達である。犯人と思しき男もつかまった。ここまではわかりやすい。問題は後半である。子どもが殺された確証はまだないのに、警察は犯人と思しき男が男の子を殺したことにして事件の幕引きをはかり、おそらく市民のなかでも「子どもが殺人犯に殺されたにも関わらず警察と闘った母親」としての像が一人歩きし、神父も「子どもとは天国で会える」とまで言い出す始末。母親の孤独な戦いは、実はここから始まっている。この戦いは、彼女が(おそらく彼女自身にも)孤独であることが分からないほど孤独なものである。犯人とされている男も、監獄での宗教的な教育やなにやらで、真実を母親に伝えることも出来ないほどおかしくなってしまっていた。彼は「地獄に堕ちたくない」というが、これは、この犯人の罪を通告したある移民?の子どものいったせりふと同じであり、母親も最後にはっきりした根拠もなく彼に「地獄に堕ちろ」と言ってしまう。権力はあからさまな暴力による警察みたいなものにもあるが、たぶん善意で動いているマスコミ、市民、キリスト教(←これ重要)にもある。映画は、前半で前者を糾弾し、後半で後者を糾弾しようとしてできないでいる。それは我々が生存している基盤そのものを疑う極めて困難なことだからである。死刑の場面をカットせずにわざわざ長々と描いているのも、その企図によるであろう。最後、息子がまだどこかで名乗り出ることが出来ずに生きている可能性、死んだとしても最後に人助けをしていたことが示唆され、母親も「今まで見いだせなかった希望が見つかった」と言う訳だが、単に息子が生きている可能性が生じたことへの「希望」という意味でも、上記のような全体としてどうしようもない社会の中での「パンドラの匣」的な「希望」という意味でもなかろう。母親は、単に生きているか死んでいるか、殺されたのか殺されていないのかという「意味」の中にいた息子が、いろいろなことを考えながら生きている、あるいは生きていたという「意味」の中にうつされたことを実感したのであろう。彼女もようやく自分がやってきたことに対する意味を見いだせたはずである。生か死か、正義か悪か、ではなく、とりあえず「考えながら生きて行く他はない」と言っているようである。

寝不足で体調不良の中観たので、このぐらいしか思いつかないのだが、もう一度観てみたいと思った。