★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

投企と動物

2011-09-30 05:33:51 | 思想


昨日考えていたのは、投企と動物について。これについては来年論じてみる予定。本当は、これを大学院の時にやらなければならなかったのだが、勉強不足で問題自体に想到しなかった。悔しい。せいぜい私がやっていたのは、中井正一が「鳥獣戯画」について言った、逃避としての──動物と戯れる自由な空間を空想することであったらしい。これまでのブログをみりゃ一目瞭然だわな……

上の右側の人は×××ガーを描こうとしてたら、ヒトラーになってしまったけど、まあいいか……

呪!誰かが20万アクセス目

2011-09-29 03:40:09 | 文学
昨日、誰かが通算20万アクセス目を踏んだ模様ですが、みなさんいかがお過ごしですか。
記念に、小林勇『蝸牛庵訪問記』の末尾、露伴臨終のシーンをお届けします。

 武見氏の手が先生の手から離れ聴診器が耳からはずれされた。そして型どおりの挨拶が文子さんに向かってされた。
 九時十五分であった。
 文子さんが静かな声で「お父さん、お静まりなさいませ。」と言った。

卒業論文の呪いを開始します

2011-09-27 01:35:28 | 大学


卒業論文の季節である。というより、一年前から既に卒業論文の季節はやってきているのであるが、さすがに焦ってくるのがこの時期である。図書館で蒼白になって亡霊のように歩いている人々がいたら、それは四年生である。しかし、もしそのような状態になっていなかったとしたら、その大学の卒業論文のレベルは地に墜ちているか、本人が自力で書いていない状態であると考えてよい。

というわけで、わたくしが四年生にむけて毎日「君は天才」の呪文を唱えるので、みんながんばってくださいね。

アーレントの恋人擁護

2011-09-25 05:05:42 | 思想


ハイデガーフォーラム以来、ちょっと気になることがあって『アーレント=ハイデガー往復書簡』とか、上の『アーレントとハイデガー』などを読み直している。後者は、比較的短い書物なので、全体を読み直してみた。大学の頃だったかそれ以降だったか、アーレントの『人間の条件』を読んだ。ポリスには、公的領域(仕事)に自由が、私的領域(労働)にこそ不自由があった、しかしその二つが近代の「社会」というものによって曖昧になってしまい、どちらかというと私的領域みたいな不自由さが我々を覆っている。と、彼女の主張を当時私は要約していたので、……まさに、女の子とのつきあいに自由はないが、論文には自由があるといった感じだと思ったものだった。(たぶんいま読めば、アーレントがそんな楽天的ではなかったことが判明するような気がするが……。)アーレントもハイデガーに負けず劣らず、過去の「人間」に対して何かロマン的幻想を抱いているようである、ぐらいに私は考えていた。

しかーし、女の子とのつきあいに自由はないとか考えているのは、やっぱりそりゃ倦怠期だからだろう……。我に返った後だろう……。世にロマン主義者が絶えないのは、恋愛には私的ではない(つまり相手がいる)のに何かを現世ならぬ自由を幻視させる効果があるからであろー。アーレントも酷い現世ではないポリスに恋愛しているのではなかろうか。アーレントも案外、ハイデガーの恋愛をそんなものと見ていたのかも知れない。ナチス協力者としてのハイデガーをユダヤ人として批判することは彼女の生存を賭けた「社会」的「労働」であり、非常に現世的なものであるから、それはそれである種の不自由な営みである。しかし彼女は彼女の主張通りに、そこから逃れようともしていたのではなかろうか。ハイデガーを擁護したのは彼が哲学の師匠であったためではなく、哲学と同時に恋した恋人であったからだ。

と、そんなことを妄想した。

私の妄想もなんの根拠もないが、『アーレントとハイデガー』もかなり妄想に走っていたように思われた。私は基本的に伝記研究はあまり好きでないのである。上の私のように何かわかったような気がしてしまう。以前に、松岡正剛が、露伴の晩年を描いた小林勇の『蝸牛庵訪問記』について書いたときに、露伴全集を読んでからこれを読めといっていたのは正しい。逆はよくない。まさに露伴も「労働」人間だったという気がしてきて、我々はなんだか自分と似ていて嬉しくなってしまうからだ。

ミケ失恋物語

2011-09-23 14:09:11 | 日記

あれ?



カップル


吾輩(ミケ)








ねえ、お前さん、あちらで失神している猫がいるわよ


気にするなただのヘンタイだ


なんだと!


あっち見ないようにしよう


誰がヘンタイだ!この野郎!


……

吾輩と吾輩

2011-09-23 13:36:07 | 日記

愛に包まれて吾輩は**ちゃんに会いに行くのである。

 
**ちゃんを探すのである

 
愛の階段を駆け上がるのである


吾輩はミケである。階段の方でどたばたやってる奴がいるのである。


こっち見ないでよ


あいつからは逃げなければならぬ。絶対吾輩を狙っているのである。一度は振ってやるつもりである。

(続く)

風は吹かなくて結構、命は賭けなくて結構

2011-09-22 23:25:44 | 日記
佐藤良平球団代表は、「新しい風を入れたい」とか言ったらしい。またど素人がつまらん比喩で遊びおって。風で野球が勝てるのかよ。そして落合監督の次は、高木守道氏らしい。そして「失敗は許されない。余命を懸けてやる。」と高木氏はコメントしたらしい。氏はもう70歳である。本人がどう思っていたとしても、「余命を賭けてやる」と70歳になった人に言わせてはならないのではなかろうか。 余命を賭けると言ってよいのは、失敗しても何回でも賭けられるほど十分時間がある若い連中だ。

中日ドラゴンズ黄金時代終了のお知らせ

2011-09-22 21:27:47 | 思想


首位ヤクルトに4.5ゲーム差に迫っての4連戦の数時間前、中日落合監督の今シーズン限りの退団が発表された。

気が付いてみたら、落合監督は8年間指揮をとっていたわけだが、日本一1回(←53年ぶり)、優勝3回、2位2回、3位1回、それ以外の順位なし、の成績である。

2004 優勝
2005 2位
2006 優勝
2007 2位 日本一
2008 3位
2009 2位
2010 優勝
2011 現在2位→ヤクルト負けていいよっ

どうみても、私が20代までに見てきた中日の成績ではない。まるで昔の巨人か西武である。それまでの中日は10年に一度優勝すりゃいい程度のチームであり、当然そんな確率では日本一にしょっちゅうなれるはずがない。いつも巨人の優勝のお膳立て、勝率5割をうろうろ、優勝がないとわかると、中日スポーツの一面は、他のスポーツが取って代わる。永遠に最下位が続いても新庄の一本のヒットで大騒ぎの阪神デイリースポーツの方が、まだその意味ではましである。

ちなみに私の大学院時代の中日の成績……暗黒すぎる。

1995 5位
1996 2位
1997 6位
1998 2位
1999 優勝
2000 2位
2001 5位
2002 3位

あれ?私の心が殊更暗黒に見せていたらしく、優勝したこともしらなかった……が、もはや中日ファンの感覚は、V9以降の巨人ファン並みであり、優勝しなければ満足できないのだ。昔の巨人ファンは「巨人に勝つチームは非国民」といった勢いで完全に頭がイカ×テいたが、いまの中日ファンなら1㍉ぐらい気分がわかるのではなかろうか。監督が川上から長嶋に代わった巨人がいきなり最下位に転落した時の、ファンやメディアの発狂ぶりを思い出してみればよい(幼児だったので私は記憶にございませんけど)。常勝軍団のファンは潜在的にもう発狂してるんだよ。現在の中日ファンはBクラスで黙ってる昔の中日ファンじゃないぞ、たぶん。

野球人気が早慶戦などの大学野球からプロ野球にうつったのは、長嶋茂雄が立教から巨人にうつった時からのようである。もしかしたら、野球の報道が選手中心ではなく、「野村楽天」とか「落合中日」とか言ってチームの監督中心になったのも長嶋が巨人の監督になってからかもしれない。前に長嶋自身がNHKで語っていたが、野球で戦後復興を支えるために意図的にヒーローを演じていたという。戦争や政治と同様、我々はものの見方までメディアに(そしてメディアによる社会的効果に期待して演技する人に)振り回されている。しかしメディアを我々が信用できなくなって、陰謀史観的になりあれこれゴシップを想像するようになることは、今度は我々がメディアレベルの軽薄さにいずれは墜ちることを意味している。そもそもメディアの堕落は、我々の民度の堕落の反映以外の何物でもない。売れなきゃ困ると思ってくだらないレベルに墜ちるのがメディアだとしたら、我々も聞いてくれる人がいないければ淋しいと思ってくだらないことを喋り始めるに決まっている。現にそうなっている。

それはともかく、弱いチームのファンは、選手や監督が卓越したスポーツ人間であることよりも芸人みたいであることを望んでしまう。長嶋だって、巨人がV9時代の強さをなくしてから、より道化っぽくなってしまったではないか。野球はどうでもよくなってしまうのだ。のみならず、もともとファンですらないメディアが野球を大切にした報道をするはずがなく、それを読んだ読者もますます野球とは関係ないことで騒ぎ出す。「愛されるチーム」だか「親しみやすい監督」だか知らんが、野球その物とは関係ないだろう。野球は確かに興行ではあろう。でもマッサージとかレストランじゃないんだよ。芸術に近いんだよ。そのものに興味がない人間が、金を払ってるんだからもっとサービスせえとうだうだ言う権利はない。これは野球に限らないが、卓越した人間に対する畏怖の念を忘れた国民が民主主義なんか出来るはずがない。我々は完全に人間としては平等であるが、全ての人間の声が平等に扱われなくてはならぬということはない。為政者の声の押しつけではなく、良質な声がひたひたと知らないうちに「選別」されてゆくのに我慢することが民主主義の精神である。そのためには、ニーチェ的な意味での奴隷の声は無視するのが一番である。そんなうまくいかないことはわかってはいるが……。問題は、こういう事情が、今の経営者やリーダーに自覚されてるかどうかである。自覚してぎりぎりの選択をするのはいいかもしれんが、「客のため」とか「所詮資本主義だから」程度の認識で苦悩しているつもりになっているとしたら、こまったもんじゃなかろうか。そして、そうでないと、例えば学問やスポーツしか秀でていない人が逆に「日本の中で自分は孤立しているがだからこそすごい」といった全能感に溺れていき、こちらはこちらで子ども化して行く事態を防ぐことは出来ない。それと関係あるかわからないが、私は芸人やスポーツ選手のトップクラスの給料は明らかに高すぎると思っている。政治家の給料に文句を付ける大衆が、何故かスター達の給料に文句を付けないのは、彼らが抑圧され疎外されていると思っている大衆の自意識の鏡の役割をしているからかもしれない。

とりあえず、中日の黄金時代はたぶん今年で終わりかもしれない。でも今日はとりあえず勝ったみたい。