一字一句・皆真言なり一文一偈・妄語にあらず外典・外道の中の聖賢の言すらいうこと・あやまりなし事と心と相符へり況や仏陀は無量曠劫よりの不妄語の人・されば一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし、初成道の始より泥洹の夕にいたるまで説くところの所説・皆真実なり。但し仏教に入て五十余年の経経・八万法蔵を勘たるに小乗あり大乗あり権経あり実経あり顕教・密教・輭語・麤語・実語・妄語・正見・邪見等の種種の差別あり、但し法華経計り教主釈尊の正言なり三世・十方の諸仏の真言なり、大覚世尊は四十余年の年限を指して其の内の恒河の諸経を未顕真実・八年の法華は要当説真実と定め給しかば多宝仏・大地より出現して皆是真実と証明す、分身の諸仏・来集して長舌を梵天に付く此の言赫赫たり明明たり晴天の日よりも・あきらかに夜中の満月のごとし仰いで信ぜよ伏して懐うべし。
今風に言えば、メディアリテラシーみたいなことを教示しているのである。我々はほっておくと、世界に対して五感を画用紙にぶちまけたようなアメーバ状の認識をしており、それはそれで神話的で面白いのだが、その画用紙を被って盲滅法突進する輩もいないとは言えない。これは経験で得られた知恵なのである。だから宗教はしばしばアメーバーに階層を付けたりそれは裏に隠しておけ、といったりするのである。
例えば、ルッキズム云々の話が出る度に思うのは、連合赤軍や日本赤軍やら様々な党派の/に対するルッキズムで、その内部でも問題化していることだけど、世間?がやたら美人だイケメンだかっこいいとかかわいいとか言い始めるのは興味深いことだ。オウムの時もそうだった。つまり、それは我々の五感への意識なのであり、それが社会的な棚に入れられたときには、排除であり包摂であり崇拝でもありいじめでもありうる。たしかにこういうのが欺瞞と感じられれば、アイドルでもなんでも崇拝に特化した方が自意識上潔く感じられるというのはある。これも、大きな偉大な棚に入るのはひとつだけという意識で或る。そりゃ前田敦子氏も基督を超えたりする訳だ。
折口信夫が最初の和歌集のあとがきで、短歌が生活の拍子にそぐわなくなったのは近代のことじゃないんだと言っている。わたしもそう思うのだ。和歌も棚の一首であり、確かに棚どうしが繋がっているので巧妙だとは言えようが、棚は棚である。恒に和歌は生活の拍子には合わないのだ。
云えば、雌山羊の乳をしぼれば、他の者が篩をその下に差し出していると云う、そんなはかない生活なので、躯工合でも悪くなると、あれこれと考えるのだが、まあ、米の飯とお天道様はついてまわるだろうと思っている。月黒うして雁飛ぶこと高しで、どんなみじめな日が来ても、元々裸身ひとつ故、方法はどのようにもなるだろう。
――林芙美子「生活」
わたしにはこれもやはり一種の棚のように見える。