★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2022-05-31 23:41:58 | 思想


一字一句・皆真言なり一文一偈・妄語にあらず外典・外道の中の聖賢の言すらいうこと・あやまりなし事と心と相符へり況や仏陀は無量曠劫よりの不妄語の人・されば一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし、初成道の始より泥洹の夕にいたるまで説くところの所説・皆真実なり。但し仏教に入て五十余年の経経・八万法蔵を勘たるに小乗あり大乗あり権経あり実経あり顕教・密教・輭語・麤語・実語・妄語・正見・邪見等の種種の差別あり、但し法華経計り教主釈尊の正言なり三世・十方の諸仏の真言なり、大覚世尊は四十余年の年限を指して其の内の恒河の諸経を未顕真実・八年の法華は要当説真実と定め給しかば多宝仏・大地より出現して皆是真実と証明す、分身の諸仏・来集して長舌を梵天に付く此の言赫赫たり明明たり晴天の日よりも・あきらかに夜中の満月のごとし仰いで信ぜよ伏して懐うべし。

今風に言えば、メディアリテラシーみたいなことを教示しているのである。我々はほっておくと、世界に対して五感を画用紙にぶちまけたようなアメーバ状の認識をしており、それはそれで神話的で面白いのだが、その画用紙を被って盲滅法突進する輩もいないとは言えない。これは経験で得られた知恵なのである。だから宗教はしばしばアメーバーに階層を付けたりそれは裏に隠しておけ、といったりするのである。

例えば、ルッキズム云々の話が出る度に思うのは、連合赤軍や日本赤軍やら様々な党派の/に対するルッキズムで、その内部でも問題化していることだけど、世間?がやたら美人だイケメンだかっこいいとかかわいいとか言い始めるのは興味深いことだ。オウムの時もそうだった。つまり、それは我々の五感への意識なのであり、それが社会的な棚に入れられたときには、排除であり包摂であり崇拝でもありいじめでもありうる。たしかにこういうのが欺瞞と感じられれば、アイドルでもなんでも崇拝に特化した方が自意識上潔く感じられるというのはある。これも、大きな偉大な棚に入るのはひとつだけという意識で或る。そりゃ前田敦子氏も基督を超えたりする訳だ。

折口信夫が最初の和歌集のあとがきで、短歌が生活の拍子にそぐわなくなったのは近代のことじゃないんだと言っている。わたしもそう思うのだ。和歌も棚の一首であり、確かに棚どうしが繋がっているので巧妙だとは言えようが、棚は棚である。恒に和歌は生活の拍子には合わないのだ。

云えば、雌山羊の乳をしぼれば、他の者が篩をその下に差し出していると云う、そんなはかない生活なので、躯工合でも悪くなると、あれこれと考えるのだが、まあ、米の飯とお天道様はついてまわるだろうと思っている。月黒うして雁飛ぶこと高しで、どんなみじめな日が来ても、元々裸身ひとつ故、方法はどのようにもなるだろう。

――林芙美子「生活」


わたしにはこれもやはり一種の棚のように見える。

上界を涅槃と立て屈歩虫のごとく

2022-05-30 08:25:26 | 思想


其の所説の法門の極理は、或は因中有果、或は因中無果、或は因中亦有果亦無果等云云。此外道の極理なり。善き外道は五戒・十善戒等を持ちて、有漏の禅定を修し、上、色・無色をきわめ、上界を涅槃と立て屈歩虫のごとくせめのぼれども、非想天より返って三悪道に堕つ。一人として天に留るものなし。而れども天を極むる者は永くかへらずとをもえり。各々自師の義をうけて堅く執するゆへに、或は冬寒に一日に三度恒河に浴し、或は髪をぬき、或は巌に身をなげ、或は身を火にあぶり、或は五処をやく。或は裸形、或は馬を多く殺せば福をう、或は草木をやき、或は一切の木を礼す。此等の邪義其の数をしらず。師を恭敬する事諸天の帝釈をうやまい、諸臣の皇帝を拝するがごとし。しかれども外道の法九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。善師につかへては二生三生等に悪道に堕ち、悪師につかへては順次生に悪道に堕つ。外道の所詮は内道に入る即ち最要なり。

「上界を涅槃と立て屈歩虫のごとくせめのぼ」るというのが、なんとなくかわいらしい感じがするのも、それが外道ではあるけれども内道に入るためであろうか。うちの庭におった尺取虫も冬を越してどこに行ったのであろう。たぶんどこかで無事に暮らしているに違いない。

悟りとは認識ではなく、一種の諦めでは無かろうか。わたくしの小1のときの絵日記にも、人は虫と一緒ですぐ死ぬとか書いているので、案外人間、悟るのは簡単であるようだ。悟っているからあとの長い人生がかえって苦しいともいえる。よく、30ぐらいになって、人がわかりあえないことが分かりましたみたいなことを悟る人が居るが、こんな程度の事を思春期以前に認識できないんだとしたら相当面白い教育を受けてきたとしかおもえない。我々は、確かに小学校などに行って、「上界を涅槃と立て屈歩虫のごとくせめのぼる」みたいなところがある。「或は冬寒に一日に三度恒河に浴し、或は髪をぬき、或は巌に身をなげ、或は身を火にあぶり、或は五処をやく。或は裸形、或は馬を多く殺せば福をう、或は草木をやき、或は一切の木を礼す。」――たしかに、小学校の教育みたいである。しかし、これが外道であっても内道に至ればよいのだ、と思って中学にゆくと、これはこれでもう一回虫的な修行が待っている。小中接続とかいっている人は多いし、確かに分かる部分もあるけれども、実際は、中学の小学校化が起こっていて、意図的に幼稚にさせられている側面もあると思うのだ。思春期だからいらいらしてるんじゃないんだよ、幼稚な強制にいらいらしているやつも多いのだ。

最近は、さすがにこういう誤った修行に対する懐疑が向けられ、――而して、我々は全人的教育は無理なんじゃないかと思い始めたせいか、長所とやらを伸ばせみたいな考え方もある。確かに職場で人を育てるというのは、何か使える能力を整えるということなんで、まあ長所を伸ばす方向性でもいいと思う。職場は確かに野球チームに似ているからだ。がっ、子どもを育てるというのはどうみても別もんである。使えない部分のカバーの仕方を考えるということを外せない。今の社会、はやいうちからチーム内人間としての人間教育と子どもの教育を混同させられて、結果、自分が使えないやつだと思う傾向あるね。しかも自分以外のやつが勝手に長所を決めている。親や教師は上司にあらず。

そういえば、大学の世界で管理職の育成が難しいといわれており、確かにそう思う部分もある。思うに、就職して一回教える大学生の精神年齢にまで退行する傾向があることと関係がある気がする。だれでも急に屈歩虫としては人間になれないのであった。

戦後、我々が子供じみている理由は戦前の社会の馬鹿さや戦争にあるような気がしていたのだ。もしかしたら、鎌倉仏教の英雄たちもそんな気がしていて、頑張っていたのかも知れない。しかし、事態はもっと深刻で、本質的であったとしかいいようがない。我々は、半端に教育や成熟を考えすぎている。まだいい加減にほったらかしたほうがましだったと、仏教者たちはインドの修行者たちを見て思っていたのである。

礼楽前に馳せて真道後に啓く

2022-05-29 02:43:46 | 思想


 而りといえども、過去・未来をしらざれば、父母・主君・師匠の後世をもたすけず、不知恩の者なり。まことの賢聖にあらず。孔子が「此の土に賢聖なし、西方に仏図という者あり、此聖人なり。」といゐて、外典を仏法の初門となせしこれなり。礼楽等を教へて、内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため、王臣を教へて尊卑をさだめ、父母を教へて孝の高きことをしらしめ、師匠を教へて帰依をしらしむ。妙楽大師云はく「仏教の流化実に茲に頼る。礼楽前に馳せて真道後に啓く」等云云。天台云はく「金光明経に云はく、一切世間所有の善論皆此の経に因る。若し深く世法を識れば即ち是仏法なり」等云云。止観に云はく「我れ三聖を遣はして彼の真丹を化す」等云云。弘決に云はく「清浄法行経に云はく、月光菩薩彼に顔回と称し、光浄菩薩彼に仲尼と称し、迦葉菩薩彼に老子と称す。天竺より此の震旦を指して彼と為す」等云云。

「開目抄」は冒頭から、大事なのは主と師と親だと言っている。世の中があまりに乱れていたためであろうか。それにしても礼楽というものが重視されているのはいまでも検討に値する。儒家の礼楽思想における音楽は一種の鎮静剤で、心を鎮めて政治を行うことと関係していたらしいが、次第にそうではなくなり、玄宗皇帝が音楽を自ら娯楽的に楽しむようになったらしい。(森新之介氏「平安時代における礼楽思想と天皇奏楽―盛唐以前と 比較して―」)

とはいっても、音楽をちょっと囓ったわたしの経験から言うと、音楽は確かに儀礼的なところがあり、政治的なはたらきと関係もある。音楽の団体というのは、一種の政治形態なのである。これは、日本の体育会系が政治形態であることとは違ったニュアンスをもつ。「善」と「治安」が関係づけられた形態なのである。というわけで、更に、これが再びスポーツと結びつくとこうなる。

H27.10.04 甲子園全体で六甲おろし歌う(カープファンも) 広島×阪神 最終戦


阪神ファンたちがたびたび襲いかかる暗黒時代に耐えて、革命など起こさずにいるのは、六甲おろしのおかげである。がんばれドラゴンズ。

森林

2022-05-27 23:49:04 | 旅行や帰省


こないだの關東の大震災のときには、淺草の觀音のお堂の裏のいてふの木は片側半分は火に燒けても、他の半分の枝葉のために火がお堂に燃えうつるのを防ぎました。ひとりいてふに限らず、しひのきやかしのき等、家のまはりや公園の垣根沿ひに植ゑてある木は、平常は木蔭や風よけになるばかりでなく、火事の時には防火樹として非常に役に立ち家も燒かずに濟み、時には人の命すら救はれることがあることも忘れてはなりません。
 こんなに樹木でもお互にとつていろいろな役に立つことをお知りになつたら、みなさんも道ばたに遊んでる子供がなみ木の皮を剥いたり、枝を打つたりしてゐるのを見られたらすぐに言ひ聞かせて、とめて下さらなければこまります。それはとりもなほさず樹木を愛し、引いては山をも愛することになつて、國家の安榮をつくることになるからです。

――本田静六「心理と樹木と動物」


けんか売るべし

2022-05-26 23:34:41 | 思想


主人の曰く、客明らかに経文を見て猶斯の言を成す。心の及ばざるか、理の通ぜざるか。全く仏子を禁むるに非ず、唯偏に謗法を悪むなり。夫釈迦の以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能仁の以後の経説は則ち其の施を止む。然れば則ち四海万邦一切の四衆、其の悪に施さずして皆此の善に帰せば、何なる難か並び起こり何なる災か競ひ来たらん。

相手がわかりが悪いときに、「心の及ばざるか、理の通ぜざるか」――これは使える。言った後どうなるかはわからんが。。。

殺に四つ有り

2022-05-25 23:19:11 | 思想


又云はく「殺に三つ有り、謂はく下中上なり。下とは蟻子乃至一切の畜生なり。唯菩薩の示現生の者を除く。下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微かの善根有り、是の故に殺す者は具に罪報を受く。中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで、是を名けて中と為す。是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く。上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。阿鼻大地獄の中に堕す。善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。

日蓮の根拠はお経である。テクストというのは明らかに根拠となることがある。これを批判するのは簡単だが、それがなくなったときには、新しさや数字などがとってかわる。これは、旧や少を消去することであった。生き残りをかける連中は、みな比喩的に殺人者である。

莠言

2022-05-24 23:34:24 | 思想


客聊和らぎて曰く、未だ淵底を究めざれども数其の趣を知る。但し華洛より柳営に至るまで、釈門に枢楗在り、仏家に棟梁在り。然るに未だ勘状を進らず、上奏に及ばず。汝賎しき身を以て、輙く莠言を吐く。其の義余り有り、其の理謂れ無し。
主人の曰く、予少量たりと雖も忝くも大乗を学す。蒼蝿驥尾に附して万里を渡り、碧羅松頭に懸かりて千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事ふ。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさざらんや。


客はつい、エライ人はいまだ政府にたてついたこともないぞ、お前は身が卑しいくせに、と言ってはいけないことを言ってしまっているのだが、これはこのテクストの語り手が言ったことである。確かに、追いつめられるとこういう身分やら何やらを持ち出すバカは世の中に沢山おり、何をするのか分からない輩である。日蓮は、こういう輩に対しては悟る必要なんかないんだということを、テキストの上で上演した。これはのちのプロレタリア文学の手法である。客は主人のことばを「莠言」として、善意は表面だけの裏の悪意を読む。そして、こういう悪口は、すぐお前こそそれを使っているじゃないかと反転出来るからである。

「太田南畝っていったい何だい」
「蜀山人の事さ。有名な蜀山人さ」
 無学な私は蜀山人という名前さえまだ知らなかった。しかし喜いちゃんにそう云われて見ると、何だか貴重の書物らしい気がした。
「いくらなら売るのかい」と訊いて見た。
「五十銭に売りたいと云うんだがね。どうだろう」
 私は考えた。そうして何しろ価切って見るのが上策だと思いついた。
「二十五銭なら買っても好い」
「それじゃ二十五銭でも構わないから、買ってやりたまえ」
 喜いちゃんはこう云いつつ私から二十五銭受取っておいて、またしきりにその本の効能を述べ立てた。私には無論その書物が解らないのだから、それほど嬉しくもなかったけれども、何しろ損はしないだろうというだけの満足はあった。私はその夜南畝莠言――たしかそんな名前だと記憶しているが、それを机の上に載せて寝た。


――漱石「硝子戸の中」


確かに、そんな題名の本は机において寝るのがいいのかもしれなかった。

せめて比較

2022-05-23 23:11:08 | 思想


慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云はく「唐の武宗皇帝の会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝へしむ。寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年回鶻国の軍兵等唐の堺を侵す。同三年河北の節度使忽ち乱を起こす。其の後大蕃国更た命を拒み、回鶻国重ねて地を奪ふ。凡そ兵乱は秦項の代に同じく、災火邑里の際に起こる。何に況んや、武宗大いに仏法を破し多く寺塔を滅す。乱を撥むること能はずして遂に以て事有り」〈已上取意〉。此を以て之を惟ふに、法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり。彼の院の御事既に眼前に在り。然れば則ち、大唐に例を残し、吾が朝に証を顕はす。

思うに、我々は自分の国が失策を行っているときに、このように中国でも同じような場合があって、なぜなのかは分からないがこういうのはたぶん因果がありますよ、という単純なことすら出来なくなっている。これは、自分の失策だけをみつめて、自分の失策の原因だけに集中するような行き方を強いられていることと関係がある。だから、自分に対しては異常に神経質だが、外側で起こる単純な出来事がわからなくなっているのである。わたくしもそういうところがあるから危機感は常にあった。

そういう閉じ方をすると我々の世界はホームドラマとなってゆく。日本の大河ドラマはなぜかずっと日本の時代劇なわけだが、まあ閉じてるっちゃとじてるわけで、リアルだなと感じれば感じるほど我々は自分の顔を覗き込んでいる。今回の「鎌倉殿の13人」なんかがそうだが、二葉亭の「浮雲」を殺し合いにした感じである(違うか)。わたしはいままで大河ドラマはほとんど見てきていないんだが、たぶん歴史ドラマが写実主義的にホームドラマ化してきててあれなので、とりあえず八犬伝に帰るという手があると思う。いまのCGならイケル。

昨今の大河ドラマは、平家物語以来の殺し合いをPDCAサイクルみたいになんかいも修正しながら自意識過剰に陥っているのではなかろうか。我々のブリコラージュの本能は、かくして我々をつくりあげている。

最后に善財は彌勒を訪ねる。彌勒は永久の次代の王者を意味し、彼の前に未来の国家を展開する。その中には河脈をめぐる共同体の連結による無数の国家群が入り重って、複雑なアジア的生産様式の純粋な型をしめしている。いつでも純粋生産ののぞきからくりを重たげにかついでくる彌勒は、しかし純粋王者のこの青年を内陣え入れてくれない。彼を導くのは仏母文珠の外にはない。アジア的生産の典型的な表現であるこの母なる男性は、普賢すなはち「貴族の常識」に彼を紹介する。普賢は裏切りを繰り返すたびに、自ら万有の推移力と自称する。彼はアジア的な微積分の重複し合った前期封建の宝城の中に、善財を見出させる。

――槇村浩「華厳経と法華経」


だからといって、危機感をこう説明してしまうと、これはこれで元気になりすぎる輩が出てくる。

日蓮にもおそらく危機感はあったのだ。そのとき彼の基礎教養が、原因はここにありと告げた。間違っているかもしれないが、こういうアクションを起こさなくてはならないことがある。それはお告げのような、韻律のような何かである。空海は歌ったが、日蓮は怒ったのである。

おれたちのX

2022-05-22 23:53:29 | 思想


主人咲み止めて曰く、辛きを蓼葉に習ひ臭きを溷厠に忘る。善言を聞いて悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ひ、正師を疑って悪侶に擬す。其の迷ひ誠に深く、其の罪浅からず。事の起こりを聞かんとならば、委しく其の趣を談ぜん。

「立正安国論」は、主人の客への説教であり、説かれれば説かれるほどだんだんと客が怒ってゆく感じがすごい。その説教は、まるで先行研究批判というかエビデンス列挙の趣だからというのもあるんじゃなかろうか。

われわれの自我とは、自己同一性もどきで成立している。それは他人を空間化して捉える一種の呪術的ななにかである。その空間がひとつであるような錯覚がおきると狂的なナショナリズムになったりする。移動が難しい我々はそうなりがちだ。わたしは引っ越し十二回のけっこうな流浪系だと思うが、幸運であった。かようにできあがった自我は、なんか落ち着かない感じがすると同時に、――おれたちの藤村、おれたちの義仲からはじまり、おれたちの空海、など自己同一性もどきが増殖してどんどん偉くなった気分になって来ていることも確かである。義仲から空海の間にもけっこうな大物がいる。名古屋時代は、中日時代の落合選手、山梨時代は、たまたまそこにむかし来たという芭蕉にわたしはとらわれたし、茨城では、――誰かいたかな?――それはともかく、そんなかんじである。空海については、うどんや池が目くらましだったが、最近ちゃんと本を読んでみたらやはり偉い奴だと分かった。ただし、この人は讃岐からでていっているので、どちらかというとおれたちの藤村のフォルダに入っている。おれたちの義仲フォルダに入っているのは無論崇徳院である。わたくしの移動によって、そこに纏わり付いてきた他人が空間と化すのである。で、勢い余って「おれたちの」とか言ってしまう。

私は、「夏草や兵どもが夢の跡」と言ったかと思えば、「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」と言って、おれの「X」を「おれたちのX」にしていたに違いない。しかし、あまりに移動しすぎると孤独感が勝って、義仲の隣に埋めてくれ、みたいな「おれの義仲」に戻ってしまう。

それはともかく、そうはいっても、われわれは自己同一性はつねにもどきであるし、複数存在している。だから、そういうひとを説得するには、相手をおれたちのXにアイデンティファイして攻撃し、自分のXの数を増やす(エビデンスを増やす)のは得策ではない。それをやっていいのは、空海みたいに説教ではなくてポエムを歌うようなやり方においてではなかろうか。でも、空海だって、どちらかといえば、三教指帰は自己対話だったのではなかろうかと思う。

と思うのは、わたくしが文藝好きだからであろうか。

日蓮の嗅覚は、われわれの先祖たちが、念仏を唱えているだけでは飽き足らず、しかもいっこうに心が落ち着かない武士軍団たちの乱立状態に飽き足らず、強力な「おれたちのX」を求めたい欲望を秘めていることに、過剰に反応してそれもX扱いにしてしまった。

その同時代と、大衆への没落的の愛を抱かぬ者も予言者たり得ない。そのカラーを汚し、その靴を泥濘へ、象牙の塔よりも塵労のちまたに、汗と涙と――血にさえもまみれることを欲うこそ予言者の本能である。
 しかもまた大衆を仏子として尊ぶの故に、彼らに単に「最大多数の最大幸福」の功利的満足を与えんとはせずに、常に彼らを高め、導き、精神的法悦と文化的向上とに生きる高貴なる人格たらんことをすすめ、かくて理想的共同体を――究竟には聖衆倶会の地上天国を建設せんがために、自己を犠牲にして奔命する者、これこそまことの予言者である。


――倉田百三「学生と先哲――予言僧日蓮」


さりげなくベンサムなんかを引いてしまう倉田百三は、ベンサムすら自分のXにすべきであった。

言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず。

2022-05-21 23:55:53 | 思想


然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼り、乞客目に溢れ死人眼に満てり。臥せる屍を観と為し、並べる尸を橋と作す。観れば夫二離璧を合はせ、五緯珠を連ぬ。三宝世に在し、百王未だ窮まらざるに、此の世早く衰へ、其の法何ぞ廃れたるや。是何なる禍に依り、是何なる誤りに由るや。[…]倩微管を傾け聊経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず。

「立正安国論」は、第5代執権に提出されたけれども、反応は悪かった。のっけから、三宝と百王(天皇)は存続しているのに何故この世はかくもダメなのか、みたいな言い方であるから、どうみても、――お前らが悪いと言われているような感じだ。言われている武士たちからすれば、仏も念仏も大日如来も八幡大菩薩もいいけどそれ以上に「大和魂」(「源氏物語」)の感情労働的桎梏がつらいのに、信じてる宗教が悪いそれゆえ聖人はどっかいっちゃって魔や鬼ばかりじゃないかと言われては、坊主が何を偉そうに言っておるのかと思ったのかもしれない。確かに、地震によって世の中滅茶苦茶であり、見えるのは死体ばかりだ。しかし、もともと世はそうだったんじゃないかと、武士なら考えるのではなかろうか。武士もこの時代は念仏マシーンになってたのかも知れないがまだ光源氏的なところがあったのかもしれない。武士が破壊した浄土的妄想秩序は、武士自身たちにも共有されていて、故にか、今度は宗教者がそれにとどめを刺しに掛かった側面がないであろうか。

さきほど、NHKニュースで、北朝鮮のコロナ状況が報道されていた。そこで、人民に配布されているとおぼしき「愛の不死薬」の紹介があって、日本の昔のドラマかよと言った私に対して細がすかさず「愛の不時着」って韓流なかったっけ?と正確な情報をもたらしてくれたので、「愛の不時着」をググったが、めちゃくちゃ面白そうだな、このドラマ。

ある日、パラグライダーに乗っていた韓国の財閥令嬢が、突如竜巻に巻き込まれ、非武装地帯 (DMZ) を越境してしまい、北朝鮮 (北韓) に不時着したところを、北朝鮮の軍人に救助され、真実の愛に不時着するラブストーリー。(Wikipedia)


やっぱり令嬢+軍人+財閥、ってほぼ神話の三機能仮説(デュメジル)ではないが、主権+武力+富というバランスをとりながら葛藤してゆく話が転がってゆくのではなかろうか。日蓮がみた地獄のような世の中は、この葛藤がうまく機能せず、主権と武力に富が重なっている状態にあったのかもしれない。しかしだからといって、「愛の不時着」のように、越境してはならぬ境界がなければ葛藤が起こらないというのもどうなんだろうか。この場合、人々は、権力について考えぬまま越境行為自体を権力として無自覚にも見做すようになる。わたくしは、こういうラブストーリー、越境的研究、ウクライナ侵攻を全く別のものとして考えるやり方には反対である。

大きなものと感情

2022-05-20 23:55:39 | 思想


摧群心之蜋械。抜掎大千。投擲他界。不削大山。入於小芥。雨甘露雨。以誘以誡。班法喜食。韞智韞戒。悉詠康哉。兮撃腹壌。咸頌来蘇兮忘帝功。無量国之所帰湊。有情界之所仰藂。惟尊。惟長。以都。以宗。咨々。不蕩々哉。大覚之雄。巍々焉哉。誰敢比窮。此寔。吾師之遺旨。如々之少潨。彼神仙之少術。俗塵之微風。何足言乎。亦何足隆哉。

三教指帰をはじめからゆっくり読みすすめてくると、まるで、演説会をきいていたら、知らぬ間に3D総天然色SF映画を見させられていたという気分になる。空海が説く、仏教の威力とは映画みたいなものなのである。イメージの力とは見えていない色や聞こえない音を聞いてそこに喜びのような意味までも見ることである。甘露の雨とは本当に仏なのであって、いわば仏に濡れる。こんなことが普通なのであり、大千世界を引き抜いて別宇宙に移したり大山をケシ粒の中に入れるようなものが思い浮かべられれば、甘露の雨を仏とみることなど簡単だからである。これは楽しい想像である。喜んで腹など叩いてしまう。

考えてみると、ウルトラQとかスターウォーズが現れたときに、我々は新たな仏教みたいなものに触れたのかも知れない。こういうものを娯楽と飜訳するのは教えを思想だと思っている我々の悪癖である。

もっとも、イメージに浸るようになって、口うるさい人を排除するようになると、我々はある種の悟りにはいきやすいだろうが、しらないうちに話題そのものが抽出されなくなり、砂漠のような涅槃のような、――妙な状態に移行してゆくのではあるまいか。空海の劇も、最初の儒教と道教のうるさい言葉の激突があったからよかったのだ。

問題は、その激突が一応、壮大な夢を抱いていたということであって、――前提として、この道徳の聖人たちは、小さいことを目当てにしちゃおしまいよ、という程度の事は自明の理として分かっていたと思う。実際我々の小ささというのは、小さい目標へのまじめさを内面化し続けてきていることにある。すると長期的な目標はわからなくなることは当たり前のことだとしても、――最近は短期的な記憶や笑いや感情も失うことが判明したのである。我々の感情は、めあてをそばに置かないことで保たれていたのだ。そのことを福澤諭吉は分かっていたのかも知れない。

教育の目的は、人生を発達して極度に導くにあり。そのこれを導くは何のためにするやと尋ぬれば、人類をして至大の幸福を得せしめんがためなり。その至大の幸福とは何ぞや。ここに文字の義を細かに論ぜずして民間普通の語を用うれば、天下泰平・家内安全、すなわちこれなり。今この語の二字を取りて、かりにこれを平安の主義と名づく。人として平安を好むは、これをその天性というべきか、はた習慣というべきか。余は宗教の天然説を度外視する者なれば、天の約束というも、人為の習慣というも、そのへんはこれを人々の所見にまかして問うことなしといえども、ただ平安を好むの一事にいたりては、古今人間の実際に行われて違うことなきを知るべきのみ。しからばすなわち教育の目的は平安にありというも、世界人類の社会に通用して妨あることなかるべし。

――福澤諭吉「教育の目的」


我々の現実は、このあたりと大して違っているわけではない。しかし、福澤諭吉はエゴを感情だと思っているところがあると思う。私はそれは間違いで、エゴは感情の縮減によって起こるのではないかと思う者である。