帝皇至貴猶亦不得。而況凡人乎。以此為虚誕。以此号妖狂。何其迷哉。欒大両帝之徒。此乃。道中之糟糠。好仙之瓦礫。深可悪之甚。夫如是。故伝必擇人。非以尊卑。宜汝等。専心受学。無教後毀耳。能学之人。蓋異此歟。手足所及。豸蝝不傷。身肉之物。精唾不写。身離臰塵。心絶貪慾。目止遠視。耳無久聴。口息麁語。舌断滋味。
口が悪い御仁である。――皇帝さえ仙道を見出せなかったんだから凡人のわれわれなんか無理だよ、と言っているバカがイル。だから、仙人の道は、嘘だとか妖術だとか言われているのだ。何を血迷っているのだバカかっ。言うておくぞ、欒太とか始皇帝とか武帝とか、道中を学ぶ者のカスでありガラクタだ。深く深く憎む必要がある。このように、道教は人を選ぶんだよ。尊卑とかは関係ない。お前らも心を専らにしてひたすら学び、バカにされないようにしなくちゃならぬ。まず、てめえの手足が届く範囲の豸蝝(手足の長い虫)を殺しちゃダメ、体の中にあるもの――精液とか唾液とか垂らすんじゃねえ、つまりきたないものから離れる努力して欲を絶つんだ。遠くを見るな、長く聞くな、下品な言葉をはくな、濃い味を絶て。
始皇帝や武帝がだめなのは、殺したり飾ったり、欲を外に表現していたので、心も欲の塊となった。すなわち、心を清くするためには外部を消去すれば良いという理屈なのである。精液とか唾液が、その外部と内部の通路(つまり欲の表現)を象徴的に示すものである。これを引っ込めれば、外部を絶てるというわけだ。
わたしのように、蝝(いなご)を好んでいるやつは永久にダメなのである。
それに、この糟糠(カス)野郎と皇帝を罵っても、我々には糟糠の妻などを愛でる習慣さえある。
細君はマリネツトといふ愛称で呼ばれ、十年の糟糠の妻は、彼の眼に常に新鮮であつた。
彼は彼女を芝居に連れて行つて、さて云ふ――
「マリネツトもまた、彼女の楚々たる装ひに於いて成功した。レースにくるまつて、しとやかな共和の女神のやうだ」と。
彼はまた、一座の女たちの露骨な話題にうち興じてゐるなかで、自分の細君がどんな風かといふのを、「退屈しきつた純潔さ」と見るのである。
――岸田國士「愛妻家の一例」
ルナアルのことを語った文章なのだが、こういうことを言う人はまだまだかなりいる。しかし、こういうことをやめて自立した個になるとわれわれは自分らしさとか言って、始皇帝みたいな状態になろうとしてしまう。道教先生が言っているのは、おまえの内にそれじたいの価値などないという単純な事実である。しかしそのないという事実に即して生きることが可能だと言っているのである。我々は大人にも子どもにもなる必要はない。労働も自己実現も不要だ。
隠曰。夫大鈞陶甄無彼此異。洪鑪鎔鑄離憎愛執。非独厚彼松喬薄此項顔。但善保彼性与不能持耳。
天地の為す創造は鋳造のようなものだが、そこに愛憎の差、出来がいいとか悪いとかの差はない。赤松子や王子喬が仙人になれて、項槖や顔回が早死にしたのも、べつに後者が手を抜かれたんじゃないのだ。自らの性を保った者とそうでない者の差があるだけだ。
なにか現代の健康至上主義者のような言いっぷりである。これにくらべると、なんだかアメーバの様にただよっておりました、なんか生えて参りました、水蛭子だったので捨てました、みたいなどこぞの国生みなんか、生を他人のせいにする気満々である。亀毛先生に目的論の過剰さがあるなら、隠士には身体に向けられた科学主義がある。もう人間を創られた物としてロボットの様に考えている。しかしロボットは丁寧にしか作れないものなのである。
そういえば、道教的なお話の主人公である浦島太郎は煙状の何かを浴びて老人に変化した。いまだって、たばこを吸いすぎると体が崩壊するとか老けるとか言っているのと同じようなものであろう。浦島は、仙人の如く生きる人々とともに竜宮にいるときにはぴんぴんしていたのである。そのかわり、ある一部の(露伴とか。。)イジワルな人々が酒池肉林だったにちがいないとか言っているのを例外として――、案外健康的な生活を送ってたに違いない。太宰治の「浦島さん」は次の様に言う。
「ああ、琴の音が聞える。寝ころんで聞いてもいいんだろうね。」無限に許されているという思想は、実のところ生れてはじめてのものであった。浦島は、風流の身だしなみも何も忘れて、仰向にながながと寝そべり、「ああ、あ、酔って寝ころぶのは、いい気持だ。ついでに何か、食べてみようかな。雉の焼肉みたいな味の藻があるかね。」
「あります。」
「それと、それから、桑の実のような味の藻は?」
「あるでしょう。しかしあなたも、妙に野蛮なものを食べるのですね。」
「本性暴露さ。私は田舎者だよ。」と言葉つきさえ、どこやら変って来て、「これが風流の極致だってさ。」 眼を挙げて見ると、はるか上方に、魚の天蓋がのどかに浮び漂っているのが、青く霞んで見える。とたちまち、その天蓋から一群の魚がむらむらとわかれて、おのおの銀鱗を光らせて満天に雪の降り乱れるように舞い遊ぶ。
竜宮には夜も昼も無い。いつも五月の朝の如く爽やかで、樹蔭のような緑の光線で一ぱいで、浦島は幾日をここで過したか、見当もつかぬ。その間、浦島は、それこそ無限に許されていた。浦島は、乙姫のお部屋にも、はいった。乙姫は何の嫌悪も示さなかった。ただ、幽かに笑っている。
そうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れない。陸上の貧しい生活が恋しくなった。お互い他人の批評を気にして、泣いたり怒ったり、ケチにこそこそ暮している陸上の人たちが、たまらなく可憐で、そうして、何だか美しいもののようにさえ思われて来た。
「浦島は、乙姫のお部屋にも、はいった。乙姫は何の嫌悪も示さなかった。ただ、幽かに笑っている。」こういう言い方が太宰のいやらしさであった。太宰はたぶん戦時下をアイロニカルに情熱的に眺めていた。この情熱が強すぎて、浦島のようにすぐに状況に「飽き」るのである。飽きると人間は対義語に飛びつく。地上が「美しい」とか思ってしまうのである。
もっとも、このいい加減さは、水蛭子だったので捨てました、という我が神様と似ていると思う。
隠士曰、夫爀々弘陽。輝光煽朗。然盲瞽之流。不見其曜。磤々霹靂。震響猛厲。然声耳之族。不信彼響。矧太上秘録。言邈凡耳。天尊隠術。如何妄説。歠血遺盟。太難得聞。鏤骨示信。何曽易伝。所以者何。短綆汲水。懷疑井涸。小指測潮。猶謂底極。苟非其人。閇談喉内。実非其器。秘櫃泉底。然後見機始開。擇人乃伝。
儒教の道徳家は、しばしば観念と自分が離れていることを自覚しながら、結局、その間になんのつっかえぼうがなく、観念的自分みたいな癒着「主体」のようなものになってしまう。そこに出現するのは「主体」としての暴力である。それを指摘するには、まずは、お前は太陽に対して盲瞽である、と対象と自分をばっさり切り離されなければならないのだ。その切断は、プラトンの洞窟のなかの太陽によって生じる影の存在、のような退路を与えない。教育にはこういう言い方が必ず必要な局面がある。もっとも、この道教先生がおもしろいのは、ここで言をやめないことである。悪口の連鎖に見えるが、震響や天尊、歠血や鏤骨のイメージが、盲瞽のイメージを解体する。お前はバカだ、と言いながらそれを徐々に言わないのである。
しかも、このあと「短綆汲水」、鶴甁縄で水を汲む話をしてくる。短い縄ではダメダというんで、バカでも何となくいける気がしてくるわけである。短い縄を使う人は、つい井戸が涸れてると思ってしまうのだが違う。ただ、井戸は経験的にそんなことはわかるぜ、という反論が来そうだと思ったのか、小さい指では海の深さは計れないという反論を許さぬ例でそれを封じている。で、しかし、そんな深いところに指を届かせる理由が分からんから、秘櫃泉底――ひみつの箱があるんじゃと言ってのける。
行き当たりばったりの説得術に見えるが、行き当たりばったりというよりそれは教えを実体的に観念化しないためのうまい方策なのである。
早速右の肩が瘤の様に腫れ上がる。明くる日は左の肩を使ふ。左は勝手が悪いが、痛い右よりまだ優と、左を使ふ。直ぐ左の肩が腫れる。両肩の腫瘤で人間の駱駝が出来る。両方の肩に腫れられては、明日は何で担がうやら。夢にも肩が痛む。また水汲みかと思ふと、夜の明くるが恨めしい。妻が見かねて小さな肩蒲団を作つてくれた。天秤棒の下にはさむで出かける。少しは楽だが、矢張苦しい。田園生活もこれではやりきれぬ。全体誰に頼まれた訳でもなく、誰誉めてくれる訳でもなく、何を苦しんで斯様な事をするのか、と内々愚痴をこぼしつゝ、必要に迫られては渋面作つて朝々通ふ。度重なれば、漸次に馴れて、肩の痛みも痛いながらに固まり、肩腰に多少力が出来、調子がとれてあまり水をこぼさぬ様にもなる。今日は八分だ、今日は九分だ、と成績の進むが一の楽になつた。
然しいつまで川水を汲むでばかりも居られぬので、一月ばかりして大仕掛に井浚をすることにした。赤土からヘナ、ヘナから砂利、と一丈余も掘つて、無色透明無臭而して無味の水が出た。奇麗に浚つてしまつて、井筒にもたれ、井底深く二つ三つの涌き口から潺々と清水の湧く音を聴いた時、最早水汲みの難行苦行も後になつたことを、嬉しくもまた残惜しくも思つた。
――徳冨蘆花「水汲み」
近代では、描写というモメントがあったんで、だいたいこういう苦労があったね、という話になってしまうのであった。観念のかわりに視野が画面の様に我々を縛るのである。
虚亡隠士。先在座側。詳愚淪智和光示狂。逢乱之髪踰登徒妻。藍縷之袍越董威輦。慠然箕踞莞迩微笑。陳脣緩頬睢盱告曰。吁々異哉卿之投薬。前視千金之裘。猶対龍虎今観寸歩之蛇。若瞻鼱鼩。如何。不療己身膏育。輙尓。発露他人之腫脚。如卿療病。不如不治。
道徳を説く亀毛先生のそばにしらないうちに座っている虚亡隠士。「詳愚淪智和光示狂」、つまり、バカのふりをして狂気を装っている。まあしかし、この狂気で何かを隠しているようにみえる演技というのはすごく難しいのではないか。
いや、そうでもないのだ。いまネット世界で論戦を挑む人間のほとんどがこういう感じである。つまり、次のような態度と言葉がともなえば、バカの「ふり」しているようにみえるのである。すなわち、傲然と偉ぶりながら笑顔を振りまきながら目をきらきらさせていきなり「間違っている」と言うのである。――ああ、偉そうに快活に否定から入るあのバカどものことね、と現代人なら誰しも思い当たる節があるであろう。なんちゃって「自由人」である。こういう輩は、酒と女で遊んでいる不良よりもタチが悪い。亀毛先生が、動物化する説教マシーンだとすれば、この道教の人は比較する動物マシーンであり、立派な衣装を見て「竜虎」だとおもってみていたが、いまは「小さな蛇」をみて「子ネズミ」をみるようだ、自分の病気に気付いていないのに、他人の足の傷を治そうとするのはひどいよね、と。――悪口のための悪口からしゃべりだすのである。
しかし、考えてみたら、ここで問題になっている不良へ説教していた亀毛先生も、説教と言うより悪口を言っていたのであった。そういえば、今日は高峰秀子様の98才の誕生日であるが、この人も自分は悪口の天才だと言っていた。そして彼女のエッセイはその毒舌を案外ペダントリーの力で支えている。彼女はおそらく、様々な有名人との対談で、人の毒舌には何が必要か知っていったに違いない。ペダントリーは、論文やエッセイよりもむしろ対談とかで発揮されるものである。福田和也と坪内祐三の「革命的飲酒主義宣言」とかを読めば分かる。「三教指帰」が、鼎談の演劇であるのも納得である。
ただ、悪口の天才たちがたいがい現代のネット民程度のゴミクズで終わるのと一緒で、そこに必要なのは何か業のようなものである。高峰秀子と森雅之の共演でヒットした映画「浮雲」をみると、われわれがついに失ってしまった、上の「縷之袍」に光るクズ男の振る舞いというものを感じさせる。確かにこの映画の森雅之の演技はいやらしいほどすごいが、この映画で屍体を演技させても秀子様にかなうものはいないということが判明したのであってみれば、いっそ森雅之が演じたクズ男も秀子様がやったら最高であった、と思わせるほどである。しかしこれは、頑張って秀子様が生来の我が儘ぶりを発揮してなんとか森雅之のいやらしさに耐えた結果なのである。森雅之には、昔の男が持っていたクズ男の色気があった。
おそらく、道教のこの乞食男は、儒教的正論に抑圧されている男であって、高峰秀子が演じるパンパンに身を落とした女以上に、何か本質を奪われてしまった姿を体現していて、森雅之演じる不倫を重ねて落ちぶれた男もそうであった。いうまでもなく、「浮雲」は、敗戦後の男女没落以上に、倫理の没落そのものを描こうとしているのである。
ゆき子の眼は、生きもののやうに光つてゐる。気にかゝつて、もう一度、富岡は、ゆき子の眼を覗きこんた。ランプをそばによせて、じいつと、ゆき子の眼を見てゐた。哀願してゐる眼だ。富岡は、その死者の眼から、無量な抗議を聞いてゐるやうな気がした。ハンドバッグから櫛を出して、かなり房々した死者の髪を、くしけづつて、束ねてやつた。死者は、いまこそ、生きたものから、何一つ、心づかひを求めてはゐない。されるまゝに、されてゐるだけである。
腕時計は十二時を指してゐた。
――林芙美子「浮雲」
粤蛭牙公子跪而稱曰。唯唯敬承命也。自今以後專心奉習。於是兎角公下席再拜曰。猗歟善哉。昔聞雀変為蛤。猶懷疑怪。今見蛭牙鳩心忽化作鷹。葛公白飯忽為黃蜂。左慈改形倏作羊類。豈如先生之勝辯変狂為聖乎。
世の不良が案外多弁な説教に弱いのはこれを見ても分かる、――わけはないのだが、あまりに素直である。こいつももしかしたら、今はやりの口だけの人ではなかろうか。なにしろ、自分のやったことに対する反省がない。
曰く、雀が蛤になるとか、信じられないと思っていたがそんなことはなかった。いま、私の様な鳩の心が鷹の様になったのである。葛公という仙術使いの挿話のように、白飯が蜂の群れになることもあるし、佐慈という道教の人の挿話のように、警察から羊になって逃げたと言う話も話もある――と。この不良、先生の動物化する儒教話のように、自分が変身したかのように語っている。確かに、変身は起こる。それは変心というものが起こるような奇跡であって、確かにそれは起こる。空海はさしあたり、こんなかんじでありえないことの実在をまずは述べているといってよいのかもしれない。その奇蹟の度合いと言ったら、説教ぐらいで不良が更生しなければならないのだ。その不自然さを感じさせないためにも、――なにしろ、上の様な奇蹟よりも、先生の話によって自分の心が聖なるものに向かう方がすごいということになっているのである。「豈如先生之勝辯変狂為聖乎」。
心が変じるというのは、動物が変態するようも劇的なことだ。変態はいつも我々の心と関係なく人しれず起こっているが、変心はかならずわれわれの心の社会にダイレクトにつながっているからである。
私の魂は隠れたオーケストラだ。私のなかで演奏され鳴り響いているのがどんな楽器なのかは知らない。弦楽器、ハープ、ティンパニー、太鼓。私は自分のことを交響曲としてのみ知っている。
――フェルドナンド・ペソア
心を音楽として感じている詩人のみが、心を作曲し直すことも知っている。
轟轟訝輪隱隱溢衢驫驫送騎霈艾側墎。從者躡踵袂幕蔭天。徒御賀肩汗霖灑地。紫蓋飛空而雲翔。繡服拂地而風歩。盡訝迎礼極媵送義。同牢同尊合卺合体。褰珠簾而對鳳儀。拂金牀而比龍体。凌瑟以調韻。超膠漆而同契。笑偕老於東鰈。悝同穴於南鶼。消一期愁快百年楽。
素晴らしく迫力ある結婚式である。轟轟隱隱驫驫という字面だけでも地が揺れ空気が震える感じがする。果たして嫁入りの儀式は、かように社会主義国の軍事パレードの様なものであったであろうか。なにしろ、大酒飲み女遊びをしている不良に説教しているのだ。その快楽を上回るものを結婚のススメとして表現しなくてはならぬ。
わたくしの結婚式なんかこんな大げさなものではなく、唯一上のものに勝っていたのは、写真を撮ったぐらいのことである。ただ、行事とはなんたるかをわきまえた年を重ねた親戚たちが場を盛り上げてくれた気がする。祝祭は、料理というよりも、薪にいろんな物が投げ込まれて埃もふくんだ空気が震える必要がある。
我々の社会は、「近代化」を合理化と認識しているせいもあり、どうやって派手な行事を行うのか分からなくなってしまっている人も多い。わたくしもとても苦手である。日本社会で唯一そういうものの訓練によって身についているのは小学校の先生ぐらいではないか。
学園で暴れる世代をみて、お前らは意外に何もできてないじゃないかとアニロニー言ってた世代を見て、お前らは言うだけじゃないか実践だよねと言う世代が出現して今に至っているとして、――ほんとに何かをやれる人が増えてるわけでもない。花★清輝が言った様に、観念的に実践的であるほど非実践的であることを自覚せよみたいな、ある種の常識的批判が必要な世の中になってしまった。
普段からまだやってもいないことを「がんばります」みたいなことを言い、失敗しても「修正して頑張ります」と言っている人間は、かならず物事が終わった儀式でも嘘をつくものである。辻褄を合わせているのではない。目標自体が嘘であることがあるのである。そもそも物事に抽象的な目標を重ねること自体が難しいのであって、まずは行事そのものを運営する練習をした方がよい。小学校で行事が多いのはそういうことなのである。しかし、これにバカみたいな理念を重ねて説明する癖が大人の側に出来てしまっているのがまずい。
爰則移孝竭主。流涕接僚。佩干將以鏘鏘。搢圭笏而済済。進退紫震俯仰丹墀。入議万機譽溢四海。出撫百姓毀断衆舌。名策簡牘栄流後裔。高爵所綏美謚所贈。豈非不朽之盛事哉。誰莫伉哉何亦更加。
いまでも政治家などは「佩干將以鏘鏘。搢圭笏而済済。進退紫震俯仰丹墀。入議万機譽溢四海。出撫百姓毀断衆舌」みたいな夢を抱いているのであろうか。この先生は鋭い。度し難い不良は、こういう夢に酔い、本当にその夢を実現することを知っているのであろう。忘れがちなことであるが、昔から政治家という者は常識的な意味では普通の人ではなく異常である。
わたくしは、虚栄心というものの分類が一般的に足りない様に思うのである。我々が上手に木彫りの人形を作ったことを自慢したり、かけっこで一番になったので威張りたいとおもったりするのと、天下を取ろうとすることは全く別物の欲望である。いや、これは本当は欲望ではなく、一種の理性なのである。つまり、「褒められたいという理性」という異常形態が極大にふくれあがったものであって、チェスタトン的な意味で狂的である。
こんど攻め込まれている国もあたりまえであるが国内は一枚岩ではない。戦争というのはそこにあった重要な問題を消してしまうことがある。その問題とは普通の欲望の延長線上にあるものだ。日本だってそれでいろいろといままで苦労しているわけであるが、戦争はいつも歴史を単一のレンズ=理性的処理をする狂人がからんでいるに違いない。狂人に普通の欲望は分からない。我々が、近代の日本を考える場合、数回の戦争のことを無視するわけには行かぬ。すべて戦争に結びつく様にみえてしまうのは歴史が虚構じみているのではなく、レンズによって狂ってしまったからである。
ゼレンスキーは、日本に対する演説の中で、新美南吉の「二ひきの蛙」について触れたそうである。喧嘩をしていた二ひきの蛙が冬眠から覚めて再戦しようとする。これはあたかもソ連とウクライナを表しているようでもあるが、冬眠から覚めた二ひきはこうなる。
池には新しくわきでて、ラムネのようにすがすがしい水がいっぱいにたたえられてありました。そのなかへ蛙たちは、とぶんとぶんととびこみました。
からだをあらってから緑の蛙が目をぱちくりさせて、
「やあ、きみの黄色は美しい。」
といいました。
「そういえば、きみの緑だってすばらしいよ。」
と黄色の蛙がいいました。
そこで二ひきの蛙は、
「もうけんかはよそう。」
といいあいました。
思うに、この蛙がてっぽうを持ってなかったから良かった。「ごんぎつね」の兵十みたいに持っていた場合はひどいことになるわけだ。冬眠して仲直りする前に死んでしまう。てっぽうは合理的理性である。しかし、我々はこの理性の奴隷である。
最近の学者への反感は、たぶん、学者が政治家の様な狂い方をしているからである。だから庶民はあたかも「羊の自意識過剰より狼の自意識過剰を問題にしすぎ症候群」に罹ってしまうのである。その結果、かえって羊は反省しない動物として暴走する羽目になる。
昨日、大黒岳彦氏の「情報社会の生成と構造――サイバネティックス運動の理路」という『思想』に連載中の大論文を読む読書会に参加した。大黒氏の企図をやや措いた感想としては、やはりサイバネティックスの起源にも狂気としての理性=戦争があって、それ故、それが結果的に生物学、精神分析、脳科学、哲学等等を巻き込んだ運動と化してしまったために、運動自体が社会化し、しかのみならずそこにテクノロジーによるある種の実現が起こって大変なことになってしまった、という印象を受けた。大黒氏の論文に乱舞する哲学用語、科学用語は、単なる協働ではなく、総力戦の体を示しているようだった。全てがサイバネティックスの運動であるかのように見えてきてしまうこと自体が、サイバネティックス運動の本質であるかに見える。
普通、学会をつくって学問が進んでいるという状態は進歩の象徴である様に見えるが、「船の舵を取る者」を意味するギリシャ語のキベルネテスを語源とするサイバネティックス的な舵取りはある種の異常な状態であり、それが必然として社会全体に広がってしまったのは、我々の社会の学問化としてディストピアである。フィードバックとか客観的に観察可能な行動とか、こんな言葉がシラバス作成の指針にもなっている始末である。
Die größte augenblickliche Besserung der Lage mußte sich natürlich leicht durch einen Wohnungswechsel ergeben; sie wollten nun eine kleinere und billigere, aber besser gelegene und überhaupt praktischere Wohnung nehmen, als es die jetzige, noch von Gregor ausgesuchte war. Während sie sich so unterhielten, fiel es Herrn und Frau Samsa im Anblick ihrer immer lebhafter werdenden Tochter fast gleichzeitig ein, wie sie in der letzten
Zeit trotz aller Pflege, die ihre Wangen bleich gemacht hatte, zu einem schönen und üppigen Mädchen aufgeblüht war. Stiller werdend und fast unbewußt durch Blicke sich verständigend, dachten sie daran, daß es nun Zeit sein werde, auch einen braven Mann für sie zu suchen. Und es war ihnen wie eine Bestätigung ihrer neuen Träume und guten Absichten, als am Ziele ihrer Fahrt die Tochter als erste sich erhob und ihren jungen Körper dehnte.
気分は、「変身」の最後のようである。
淼淼辯泉与蒼海以仏涌彬彬筆峰共碧樹以縦栄。玲玲玉振凌孫馬以連瑤。曄曄金響踰楊斑而貫蘂。
淼淼と広がる弁舌の泉は大海のうねりのようで、彬彬としてすごい文章は深い樹海のごとく栄えてゆくであろう。玲玲と鈴をふるわせる様な文章は孫綽や司馬相如を越えて多くの玉を連ねて鳴り渡るであろう。曄曄として黄金の響くような美しい言葉は楊雄や斑固などを越えて多くの華房を繋いだ様に輝くであろう。
淼淼彬彬玲玲曄曄とうるせえ限りである。孫綽や司馬相、楊雄や斑固まで略されて二字になってしまうこの世界は、我々の心理をなぞる様な曲線的な文章と違い、相似的な表現が規則的に爆発的に増殖して行く。そのためには、エピソードは漢字の中に圧縮されてしまう。我々は、ここに心理のなさをよむかもしれないが、この爆発性こそが心理なのである。
山梨で大学生をやっていた頃、富士急行線にやたらどこかで覚えた漢詩を唸っている酔っ払いがいて、周りの客に絡んでいた。面白いのは、このおじさんが上の様な心理の持ち主だったことで、つい最近までそういう人間は生き残っていたということである。戦時中のプロパガンダもそういうものとの関係で考えなきゃいけない面もある。
実質ばかりの世の中は淋しからうが
あまりにプロパガンダプロパガンダ……
だから御覧なさい
あんなに空は白黒くとも
あんなに海は黒くとも
そして――岩、岩、岩
だが中間が空虚です
――中原中也「(何と物酷いのです)」
プロパガンダと空と海と岩は対応しかけてしていない。岩の数は、プロパガンダの数より多い。こうやって、近代人は正気を保つ様になった。つまり余白や中間や空虚を感じることによって、それを正気と思い込もうとしたのである。しかし、そういう空虚も対応物をもとめる。戦争はそういうものの一つである。
嚮使蛭牙公子若能移翫悪之心専行孝徳。則流血出瓫抽笋躍魚之感。軼孟丁之輩馳蒸蒸美。移干忠義則折檻壤疎出肝割心之操。踰比弘之類流諤諤譽。
孝徳のエピソードは、流血出瓫抽笋躍魚、とさらっと書いているが、異常なものばかりである。高柴が父が死んだら3年も血の涙を流した件。郭巨が母に孝行しすぎて黄金の釜を掘りあてた件。孟宗の願いで真冬に筍が生えた件。王祥のために鯉が氷の中から飛び出した件、である。忠義に関しては、折檻壤疎出肝割心、である。朱雲が帝を欄干をへし折って諫めた件。師経が琴で窓を壊して主君を諫めた件。弘演が主君の死を悼んで自分の肝をとりだした件。比干が主君を諫めて心臓をとられた件。
思うに、孝行は奇跡を生み、忠義は暴力を生むという感じである。――確かに、親孝行というのは果てしなく根気の要るものであって、なんだか親子共々この世ならぬものがみえてきてしまうところはある。で、忠義はそういう根気は否定されている。逆らったらコロされる様な関係なので、主君と部下はコロされるかコロされるかみたいなことになる。
しかしまあ、こういう異常事態をはてしなく並べ立てなければいけないのはなぜであろう?この説教を食らっているボンクラが、少年ジャンプ並の「なんかすげえ」という部分に激しく反応してしまうと思われているからではなかろうか。しかし、バカにしたもんでもなく、人間、倫理以前になんかすげえみたいな感覚に引き摺られている部分は大きい。カントやらなにやらが崇高の概念に理性をくっつけようと躍起になっていた?が、たぶんそううまくはいかない。
源氏物語や平家物語を読んだ外国の方が「この人たちなんか恐えな」と思うのと同じように、「戦争と平和」や「罪と罰」を読んだ我々は、うわっ何じゃこりゃと思うわけだが、それは思考の出発点に過ぎない。しかしこの印象というのは、その実、空海が繰り出している説教の「なんかすげえな」と同じようなものである。もっとも源氏から「罪と罰」までのそれらがテキストであることで、我々は忠義や孝行を人間的な行為として考えることが可能なのであった。その証拠に、上の先生も、このあと、書物を読め、と執拗に主張する。「なんかすげえ」をテキストの議論に移行させようと躍起なのだ。
しかし、――我々の世界は、テキストよりも大きい「なんかすげえ」を所持するようになった。それが科学であり、正確に言えば、科学的な「物象」である。有名なのは「核爆弾」である。昨今の大国は利益のありそうで安全なときだけ他国に介入する。今回のウクライナの場合は、利益よりも損害が大きそう(つまり核戦争になり得る)なので穏便にウクライナがロシアとくっつくことを西洋世界なんかは願っているのはなかろうか。まったく、強い国というのはいつもそのていどの利己的な恐ろしさを許されている。核爆弾というのは確かに抑止力になっていて、お互いの牽制としての抑止、と同時に自分が動かない理由として使うこともできるわけであった。核爆弾は、むしろ核以外の軍事を各国自らの安全立命のために動かす様に仕向けている。だからそれは各国の「利己」ではない。むしろ爆弾の延長としての自己意識に過ぎないのではなかろうか。
われわれは、既に人間的な行為や空想的な行為で人を動かすことが出来なくなってしまったような気がする。つまり主体ではないのである。理念のための戦争はありえない。
昨日、Future Earth 日本サミット2022の全体セッションをオンラインで聞いた。斎藤幸平氏と蟹江憲史氏がSDGsに関して意見を戦わせていた。人新世は確かに人の作り出した世紀なのだが、それによって出現した状態は、人間によってもとに戻せるかは分からない。本当は、社会主義革命だってそうだったのである。今回のロシアの行動は、ソ連というのがまだ終わっていないことを示している。一応、理性の所業としてはじめたことを理性によって制御することはできない。原子爆弾で日本を黙らせたことのある世界は、それを理性的な判断として納得しようとしたが、結局それを諦めた。それは理性の狡知なのだろうか。どうみてもそう思えないし、ソ連の亡霊も物質化した亡霊であってこれからこれによっていまだに我々は動かされる。――このようなことを主張するためには説教でも小説でもうまくいかない気がすることは確かである。無理やりやろうとすると、ナショナリズムやヒューマニズムになってしまう。大江や村上の文學は一応それに挑んでいると思うんだが、テキストや人間よりも大きいものをテキストや人間らしく描いてしまう循環にとらわれているように思われる。
比較は出発に過ぎないのだが、それ以上の観察ができない輩が多すぎる。ロボットなのかな?他大学がやってるとか、文科省が言ってきたとか、それがそのまま認識になる輩もそれで、――彼らは幇間ですらなかった。まだ受験勉強をしているに過ぎない。
如復飽食滋味徒労百年既同禽獣。燠衣錦繍空過四運亦知犬豚。記云。父母有疾冠者不櫛。行起不翔。琴瑟不御。酒不至変笑不至矧。此乃思親切骨不敢容装。又云。隣有喪春不相。里有殯街不歌。是復与人共憂不別親疎。其於疎遠如此。於眤近如彼。故親族不豫莫迎醫嘗薬之誠。則賢士哲夫側目流汗。閭巷有憂無相愁問慰之情。則傍親有識寒心入地。形殊禽獣何同木石。体如人類何似鸚猩。
批判や悪口というのは、比喩に止まっているうちはおもしろくないものである。しかしやっているうちに暴走して面白くなってくることも確かだ。この先生も、これでもかとメタファーピストルを連射しているうちに、うまい料理を百年食ってもなんのことはねえお前は獣か、とか暖かいきれいな衣装をきて一年を送ってもしょうがないよね、お前は犬か豚かよ、とか――言われた方はもしかすると獣たちがうらやましくなってくる始末である。やりすぎた先生は、(現代でも話につまった大学の先生などがそうだが)必殺引用爆弾である。「礼記」にはかくかくしかじかとあるぞと言い始める。父母が病の時には笑わない楽器を弾かない、酒は飲まない、笑わない、――他人のことを大事におもえばそうなるはずだと。そうじゃないひとみたら、心が寒くなって穴に入りたいと思うはずである。(……たしかに、なんだかこういうのは妙な羞恥心が生じるものである)そして、辻褄をあわせるように、お前は形は異なっているが禽獣だ木石だとくる。具体性に欠けるのはだめなので、最後は鸚鵡や猩々か、お前は、となかなかの説教である。
是に比べると、例えば、
もし豚をかくの如くに詰め込みて電車走らば非難起こるべし 奥村晃作
といった表現は、豚に対してシンパイシイと共に激しく馬鹿にするという複雑感情によってなりたっていて、上の先生よりもかなり巧妙だ。しかし、三教指帰のこの先生のような激しい連射もなかなかである。動物たちが生き生きと動き出すかのようだ。
そういえば、テレビでウクライナ問題に関して浅田彰氏がとりあえず逃げろと言ったとかで、私はそれをみていないんでなんともいえんが、もともと彼の逃走というのは、遊撃というかゲリラというかそういう戦法の言い換えみたいところあるから、文字通り逃げることとちょっと違う。氏の「逃走論」がでたころわたしもテスト勉強の合間に読んだけど、その逃走は闘争のいいかえで、まだ都市ゲリラ戦みたいなものを夢みた連中の尻尾をひきずってるんじゃないかなと思ったものだ。確かに勇ましい連中がしばしばその実逃げる機会を虎視淡々と狙ってるような逃避的なやつらであることを戦中派も学生運動のひとたちもいろいろ見てきたわけだから、浅田氏の言うこともリアリティがあったのだ。実際、いまだって逃避するのは非常に難しい勇気のいる行為であることはかわりない。抵抗する気がないとそれはできないからな。ただ浅田氏の場合それがやや西部劇みたいなロマンティクなかんじがして、「ビルマの竪琴」のほうがまだちゃんと逃走している感じがするくらいだった。
――以上思春期の頃の感想である。そういえば、浅田氏はドゥルーズやケージを引きながら動物への変身を主張していた。浅田氏の主張は、当時からモラリッシュであり、こうなるとほぼ儒学者みたいな本質をほんとうは持っているのかもしれなかった。
我々が、なぜ動物への変身を非現実的なものとして退ける様になったのか。たぶん、我々の敵が動物というより機械になったからである。例えば、ツイッターでは、本棚さらすぜとか、地震で本が散乱したぜ、みたいな画像が流れてくるのだが、それをついみてしまうと、なんかみんな似た様な本を持ってるんで、当たり前なんだがすごく憂鬱になる。アマゾンやらで同じような本を買わされていることが分かるからだ。一周まわってというかなんというか、アマゾンやらのロボット力を、屁とも思わないオタクの主体性がこれからは大切な気がしてきたな。あとは、興味が散漫すぎて結果的にレオナルドみたいな何でも屋をやれてしまう天才か。――人間万歳。
と、こうなるから、動物であることよりも人間であることを意識させられている模様なのだ。とはいえ、潜在的な動物への欲望が、猫犬を飼ったり、その画像を眺めることで爆発したりするのである。
東浩紀氏は、オタクと動物的なものについて昔語ったが、オタクたちの危険性は動物的というより、機械に支配されることで頭の悪い人間になってしまうことにあった。東氏は、浅田氏のような遊撃戦士ではなく、つねに構築物の中から構築物を変えて行く様なプロレタリアートの人だからであった。戦争は、彼らのような対立を無効化し、上の先生の親や他人に従うのか従わないのか、みたいな抽象的なことを強要する。こういう現象はまさしく人間的であり、テクノロジーでは解決出来ない。そしてだからこそ、テクノロジーが戦争を支配しなければならないという強迫によってまあ戦自体は終了することがあるのは、我が国が経験したことだ。