★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

既に届いているものがない世界

2024-06-29 23:20:50 | 文学


不安は要りませんか
私の不安
少しわけてあげましょうか
五時の音楽
聴くと
どくんと心臓が波うち
不安の匂いがたちこめる
ヒューストン
ヒューストン
私の声は届ますか
私の不安は届きますか
こめかみの部分
集中して
お腹はざわざわして
ヒューストン
すれ違う誰にでも
この正体知れぬ不安
わけてあげたくなる
ヒューストン
ヒューストン
私の不安
あなたに届きますか


――三角みづ紀「ヒューストン」(『オウバアキル』)


三角みづ紀氏の『オウバアキル』は古本で持ってるのだが、そのあとがきの「大丈夫、私は元気です」という箇所に「志村けんの「大丈夫だぁ」」と鉛筆で注釈をつけている前持ち主よ、お前さんを許さぬ。

たしか三角氏はなにか病気持ちであった。わたくしも小さい頃から体が弱かったが、どこかにそのときの怨恨を封じ込めた。わたくしは思弁で押さえ込むことをかなりはやくから学んでいたためもあるし、わたくしはあまり根本的には人に興味がないのも大きかった。三角氏に限らず、詩人達は人が好きな人が多いとは思う。わたしなんか、上のような場合、「届くはずがねえ」と言い切れる。しかしこの「届くはずがねえ」とは、届くはずのものはすでに届いているはずという理念に対する信頼感の表れでもある。

例えば、すべて人任せのガキと自分で何とかしないといけないガキの違いは、ウルトラマンに出てくる子どもと妖怪人間のベロをみてみりゃわかる。そして前者は未発達な人間に過ぎないが後者は上の理念のようなものである。ベロは子どもの姿をしているが小型の妖怪人間に過ぎない。理念は人間ではない。妖怪人間は人間にならなくて良かった。

わたくしは、少子化の大きな一つの原因は、学校世界や何やらの経験から、少なくない人々が(自分も子どもだったのに)子ども嫌いになっていることが大きいと思う者だ。学校をようやく切り抜けたのにまた子どもにいろいろ妨害されるのかという気分がある気がする。同輩達が上の理念をなくしてしまい、「不安」を押しつけてくるだけなく、勝手に自分のケア係にしようとするからである。ベロは「友達になってくれる?」だけでおわりである。友達になってくれそうというのは、お互いへの実績とは関係なく理念だからである。

『シベールの日曜日』(1962)にもベロみたいな人物達がいた。こういう人間たちは不幸によって出来上がっているのではなく、そろそろ絶滅種だとこの映画は言っていたのだと思う。

そういえば、水島新司の「あぶさん」とか「ドカベンプロ野球編」とかは実在の選手が出てきて顔が微妙に似ていないこともありなんだかなと思っていたが、選手達が鬼籍にはいってゆくと、生きている選手達に会いにゆける漫画としてすばらしいものであることが判明した。で、のみならず――水島新司の女の子は全然だめみたいな意見があるけれども、水島新司が二軍や素人の多様な野球キチガイを多くえがいたように、あまり美的でもない多様な女子もたくさん描いたと言えると思う。「あぶさん」の居酒屋の娘さっちゃんだけは妙に美しく描かれているので、作者自身が彼女に惚れていて、それ以外の女子は多様性以外のなにものでもなかったのではなかろうか。――現代風に解釈すると、こうなるのだが、その実存みたいなさっちゃんの性格もそろそろ絶命種みたいな感じがした。

もう人間には絶滅種以外しか生き残っていないので、希望はうちの庭の蛙ぐらいだ。彼?なんか、若さで浜辺美波に勝っているのではなかろうか。


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