僕の大好きなくらーりねっと
僕の大好きなくら~りねっと
とーっても大事にしてたのにー
壊れてでない音がある~
どーしよ
↓
どーしよ
↓
おぱっきゃまらどぱっきゃまらどぱおぱおぱんぱんぱん
(友よ、一緒に歩もう、的な意味らしい)
が謎だ
が
僕の大好きなくら~りねっと
とーっても大事にしてたのにー
壊れてでない音がある~
どーしよ
↓
どーしよ
↓
おぱっきゃまらどぱっきゃまらどぱおぱおぱんぱんぱん
(友よ、一緒に歩もう、的な意味らしい)
が謎だ
が
山中峯太郎の『敵中横断三百里』は読んでないが、映画は以前みた。日露戦争ものである。確か脚本が黒澤明だ。ナポレオンも
この映画を評価するとすれば、以上のような考え方をするしかない。
そのエピソードとは何か?
斥候が敵中を馬賊などに助けられながら、そして仲間を失いながら、命からがら陣中に帰ってくること、ではない。
馬が乗る人を失って(露西亜軍に撃たれたんだが)も、荒野の中を日本軍の兵隊を捜して追いかけてきたことである。更に言えば、その馬が死んだ兵隊の手袋をくっつけてきたことである。
つまり、エピソードの中心は、馬と手袋である。繰り返す、日露戦争の価値は、馬と手袋である。
学生に勧められて「アウトレイジ」観たんだが、「なんだとコノヤロー」が何回も何回も出てきてもはやここまでくると音楽的ですらあった。というよりボクシングのジャブみたいなものなのであろう。
北野武演じる中間管理職的ヤクザは、ある意味まだ喧嘩や権力闘争をボクシングのような試合だと思っている節があり、だからこそ、暴力団対策のお偉方になりかかっている大学時代のボクシング部?の後輩を、自分の去就にまよったあげくに「体育館の裏」に呼び出してしまう。「一人でこいよ」と。(私は、ここでもしかしたら「キッズ・リターン」のような展開になるのではないかとおそれた 笑)「負けは負け」を認めた北野武が素直に逮捕されると、学校の周りを警官達が取り巻いていることがわかるのだった。刑務所でも野球大会などやってのどかな学校的風景が展開される中で、突然、以前の恨みを持ったちんぴらに刺されてしまう北野武。ヤクザも左翼も、親子関係からは切り離され、孤立して闘争をやるしかなくなり、「義兄弟」や「同志」などというものにイメージ的に頼るさまは、ある意味学校の中での先輩後輩や友人関係に近い訳だが、この映画は、それがいかに本当に孤立しているかを描いていると言えるかもしれない。学校対社会は常に社会が勝つという訳であろう。
どうも、北野武はやはり革命を信じる古風なロマンチストなのではなかろうか。
私は、上の学校対社会はもはや存在していない対立だと思う。宮台真司ではないが、社会が学校みたいになっているというのが実感である。内田樹なら、逆に学校が社会みたいになっているというであろうが、二人が言っていることは実は同じ事態である。「何だとコノヤロー」程度のコミュ力(笑)で社会も学校も成り立っている訳で、イデオロギーや観念を信じられない土壌(というか頭の幼さ)が問題である。イデオロギーなくして親子の愛情や同志愛や義兄弟の契りが内発的になりうるはずがない。
で、北野武を尻目に組織のトップへと昇ってゆく小狡い連中が「悪」であることを真に知らしめるためには、誰かが死ぬしかないのが日本社会ではあるまいか。日本の自殺は、どうもほとんど「抗議の自決」ではないかという感じがする(特に近親者への……。親への抗議はかなりあると私は妄想している……)。いじめが深刻な問題だとはみんな感じているが、社会はいじめ的な何かで成り立っておりそれに諦めて従うしかない(楽だし)、と感じることが大人になることだと思っている昆虫並みの人間の眼を覚ますためには自殺しかないのかもしれないが、ちょっと騒いで騒ぎを忘れるのを待っているのが昆虫の昆虫たる所以である。